馬糞風リターンズ

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2200年前の鋳型から復元された銅鐸

2012年02月15日 | 歴史
東大阪市役所ロビーに復元銅鐸が展示されています。
この銅鐸は、30年ほど以前に東大阪市弥生町の鬼虎川遺跡から発掘された銅鐸鋳型の破片を基に復元されやそうです。
鬼虎川遺跡は、弥生時代河内北部一帯にひろがっていたか河内湖の東岸にあり、銅鐸や銅剣、腕輪などの青銅器鋳造の一大拠点であったようです。

 東大阪は「ものづくり」の町として知られています。そこで、2200年前にも「ものづくり」の拠点であったことから、古代青銅器復元技術の第一人者でもある東大阪の「上田合金」がこの鬼虎川遺跡からの銅鐸鋳型の破片から当時の銅鐸を復元して東大阪の「ものづくりの町」をPR仕様と企画されたそうです。


鬼虎川遺跡から発掘された銅鐸鋳型の破片は、上図の右端で銅鐸の右辺底部です。しかし、この鋳型で鋳造された銅鐸が出土していないので全形を復元することができませんでした。
 その後、島根県加茂岩倉遺跡から39個の大量の銅鐸が発見されました。その中の1つ、12号銅鐸は鬼虎川の鋳型の推定品と大きさ、文様などが同じ特徴があることから、鬼虎川で製作され加茂岩倉に運ばれたと考えられています。
今回の復元作業は、この加茂岩倉12号銅鐸を参考に全形を復元したそうです。
  

 高さは加茂岩倉12号銅鐸に合わせて31cmとし、4区袈裟襷文銅鐸としたそうです。
身の厚みは加茂岩倉12号銅鐸の2~3mmにできるだけ近づける努力をしたそうです。(実際にはそこまで薄くはできなかった)
 素材は12号銅鐸と同じ銅にスズを約13%加えてやや白みがかった金色としたそうです。

復元工程は、先ず12号銅鐸を熟覧観察、調査の上、復元図を作成します。
復元図に基づき木型を作成します。(本来は石の鋳型ですが作成上のリスクが多いため木型にしたそうです)
木型の上に珪酸ソーダを含む鋳物用の砂を押し付け銅鐸の型をとります。この砂に炭酸ガスを吹き付け硬化させた鋳型を作ります。硬化した鋳型に離型剤を塗布して鋳型面を焼き固めれば鋳型が完成します。
 同じようにして中型を作り、2枚の外型の間に中型を取り付け、合わせた鋳型がズレないように全体を縛って鋳型が完成します。1200度の鋳造材料を湯口から流し込み、温度が下がったら鋳型を外し、鋳バリ等を除去すれば完成。

 でも、東大阪の職人の技を以てしても弥生時代の銅鐸の厚みを再現することは出来ないそうです。
古代人はどんな技を持っていたのでしょうか?