馬糞風リターンズ

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世界で最初の「松陰伝」・・・・「宝島」のスティーヴンスンが書いた

2015年04月30日 | 歴史
知られざる「吉田松陰伝」 -「宝島」のスティーヴンスンがなぜ? よしだみどり著 祥伝社
この本は、昨年4組のひろてんさん(太田さん)から教えてもらいました。ひろてんさんからこの話を聞いた時は、当ブログには「幕末維新史」は賞味期限切れと云うか興味が薄れていたと云うか、少々食傷気味の感がありました。今年になってNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が吉田松陰が取り上げられました。当ブログの知り合いの女性で大河ドラマフアンでもあり英語に興味のある人がスティーヴンスンの書いた「YOSIDA TORAJIROU]の原文をネットで見つけました。その女性が苦労して翻訳をしたのですが、登場人物、当時の歴史背景、・・・など分からないことが多々あるようで、当ブログに質問してきます。そこで、ひろてんさんが教えてくれたこの本のことを思い出し、今度は当ブログがその女性に教えることになりました。
スティーヴンスンは「『ジキル博士とハイド氏」や「宝島」の小説でその名を知っていますが、彼の家系は灯台建設を専門とする建築技術者であったそうです。スティーヴンスンも当初は技術者を目指していましたが、後に法律家となり、小説・詩・エッセイを手がけるようになったそうです。
  
吉田松陰像                 正木退蔵
 スティーヴンスンに吉田松陰のことを熱く語った正木退蔵は、開校間なしの東京職工学校⇒東京工業大学の校長になった人物だそうです。
お雇い外人第一号 ブラントン  
お雇い外人第一号として知られるブラントンもスティーヴンスン家との関係から日本に招請さえた経緯があります。ブラントンは元々鉄道建設技術者の見習いであったようですが、数ヶ月間スティーヴンスン兄弟社で灯台建設の研修を受けて日本での西洋式灯台建設の仕事をしました。経歴からするとチョッと大胆な気もしますが、ブラントンの日本で残した業績は賞賛に値する立派なものです。
 明治5年に官費留学生として英国エディンバラ大学に留学した藤倉見達と云う人物がいます。藤倉は後に灯台局長になった人物ですが、留学中にスティーヴンスンと交流があったようで、スティーヴンスンは正木や藤倉などから吉田松陰の事を聞き、感動して小伝を書き残したようです。
よしだみどり著知られざる「吉田松陰伝」は、英国の文豪スティーヴンスンが意外にも極東の弱小国・ニッポンの、しかも在野の無位無官の人物の評伝を書いたと言う意外性と従来の松陰伝記と視点を異にした取り上げ方は興味津々でした。ただ、スティーヴンスンの「YOSIDA TORAJIROU]が新発見の新資料と言うわけではなく、その存在は昔から知られえいました。例えば阿部知二の翻訳した「宝島」にはスティーヴンスンが吉田松陰伝のことを書いています。




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