今日、12月14日は言わずと知れた「赤穂浪士討ち入りの日」です。
今年は、1件の忘年会もなく得意の「長編歌謡浪曲・俵星玄蕃」をご披露する機会もない淋しい年末です。
「江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓・・」の名調子も来年までお預けになりそうです。
所で「討ち入り」と云う奇襲作戦に「太鼓」を叩いて、わざわざ襲撃を相手に知らせるようなことをするものだろうか?
「赤穂浪士」の「討ち入り」に関しては、古代史の「邪馬台国」同様「百家争鳴」で「何が何やら」よく分からなくなっています。
映画やTVでは、「写り映え」から「兜頭巾」に「火事装束」更にその上に「黒と白の段だら模様の陣羽織」、総大将の内蔵助は右手に「采配」左手に「陣太鼓」を持つのが定番の様です。
太鼓と云い火事装束に陣羽織と云い、奇襲作戦には全く不向きな演出は何なんだろうと思ってしまいます。
俗に言う「忠臣蔵」の一連の物語には、巷間流布した「瓦版」「読み物」的要素が多分に含まれており、史実とは言い難いのですが、1次史料である「取調詰問書」「書簡類」「幕府への顛末報告書」「日記類」「覚書」などが刊行されており図書館などで簡単に閲覧できるようになっています。
「太鼓」に関して「討入側」の史料からは携行が確認されないようです。所が「討入られた側」からの資料には「太鼓」に関する記事が散見されます。例えば吉良上野介の養嗣子・吉良良左兵衛の幕府への「口上書」には「浪士が太鼓を打ち鳴らし討ち入った」としています。また甲子夜話(続)(松浦静山)には「夜半過ぎ、はるかに聞こえた太鼓の音は甲州流の押太鼓の音である。おそらく大石内蔵助らが吉良邸へ押入った時の太鼓の音であろう」と書き残しています。
皆さんは「赤穂浪士」が「太鼓」を打ち鳴らしたのか、鳴らさなかったのか、どちらだとお思いになりますか?
僕は「吉良側」としては主人の「首」を取られた「不名誉」を「言い訳」する必要から、浪士と言えども作法に従い整然と行動できる訓練・組織された「正規軍」に等しい一団が「夜襲」を掛けてきた、「だから防御しきれなかった」と暗に言いたかったのではないかと思っています。
更に言うならば「山鹿流」と云うのは「一打ち二打ち三流れ・・」で「三段構え」の兵法だと思うのですが、その「三段構え」の慎重な「作戦」の兵法で「討入」と云う「一っ発勝負」の「戦術」を採用するだろうか?という疑問が残ります。
元禄一五年一二月一四日は新暦では「1月30日」になるそうです。
実際の討ち入りは「寅之一天」一五日の午前四時頃だそうです。小野寺十内の妻への手紙では「夜明けの残月・・・・、提灯の灯りも必要なく、道を間違えることもなかった」とあります。
長編歌謡の一節に「折しも降りしきる雪の中、独りの浪士が雪を蹴立てて・・」とありますが、討入当日は朝から晴天の一面の銀世界であったようです。
そうすると一四日の昼間「南部坂の別れ」や「赤垣源蔵・徳利の別れ」などは雪が降りしきる場面が売りですがおかしなことになってきます。当然、後世の創作と云うことです。
この様の一次史料と言えども「饂飩屋久兵衛口上書」や「泉岳寺書上」など明らかな「偽書」が含まれています。
そんな「忠臣蔵」モノの中で、僕のお勧めは「俳句忠臣蔵」(新潮新書)と云う本です。復本一郎著の江戸期俳句を考証した内容ですが、その中に「摂州紀行」が紹介されています。
萱野三平など赤穂浪士の中には「俳句」を嗜んだ人がいますが、この摂州紀行は萱野三平が同好の俳人と北摂を巡り吟行する内容ですが、萱野三平宅はじめ池田や豊中の東光寺だど、僕の生活圏内が舞台となっていて結構面白い読み物です。
今年は、1件の忘年会もなく得意の「長編歌謡浪曲・俵星玄蕃」をご披露する機会もない淋しい年末です。
「江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓・・」の名調子も来年までお預けになりそうです。
所で「討ち入り」と云う奇襲作戦に「太鼓」を叩いて、わざわざ襲撃を相手に知らせるようなことをするものだろうか?
