写真は戊辰戦争の際に、佐土原藩主島津忠寛(しまづただひろ)に下賜された御旗。大きさ65cm×354.5cm(宮崎県総合博物館蔵)
東征大総督有栖川宮熾仁親王に下賜された「錦の御旗」は東京国立博物館に「有栖川宮熾仁親王遺品」として収蔵されているそうです。
「トコトンヤレ節」に「錦の御旗」が登場します。
ネット上では沢山の書き込みがありますので参考にしてください。
今風に解釈すると「水戸黄門・葵の印籠」など比べ物にならないほど「威光」のある物のようでした。
日本歴史の特異な、或は特徴の一つとして「王朝」の交代が無い、と言われています。
日本では「天皇・朝廷」に弓を引く、と云う事はないのです。
織田信長の様な革命児でさえ、圧倒的な政治・経済・軍事力を持っていながら、決して「朝廷」を倒し、自ら「天皇」になろうとはしなかったのです。
徳川家康、豊臣秀吉、足利義満、・・なども同様で、比類なき権勢を手中に収め「天下人」となりながらも「征夷大将軍」や「関白太政大臣」と云う風な「冠位」を朝廷から賜り、その正当性を主張したのです。
日本では「正義」や「正当性」は「天皇・朝廷」にあり、そのため「天皇・朝廷」をどちらに取り込むか大問題となります。
一度、「朝廷」の後ろ盾を得ますと、それは「正義」であり「正当」なものとなってしまいます。
朝廷が支持したとなれば「官軍」であり、相手は「賊軍」となり「逆賊」の汚名を着せられ討伐されるべきものとなってしまいます。
「鳥羽伏見の戦」に於いても、当初は大政奉還後の新政府内での「薩長」と「旧幕府」との権力闘争、私闘と看做されていたものが、武力衝突の次の日、薩摩軍の本営・東寺に「錦の御旗」が掲げられた事に依り、「薩長」は「官軍」となり「旧幕府軍」は「賊軍」となってしまいました。この事に依り、多くの「洞ヶ峠」を決め込んでいた諸藩が、雪崩を打って「薩長」に従い、「討幕」が新政権の「意思」となってしまいました。
「錦の御旗」を画策したのは「岩倉具視」とされていますが、戦略的には「最大の効果」をもたらし、以後の歴史を決定付けたかも知れません。
余談ながら、幕末維新は多くの本が刊行されています。また、小説・ドラマ・映画・講談・・・など面白いもなが沢山あります。
それらのものも興味がありハラハラドキドキします。司馬遼太郎の小説も良いのですが、お勧めは、例えば「史談会・速記録」のような、当時の事件現場に居合わせた人たちの「目撃譚」や「日記類」「回顧録」或いは記憶が生々しい時期に書かれた「維新史」などを一読される事も小説の面白さよりも「臨場感」があって「ハラハラドキドキ」ものです。
因みに、鳥羽伏見の戦の緒戦時、大方の両勢力に対する見方、また「錦の御旗・錦旗」の「威光」がどの様なものであったか、この2点を当時の史料で紹介します。
田中光顕(たなかみつあき・土佐藩士、陸援隊士。維新政府では宮内大臣など)
「維新風雲回顧録」より
鳥羽伏見の一戦が、どう進展するか、まるッきり見当がつかぬので、御所でも、諸卿が狼狽気味である。「鳥羽伏見の戦いは薩長会桑の私戦にして、朝廷に関するところでない」
さきには、三十石の竹床の下に、蒲団まきになって亡命したのが、今日は、威風堂々として、山崎の関門にかかる。先頭には錦旗が翩々(へんべん)として、比叡おろしになびいている。
番卒は、異様ないでたちの一行をあやしんだ。
「いづれの御藩でござるか」詰問にかかる。
すると、一行中の波江田浩平が、つと進み出て、錦旗の下に、仁王立ちとなる。
「貴様は、この旗をしらぬかっ」頭から大喝した。
「一向存じませぬ」
「知らぬとあればいうてきかせる、こはこれ、おそれ多くも、天朝よりご下賜の錦の御旗
であるぞっ」
「へへへへっ」
番卒は、錦の御旗と聞くと、そこへ土下座をして、平伏してしまった。
東征大総督有栖川宮熾仁親王に下賜された「錦の御旗」は東京国立博物館に「有栖川宮熾仁親王遺品」として収蔵されているそうです。
「トコトンヤレ節」に「錦の御旗」が登場します。
ネット上では沢山の書き込みがありますので参考にしてください。
今風に解釈すると「水戸黄門・葵の印籠」など比べ物にならないほど「威光」のある物のようでした。
日本歴史の特異な、或は特徴の一つとして「王朝」の交代が無い、と言われています。
日本では「天皇・朝廷」に弓を引く、と云う事はないのです。
