雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 前立腺ガン 49 ガンの発覚

2016年03月06日 23時01分45秒 | お知らせ
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 前立腺ガン 49 ガンの発覚


 「ガンです」
 K医師(泌尿器科の主治医で病院の診療副部長)は、いつもの診察の時と同じように、カルテを見ながら、事もなげに言った。
 「えっ、ガンですか?」
 私は、どうすればよいか、そのあとの言葉が出てこなかった。その日は、二十一世紀になった一年目の、七月十日の火曜日であった。

 実は大分前から、オシッコがすんなり出ないので、病院へ行かねばなるまいと思ってはいた。本を見ると、尿道を取り巻いている前立腺という臓器が影響していて、それは血液検査で簡単に分かるという。

 E総合病院の泌尿器科で検査を受けたのは六月末であった。検尿、採血(前立腺ガンの指標と鳴るP・S・Aの数値の検査)、直腸内触診(肥大ではない)と、超音波検査があった。その結果、P・S・Aが八・四五で、四から十はガンを疑うため、前立腺の細胞を採ってガンの有無を調べる「前立腺生検」という一泊入院の手術を受けねばならなくなった。

 「(病名)前立腺腫瘍。

 (検査の必要性及び方法について)前立腺組織内にガン細胞が存在するかどうか、経直腸的超音波断層法を用いて前立腺生検を施行いたします。

 (検査の問題点などについて)検査時間は一〇分程度です。検査後の問題としては、排尿障害、感染(特に尿路)。血尿等が発生することがあります(通常、四~五日程度で消失することが多い)。これらの問題点がありますが。検査で得られる情報が多いことを考慮し、検査を受けることをお勧めします。」

 月が代わった七月二日の月曜日、十時半までに泌尿器外来へ行き、心電図・胸部レントゲンを撮り、十一時過ぎ、五階の五〇五号室へ入院した。

 先の受診の時、フリバス錠(尿道や前立腺の緊張をゆるめて、尿を出し易くする薬)、クラビット錠(感染症の防止)。アプレ
ース錠(胃の粘膜の保護)等のくすりを処方されて、入院日まで服んでいた。

 一日入院なので、持って行ったものは、スリッパ・筆記用具などぐらいであった。着替えしてベッドに横になると、すぐ先生がみえて、抗生物質などの点滴注射を始めた。この点滴は、翌日の退院する昼前まで続けられた。

 午後手術が始まり、組織を採るとき先生が、「パンと音がしますが、何ともないですから」
と言った。なる程、そのあと子供のオモチャのピストルを発射する時のような音が、パンパンと六度した。前立腺全体より、平均的に六ヶ所から採るのが常識のようである。二〇分ぐらいで終わり、室に戻ってから十六時頃まで二時間安静で動けなかった。

 その後は自由であった。次男の嫁さんは入院する時と、夜八時頃、見舞客の制限時間いっぱいぐらいの時来てくれた。睡眠薬を服んだが、夜半トイレに三時、六時と起きた。八時昼食、昼食前の十一時半に退院し,一人で電車で帰った。

 尿の出血も四日の日にはきれいになり、冒頭に書いた通りの七月十日の「ガンの告知」となったのである。
 「癌 悪性腫瘍。癌腫と肉腫があるが、狭義では癌腫をさす・表皮・粘膜・腺組織にでき、治療困難で死ぬことが多い」(西尾実、岩渕悦太郎、水谷静夫編『岩波国語辞典 第四版』)

 即ち「癌」と言えば障害物で、人間にとっては究極的には死を意味する。今まで如何に多くの人びとが、それと闘ってきたか知るところである。私が絶句したのも自然の成りゆきであろう。

 「来週月曜日の十六日にご家族に説明いたしますから、一緒においで下さい。その日に骨シンチグラフィー検査も行います」
 私は院内の公衆電話から。次男の嫁さんの勤め先の保育園に連絡して「ガンだった」と知らせ、十六日は午後なら時間があるとのことで、先生の予約をとった。