「赤穂浪士」の「討ち入り」に関しては、古代史の「邪馬台国」同様「百家争鳴」で「何が何やら」よく分からなくなっています。
映画やTVでは、「写り映え」から「兜頭巾」に「火事装束」更にその上に「黒と白の段だら模様の陣羽織」、総大将の内蔵助は右手に「采配」左手に「陣太鼓」を持つのが定番の様です。
太鼓と云い火事装束に陣羽織と云い、奇襲作戦には全く不向きな演出は何なんだろうと思ってしまいます。
俗に言う「忠臣蔵」の一連の物語には、巷間流布した「瓦版」「読み物」的要素が多分に含まれており、史実とは言い難いのですが、1次史料である「取調詰問書」「書簡類」「幕府への顛末報告書」「日記類」「覚書」などが刊行されており図書館などで簡単に閲覧できるようになっています。
「太鼓」に関して「討入側」の史料からは携行が確認されないようです。所が「討入られた側」からの資料には「太鼓」に関する記事が散見されます。例えば吉良上野介の養嗣子・吉良良左兵衛の幕府への「口上書」には「浪士が太鼓を打ち鳴らし討ち入った」としています。また甲子夜話(続)(松浦静山)には「夜半過ぎ、はるかに聞こえた太鼓の音は甲州流の押太鼓の音である。おそらく大石内蔵助らが吉良邸へ押入った時の太鼓の音であろう」と書き残しています。
皆さんは「赤穂浪士」が「太鼓」を打ち鳴らしたのか、鳴らさなかったのか、どちらだとお思いになりますか?
僕は「吉良側」としては主人の「首」を取られた「不名誉」を「言い訳」する必要から、浪士と言えども作法に従い整然と行動できる訓練・組織された「正規軍」に等しい一団が「夜襲」を掛けてきた、「だから防御しきれなかった」と暗に言いたかったのではないかと思っています。
更に言うならば「山鹿流」と云うのは「一打ち二打ち三流れ・・」で「三段構え」の兵法だと思うのですが、その「三段構え」の慎重な「作戦」の兵法で「討入」と云う「一っ発勝負」の「戦術」を採用するだろうか?という疑問が残ります。
元禄一五年一二月一四日は新暦では「1月30日」になるそうです。
実際の討ち入りは「寅之一天」一五日の午前四時頃だそうです。小野寺十内の妻への手紙では「夜明けの残月・・・・、提灯の灯りも必要なく、道を間違えることもなかった」とあります。
長編歌謡の一節に「折しも降りしきる雪の中、独りの浪士が雪を蹴立てて・・」とありますが、討入当日は朝から晴天の一面の銀世界であったようです。
そうすると一四日の昼間「南部坂の別れ」や「赤垣源蔵・徳利の別れ」などは雪が降りしきる場面が売りですがおかしなことになってきます。当然、後世の創作と云うことです。
この様の一次史料と言えども「饂飩屋久兵衛口上書」や「泉岳寺書上」など明らかな「偽書」が含まれています。
そんな「忠臣蔵」モノの中で、僕のお勧めは「俳句忠臣蔵」(新潮新書)と云う本です。復本一郎著の江戸期俳句を考証した内容ですが、その中に「摂州紀行」が紹介されています。
萱野三平など赤穂浪士の中には「俳句」を嗜んだ人がいますが、この摂州紀行は萱野三平が同好の俳人と北摂を巡り吟行する内容ですが、萱野三平宅はじめ池田や豊中の東光寺だど、僕の生活圏内が舞台となっていて結構面白い読み物です。
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