馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

聽雨庵を結び旋風と号す。

2016年04月04日 | 歴史
源之助は本業の弁護士としても異色の存在として一定の評価を得ていました。しかし、その真骨頂は源之助翁が深く親しんだ趣味の世界への評価です。その根城となった自宅を「聽雨庵」と名付けて本業そっちのけで源之助ワールドを展開していました。
 万人が認める趣味のその第一は「刀剣蒐集」です。大正末期には「聽雨庵」の箪笥に300振りを蔵していたと云われています。古今の名刀が含まれていたと云われていますが金属製品の所有に制限が加わるような時代背景もあり精選に精選を重ねて50振りを秘蔵していたが昭和20年(1945年)7月4日未明の徳島大空襲で聽雨庵と共に全てが灰燼に帰してしまいました。その損失は今尚好事家の間では惜しんでも惜しみあると残念がられています。当ブログは手を尽くし源之助翁の蒐集していた刀剣の明細を知ろうと試みましたが資料はすべて焼けており往時を知る人も今は死に絶えて調べる術もありません。
「御大典記念 阿波人物鑑」昭和3年・徳島日々新報社刊 

 源之助はまた大変な読書家であり、必然的に膨大な蔵書を有していました。本業の法律関係の書籍は弁護士事務所に収納していましたが、個人の趣味に関わるものは自宅・聽雨庵に置かれていました。大正末期にはその蔵書数1万冊と云われて、その後も増え続けたようです。この頃には「もう普通の書物は読み飽きた」と放言し自ら「変態読書家」と言ってもっぱら奇書、怪書、珍書の類を好んで愛読し蒐集も行った。蒐集癖も強かったのか珍しい本の所在を知ると困難な障害を苦にもせず万難を排して入手していたようです。エピソードとして残っているのは、和歌山県立図書館に「忍術書」があることを知って欲しくてたまらなく人を派遣して写させたこともあったそうです。また、徳島出身の巨人・岡本葦庵の「柯太日記」が樺太庁にあるのを知り、同じく写本してもらい謝礼のほかに当時まだ珍しかったビール1箱を奮発したと言い伝えられています。また、当然の如くY本、Y画類のコレクションも相当数あったようで「どうもあれだけは仕舞う処に困るよ。誰にでも見せれるものではないし、子供が大きくなると・・・」と困惑していたようです。このようなことがあって天下の奇書珍書は徳島にあるともいわれ、中央の文人・学者が訪れることも多かったそうです。聞くところによれば大仏次郎、吉川英治などが小説の取材のため度々聽雨庵を訪れ庵主と歓談したそうです。特に吉川英治が名作「鳴門秘帖」を執筆の際には多大な協力を行ったようです。