『いつも申し上げるように、信仰する人のいちばんの幸せは、仏さまがすべてご照覧だと信じていられることにあります。けれどもときどき、「こんなに一生懸命がんばったのに」「あんなに真剣に祈願したのに」「仏さまは私をお見捨てになったんではないか」と、絶望に打ちひしがれることもあると思うのです。しかし、仏さまはどんなときも、この患難の多い世でのあなたを、しっかりとお見守りくださっておられるのです。
私たちは神仏にお祈りするとき、自分の欲しいもの、自分の願いがかなうようにとお願いしますが、仏さまは、私たちの欲しいものでなく、必要なものをお与えくださるのです。
自分の力ではどうにもならなくなったとき、人はだれしも病気を治してください、子どもが受験に合格しますようにと神仏にお願いするのですが、そのあとに必ず、「でも、み心のままに」とつけ加えることを忘れないようにしている、という人がおられました。
仏さまのおはからいにおまかせしてしまうと、どんな結果であっても、ある時を経て「これがご守護だったのだ」と思い知るときが、必ずくるのです。悲しみや絶望を通してこそ得られる宝物もあるのですね。』
庭野日敬著『開祖随感』より
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