四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

難遭の教え

2016-11-21 08:15:47 | 元気を頂く言葉(庭野日敬師

 『仏法のありがたさを知りながら、それを自分の胸の中だけにしまっておくのでは、懐中電灯を自分の懐の中だけで光らせているようなものです。懐中電灯は、自分の足元を照らすだけでなく、暗闇で道を失っている人の足元を照らし、道を踏み外さないようにしてあげてこそ真価が発揮されます。それが菩薩の生き方にほかなりません。

私たちが毎日、朝夕に読誦(どくじゅ)している『経典』の開経偈(かいきょうげ)には、「無上甚深微妙の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あい)たてまつること難し。我今見聞し受持することを得たり」とあります。そして『経典』の終わりの普回向(ふえこう)で、「願わくは此の功徳を以て 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と唱えます。

百千万劫という年月をかけても遇うことが難しい至高の仏法に遇い得た私たちは、それを「あまねく一切の人びとに及ぼす」ために“選ばれた人”なのです。その役割を仏さまに託されているのです。人びとの足元を照らしてあげるのには、まずわが身を法の光で輝かさなくてはなりません。それが自行です。自ら光を発する者となってこそ、多くの人びとに法の光に浴してもらうことができます。それが化他行(けたぎょう)です。』

 庭野日敬著『開祖随感』より

 

☆道元禅師のお言葉

  『人身得ること難し、仏法逢うこと稀なり。今我ら宿善の助くるによりて すでに受け難き人身を受けたるのみに非ず 会い難き仏法に会い奉れり。

生死の中の善生 最勝の生なるべし。最勝の善身をいたづらにして露命を無常の風に任すること勿れ』

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