 私は、その日の夜、名古屋の長男へ電話して「ガンだった」と伝えたところ、長男は絶句してしばらく無言だったが「ガンだった人でも、元気で働いている人は沢山いるから、心配しなくてもいいよ」と元気づけてくれた。

 十六日の先生の説明のある日まで、私が最も心配したことは、手術をするのかどうかということである。お腹を切られるのは、何とかして避けたい。もし切ると言われたら、死んでもいいから断ろうと思っていた。

 その日がやってきた。午前十一時から骨シンチグラフィー検査のための、放射性同位元素の薬を右腕に静脈注射した。全身に回わるのに時間がかかるので、検査は午後である。先生との話も午後なので、百貨店へ行って中元品の発送を頼み、弁当を買って来て、病院の待合室で食べて時間をつぶした。

 十三時半から約十五分間、次男の嫁さん同席で先生の説明を受けた。前立腺ガンの標識となるP・S・Aは最初に言われた通り、八・三五であり、ガンの進行度はC(ガンが前立腺の外まで広がった状態)で、中分化(中位)のガンであるという。ガン自体はそんなに大きくないそうである。それはそれで、切るのか切らないのか、どうするのかと思っていたら、切らないで内分泌治療法(ホルモン療法)をするとのことであった。思わず、「万歳」と叫びたくなるところであった。

 骨の検査は機械の故障で少しおくれ、十四時半から約四十分行われた。午前中に注射した放射性同位元素から、ガンマ線が放出され、ガン細胞の部分を写し出すのである。その結果とホルモン注射は次回の七月三十日に予定された。骨への転移はなかった。P・S・Aが五十を超えると、転移が疑われるというから、私の場合はまずその心配はなかった。

 最初の検診から一ヶ月が過ぎて、私のガンの現在の症状と,治療方針が決まった。それにしても解(げ)せないのは、難しく言えば「告知の問題」であるが、何故、私一人の時に、早ばやと「ガンです」と知らせたのであろうか。その後、家族同席で説明を受けているのである。この時、告知する方法もある。或いは本人は知らせずに、家族のみに知らせることもある。

 ガンが致命的な病気であるというイメージがまだ強いから、ガンと言われれば、死の宣告と受け取る人もいる。そのため、医師もためらうが、本来は前向きの姿勢で生きていけるようにするためである。私の主治医となったK先生の経歴などは、一切知らない。その人に治療をまかせるのであるから、患者からすれば運を天にまかせるしかない。

 最近はインフォームド・コンセントといって、医師と患者の側で治療方針について説明と同意をとる方法が重視されているので、患者も医師にまかせず、主体性をとるべきである。

 前立腺ガンは、進行が遅いので、多くのものは寿命より長くかかって増殖する。私のように八十代の高齢者は。ガンで死ぬ前に、他の病気で寿命がくるので「天寿ガン」と呼ばれている。先生もそれらの事を勘案して、ガンを告知しても差支えないと判断したものと私は考えた。

  ( 「50 膀胱の手術」に続く )
  

雨宮日記 3月6日(日) 夜まで雨でした

2016年03月06日 22時51分00秒 | お知らせ
雨宮日記 3月6日(日) 夜まで雨でした

 午後から降り始めて夜まで雨でした。

 日本政府が普天間基地問題でついに和解協議に入る。参院選対策とはいえ、画期的なことです。

 沖縄側のつかのまの勝利でしょうか。

   ☆

 3月15日に沖縄海兵隊のオスプレイが今年始めて、東富士に飛来し訓練をおこなうと発表されました。オスプレイは寒いと飛べないようです。果たして暖かくなるか?



 

雨宮日記 3月5日(土) 総がかり行動浜松のビデオ完成まじか

2016年03月06日 22時44分55秒 | お知らせ
雨宮日記 3月5日(土) 総がかり行動浜松のビデオ完成まじか

 昨年8月30日の「戦争法阻止、全国100万人総がかり行動」のビデオをを完成寸前にしました。

 あとは最終回、「津和野ふき」さんにナレーションを入れてもらい、完成です。約50分。

 集会での発言は全文入れました。

 そのあとは「LPM」の編集と、3・1の編集をします。