『幸福の女神を「ぜひともわが家においでいただきたい」と招いたら、妹の不幸の女神も一緒についてきてしまった、という話があります。幸福もその裏側に落とし穴があるわけです。同じように、不幸も裏返すとそこに幸福の芽が隠されています。
自分では一生懸命に努力しているつもりなのに、人に誤解されたり嫌われてしまうことがあります。精いっぱいがんばっているのに、逆の結果ばかり出ることもあります。それが続くと、だれもが腐ってしまうのですが、私は、みなさんが頭を抱え込むような、真っ青になるようなことが起こると、「いよいよおもしろくなってきたぞ」と、自分に言い聞かせるのです。自分に不利なことも功徳と受け取る。逆縁も善縁と考えて、努力して解決をめざす。それが仏道修行だと思うのです。
私は若いころ、「あんたは毎日が平穏無事で刺激がないと、のんびりしてしまう。なにか事が起こると発奮する人だ」と言われたことがありました。難題が私には発奮材料なのです。精いっぱい努力をしていれば、必ず見ていてくださる人がいます。かりにだれが見ていなくても、仏さまはすべてご照覧です。それを信じられなくては本物の信仰者といえないと思うのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より