織田信長の様な革命児でさえ、圧倒的な政治・経済・軍事力を持っていながら、決して「朝廷」を倒し、自ら「天皇」になろうとはしなかったのです。
徳川家康、豊臣秀吉、足利義満、・・なども同様で、比類なき権勢を手中に収め「天下人」となりながらも「征夷大将軍」や「関白太政大臣」と云う風な「冠位」を朝廷から賜り、その正当性を主張したのです。
日本では「正義」や「正当性」は「天皇・朝廷」にあり、そのため「天皇・朝廷」をどちらに取り込むか大問題となります。
一度、「朝廷」の後ろ盾を得ますと、それは「正義」であり「正当」なものとなってしまいます。
朝廷が支持したとなれば「官軍」であり、相手は「賊軍」となり「逆賊」の汚名を着せられ討伐されるべきものとなってしまいます。
「鳥羽伏見の戦」に於いても、当初は大政奉還後の新政府内での「薩長」と「旧幕府」との権力闘争、私闘と看做されていたものが、武力衝突の次の日、薩摩軍の本営・東寺に「錦の御旗」が掲げられた事に依り、「薩長」は「官軍」となり「旧幕府軍」は「賊軍」となってしまいました。この事に依り、多くの「洞ヶ峠」を決め込んでいた諸藩が、雪崩を打って「薩長」に従い、「討幕」が新政権の「意思」となってしまいました。
「錦の御旗」を画策したのは「岩倉具視」とされていますが、戦略的には「最大の効果」をもたらし、以後の歴史を決定付けたかも知れません。
余談ながら、幕末維新は多くの本が刊行されています。また、小説・ドラマ・映画・講談・・・など面白いもなが沢山あります。
それらのものも興味がありハラハラドキドキします。司馬遼太郎の小説も良いのですが、お勧めは、例えば「史談会・速記録」のような、当時の事件現場に居合わせた人たちの「目撃譚」や「日記類」「回顧録」或いは記憶が生々しい時期に書かれた「維新史」などを一読される事も小説の面白さよりも「臨場感」があって「ハラハラドキドキ」ものです。
因みに、鳥羽伏見の戦の緒戦時、大方の両勢力に対する見方、また「錦の御旗・錦旗」の「威光」がどの様なものであったか、この2点を当時の史料で紹介します。
田中光顕(たなかみつあき・土佐藩士、陸援隊士。維新政府では宮内大臣など)
「維新風雲回顧録」より
鳥羽伏見の一戦が、どう進展するか、まるッきり見当がつかぬので、御所でも、諸卿が狼狽気味である。「鳥羽伏見の戦いは薩長会桑の私戦にして、朝廷に関するところでない」
さきには、三十石の竹床の下に、蒲団まきになって亡命したのが、今日は、威風堂々として、山崎の関門にかかる。先頭には錦旗が翩々(へんべん)として、比叡おろしになびいている。
番卒は、異様ないでたちの一行をあやしんだ。
「いづれの御藩でござるか」詰問にかかる。
すると、一行中の波江田浩平が、つと進み出て、錦旗の下に、仁王立ちとなる。
「貴様は、この旗をしらぬかっ」頭から大喝した。
「一向存じませぬ」
「知らぬとあればいうてきかせる、こはこれ、おそれ多くも、天朝よりご下賜の錦の御旗
であるぞっ」
「へへへへっ」
番卒は、錦の御旗と聞くと、そこへ土下座をして、平伏してしまった。
流罪の頼朝には「手勢の軍事力」がありません。それでも短期間に「平家」を滅ばす事が出来たのは「甲斐源氏の軍事力」にあったそうです。京都に入った鎌倉勢は、頼朝配下の武将が指揮・統制をしようとしましたが「甲斐源氏」の諸武将は、頼朝と対等な意識があり、頼朝配下の式には入りませんでした。官僚主義の頼朝は強く反発して、甲斐源氏の有力武将を鎌倉に招き「暗殺」してしまいます。吾妻鏡など正史には書かれていない「甲斐源氏」の不運無歴史があるようです。
源頼義(八幡太郎義家、加茂二郎義綱、新羅三郎義光ら三兄弟の父)が後冷泉天皇から下賜された御旗が日の丸のルーツとされています。
この日の丸は、嫡男に受け継がれずに三男の新羅三郎が受け継ぎ、次の代も二男の義清→清光父子(逸見氏の祖:冠号小倉)がこれを受け継ぎ逸見家の家宝となります。
清光は子沢山で、嫡男光長(逸見太郎)ではなく二男信義(竹田太郎)が家宝として日の丸を受け継いでいる。それ故、竹田家が保存している日の丸が、日の丸のルーツとされているようです。
妻の家系が清光の嫡男光長(逸見太郎)につながっているそうで、この光長が日の丸を受け継いでいたとすれば、ひょっとして我が家にルーツの日の丸が温存されていたかも知れない、と夢想しながら歴史を楽しんでおります。(あり得ない話ですが・・・・)