馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

井伊直弼の首

2011年09月16日 | 歴史
桜田門外で時の大老井伊掃部直弼 が水戸浪士たちに暗殺されたのは万延元年(1860年)3月3日上巳の節句です。
 上巳の節句とは陰暦3月最初の巳(み)の日に災厄を祓う行事のことで、ひな祭りの原型になった行事です。
この日、幕閣・重臣は慶賀の祝いを述べるために登城するのが慣例となっていました。
当日は季節外れの大雪で積雪もかなりあった様です。

 襲撃の詳細な様子はネット上でも小説、映画などでも描かれています。
井伊掃部頭の首を挙げたのは、薩摩からただ一人襲撃に参加した有村次左衛門とされています。
郡司次郎正の小説「侍ニッポン」の主人公新納鶴千代のモデルになった人物です。

 有村次左衛門が井伊直弼を引き出して首を落としました。首を持った有村は、満身創痍でよろめきながら日比谷門の方へ向かいました。井伊家の小姓小河原秀之丞は重傷で昏倒していましたが、刀を杖に立ち上がり、有村に追いすがり有村の後頭部から背中を斬り付け致命傷を負わせました。有村は若年寄遠藤但馬守の屋敷門前で力尽きて切腹して果てます。

 急を知った井伊家の家士たちが現場に駆けつけ主人直弼の首の所在を懸命に探査します。
探査の結果、直弼の首は遠藤但馬守の屋敷にあることがわかりました。
彦根藩としては、主人の首を返して欲しいと申し出るわけにいかず、供廻りで闘死した加田九郎太という者が年齢格好が似ていたので、その者の首ということにして飯びつに入れて引き取ったそうです。
本来ならば、藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合、家名断絶になるのですが、「大老は襲われたが、重傷で生存している」として、彦根・井伊家はその間に跡目相続手続きを済ませて井伊家は存続を許されると云う異例の処置がとられました。

 「講釈師、見て来たような嘘をつき」と言われますが、桜田門外の変などは公衆の面前、衆人環視の中で起こった事件ですし、関係者も多くの人が関っていますので、目撃譚や各役所、各藩の調書などが残っていますので、巷間伝わる事件の模様は概ね事実を踏まえているようです。

 「史談会速記録」というものがあります。幕末維新の当事者・関係者の体験・見聞の談話を集大成したもので、明治25年~昭和9年まで連綿と継続刊行され、四百有余冊に及ぶ膨大な歴史証言集です。
その一部は単行本として刊行されてもいますので、比較的簡単に閲覧することができます。
歴史の現場の生の証言だけに下手な小説を読むよりはるかに臨場感があり面白いものです。

 大正5年10月15日に記録された会津の石沢源四郎の談話は「有村次左衛門最後の様子」を語っています。
少々長くなりますが非常に面白いので次左衛門の壮絶な最後の行動を引写しておきます。

石沢源四郎
「只今ご紹介下さいました私は会津の石沢源四郎であります。桜田事件の当時は、和田倉御門内の藩邸におりました。
(中略)
丁度万延元年三月三日は大雪でありました。その時私は中屋敷の宅で、御節句の甘酒を飲んでいると、非常にその通りが騒々しい。(中略)
まだ私は十二か十三のころでありました。(中略)

 暫くすると辰の口において又喧嘩が起ったという話。止めらるるのを構わずソッと抜けて行った。
有村という者が臨終の際に胡坐をかいていた場所が、丁度辰の口の滝がドンドシ流れている所を後方にしてあった。
綴石が二尺位の高サになっている。和田倉御門を出ますと、黒いものが辰の口で藻掻いておる。
又側を見ますと有村のいるところから三間ばかり離れて、石垣を枕にして死んでいる者がある。

そこでそのころは今お話した通り雪が沢山ありまして、私が行った時に有村は胡坐をかいて、短刀を一本持っておる。
装束はどうかというと、撃剣の時に着る刺子みたようなものを下ヘ着て、そうして皮の稽古胴を着ていた。短刀を以て残りの紐を斬ろうとしている。
短刀を以て右の皮胴の方を斬ろうとしたが斬れない。左の方を斬ろうとしたがなかなか斬れぬ。
モウ力が無かった。それから今度はどうしますかと思いますと、私が今考えてみますと、胴を取って腹を切ろうと
思ったが、それが邪魔になるから藻掻いたと思う。胴を取ることが出来ぬから、それではやむを得ぬという覚悟であったものか、短刀を雪の中に突込み、自分がそれへ乗し掛って見当をつけているが、中々見当がつかない。
やや見当がついたと思って、咽喉を当がいますけれども、短刀は右の方へ行って仕舞う。
又残念と思って左の方へ見当をつけてやっても左の方も突けぬ。どうしても就くことが出来ない。

 その際に右の方に置いてあるものがある。それは何かと言えば、稽古胴の皮胴がじとつあった。
それは何だかわからぬ。何物かと思っておりますと、その脇の稽古胴の中へ指を入れまして、たぶさを捉んで持上げた。そうして首を疑視していたが、暫くして又これを胴の中へ入れた。
それから又短刀の上へ乗り掛ろうとしたがどうもいかぬ。
最早精神尽き果てておる。自分の希望を達して首級を取ってそれを眺めている。

(中略)

それで有村はその通り苦しんでおる。周りに立っている者をしきりに拝んで首をやって呉れという風をしたが誰もやる者がいない。どうしても死ねぬことが出来ないので前にある雪を取って口に入れた。
これは何の為かと言えば、そのころ我々が教育されたのに、武士という者は、時によって割腹の覚悟をしなければならぬ。
割腹をした時には大変苦しい。早く死にたければ水を呑めということを聞いておる。
有村は鹿児島の人だというが、そういう教訓を知っていたろうと思います。

「聖代二十五年史」という本がありますが、その中に、桜田の御門外で首を取ったのは有村何某で、それが掃部頭の首級を揚げたと書いてあります。そうしてその首級を揚げた途中で臨終したと書いてある。
そうすると首の行きどころがわからぬ。
これ等が重大なことであろうと思う。それで講釈師などに言わせると、その首級を持って水戸迄行ったという事を言いますけれど、どうも私の考えではあの取った首はつまり脇坂の屋敷へ行ったろうと思う。又行ったという話も聞きます。
又私の父の話すことに微かに聞いておるのに、掃部様の家来の何某という者が時の老中に平身低頭して首を貰ってきたということを話したことを子供心に覚えております。(以下略)

「小説・小栗上野介」(童門冬二)の新聞小説(上毛新聞・神奈川新聞)の挿絵。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