馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

お盆ラッシュの最中、懲りずに舞鶴に行きました。

2010年08月15日 | ドライブ・旅行
8月14日(土)。またまた懲りもせずに舞鶴に行きました。
近い関係にあった人が海軍兵学校60期生で、3年前に93歳で無くなりました。
戦後海上自衛隊に勤務し最期の任地が舞鶴でした。海上自衛隊舞鶴教育隊司令で退官しました。その人の遺品整理を手伝っていて、兵学校時代の写真や資料は、昨年呉の兵学校(現海上自衛隊)の記念館に寄贈しに行きました。
60期生卒業記念航海でサンフランシスコを公式訪問した際の記念写真などは貴重なものだったようです。

 今回舞鶴には海上自衛隊教育司令時代の写真資料の処理についてのためです。
舞鶴市史を研究している民間人で、自衛隊近くの煉瓦館の喫茶店でお会いしました。
写真や資料はそのお方に寄託し、以後の処理はそのお方の判断にお任せした方がよいと思いました。

 自衛隊施設や停泊中の護衛艦を「ご案内」しましょうか?お誘いを受けましたが、僕は何処へ行く時でも、普段着で素足にサンダルですから、ちょっと失礼になりますのでお断りしました。特に現在の舞鶴教育隊司令は女性の方だそうです・・。




 「写真・資料」の「お礼」として「復刻海軍割烹術参考書」を頂きました。
「海軍割烹術参考書」は、1908年(明治41年)に旧海軍で誕生したが、100年の時を超えて舞鶴で復刻。そもそも「海軍割烹術参考書」とは旧日本海軍が調理の担当隊員を育成するために編纂された教科書です。舞鶴で復刻されたのは、原本が舞鶴海上自衛隊第4術科学校に大切に保存され、長年人々に受け継がれてきたからです。
もう一つ舞鶴には全国で唯一の海軍の料理教科書が残っています。それが「海軍厨業管理教科書」。このなかに「甘煮」として記されているのが、今では家庭料理の人気ナンバー1メニューとして万人に愛されている「肉じゃが」です。
明治34年、舞鶴海軍初代司令長官として赴任した東郷平八郎が、イギリスで食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に命じてつくらせたのですが、ワインもデミグラスソースもなく、醤油と砂糖で味付けしたのが肉じゃがのルーツになった、というものです。
逸話のもととなった「シチュードビーフ」や海軍から広まった「カレイライス」などが記された「海軍割烹術参考書」と「海軍厨業管理教科書」は当時の食文化を今に残す貴重な遺産でもあるのです。



舞鶴には多くの煉瓦建築が残っており「赤レンガ」として観光名所にもなっています。
「赤れんが倉庫群」の多くは、明治33年から大正10年頃までに建てられたそうです。現在、市民が「舞鶴の観光資源」として再生し当時の道は、赤れんがロードと呼ばれ、レトロで美しい風景が広がっています。
魚雷庫、倉庫など旧海軍関連の施設をはじめ トンネルや橋脚などの生活基盤まで、 舞鶴では日本が近代化を進めていくための礎として さまざまな赤れんが建造物がつくられました。

 舞鶴の近代化に大きく寄与した「赤レンガ」を焼いていたのが、舞鶴市の西の端、由良川河口の「神崎」と云う所です。
「神崎ホフマン窯」は、数年前まで民間の土木建築資材会社が所有していました。その頃は「ホフマン窯」は廃墟となり荒れ放題で、崩れ落ち崩壊寸前でした。その敷地の一角で小型のコンクリート二次製品を細々と製造をしていました。僕が建設資材の仕事をしていた時に一度セールスに立ち寄った事があります。それから時を置かずその会社が倒産してしまいました。
その後、保存運動が起こり現在は「市民団体」が管理していると思います。
連続焼成が可能なホフマン窯は、現在日本で4基しか残っていない貴重な産業遺産で、国の登録有形文化財にも登録されています。
ここで造られた煉瓦は船で舞鶴湾まで運ばれ海軍に納入されました。当時は最高で100人くらい職人がここで働いていたこともあるようです。
 この登り窯は、もともとはホフマン式ではなく、一回焼く度に火を消さねばならないので、大正の末期にホフマン式輪窯に改良されたそうです。
昭和20年代になり、煉瓦の需要も減少し原土も底をつき、同33年頃煉瓦の製造は中止してしまいました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