昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

アートな瀬戸内の島々へ 直島諸島7島めぐり 1回目

2010-07-31 04:30:00 | 27瀬戸内海・香川県・直島諸島
今回は、2010.6.1~3までに出かけた直島諸島の投稿をします。では、いつものように、その島々のことを書いてみます。

直島 高松市の北13km、岡山県玉野市の南3kmの海上にある。保元の乱に敗れ、讃岐配流の途中に立ち寄った崇徳上皇が住民の素朴さを賞し、直島と定めたと伝えられている。島の北部には、東洋一の金生産量を誇る三菱マテリアル直島製錬所と関連企業、中央部には幼・保一元化や幼・小・中一貫教育と建築美を誇る文教地区、南部には現代美術と出会えるホテルのベネッセハウスや直島国際キャンプ場などがあり、自然と産業と文化の調和がすばらしい島である。また、全国で15番目(島では初めて)のエコタウンの承認を受け、環境型社会の先進地を目指した島づくりを進めている。

向島(むかえじま) 直島港の向い側、150mの海上にあり、直島諸島の中でもっとも直島に近い。先土器時代から弥生時代にかけての遺物が発見され、製塩遺跡や竪穴古墳もある。寛文12年(1672)に7戸29人という記録が残っている。産業は農業、漁業が中心だが、どちらも零細で、ほとんどの住民が直島へ通勤して生計を立てている。

家島 明治4年に塩田が造成されたことで開かれた島。直島港の北1.5kmの海上にある。師楽式製塩遺跡があり、古代には製塩が盛んであったことがうかがえる。昭和30年代には人口30人を数えたが、塩田の廃止で減少、近年までご高齢のご夫婦2世帯住んでいたが、現在は島を離れている。

屏風島 直島港の北4.9kmの海上にある。「屏風七浦」と呼ばれる群島の一つ。岡山県玉野市から海底送水を受けるなど、地理的には岡山県に近接する。明治初年に塩田が開かれた。大正末期には10戸50人を数えている。昭和8年に、東対岸の喜兵衛島との間に築堤され、喜兵衛島養殖場が設立された。産業は漁業が中心で、近年とくにハマチ・ノリ養殖による多角経営化を進めている。

喜兵衛島 直島・獅子渡ノ鼻の北東約2.3kmにある花崗岩の無人島。面積0.17km2・標高45m。瀬戸内海国立公園に含まれる。屏風七島の一つで、古くは几帳島と書いた。島名は鈴木喜兵衛という武士が布陣後この島に居住したことにちなむという。すぐ西にある屏風島との間に細切れの防波堤が組まれ、魚の養殖が営まれている。戦後まもなく100人以上の住民が暮らしていた。島の東側では採石も行われていた。昭和29年から続けられた岡山大学の調査によって、16基の横穴式古墳群が発見され、また南東と北西の浜の2カ所に大規模な製塩遺跡があることが明らかになり、古代製塩業の実態解明に大きな影響を与えた。昭和54年に国の史跡指定を受けている。

牛ケ首島 直島港の北5.8kmの海上にある。岡山県玉野市との間は約1kmともっとも岡山県に近く、経済的にも玉野市の影響が大きい。横穴式古墳などが数基ある。明治9年に塩田が造成されるまでは無人島だった。戦後は直島製錬所の物資を運ぶ、海運業が盛んだったこともある。人口は減少の一途をたどり、近年まで老人世帯2世帯が農業と漁業を営んでいたが、現在は島を離れている。直島と備前胸上の海峡で争いがあり、直島高原勢が牛頭大王神の幟を船の舳先に立て、備前勢と戦ったことから「牛が首」と呼ぶようになったという。

豊島(てしま) 瀬戸内海の東部、小豆島の西3.7kmの海上にある。中央部にそびえる壇山(340m)が最高点で海岸沿いと丘陵地に6がつくられている。豊島石の加工技術を基盤とした石材加工業が盛んで、また、農・水産物の供給地としても重要な地位を占めている。わが国福祉界の草分け的存在である賀川豊彦が力を入れた福祉施設として乳児院、特別養護老人ホーム、精神薄弱者更生施設があり、「福祉の島」と呼ばれるゆえんとなっている。古来から稲作が盛んで豊かなことから豊島と名付けられた。昭和50年代後半から不法投棄された全国最大級の産業廃棄物問題が全国的な注目を集めていたが、平成21年に県と住民の間の公害調停が最終合意に達し、これをバネに新しい島づくりが動き出している。

小豊島(おでしま) 瀬戸内海東部小豆島の西1.6kmの海上にある。島の最高峰・水門ノ尾の北西部に集落がある。3~400年前に石工が定住をはじめ、のちに農漁業が営まれるようになった。温暖寡雨の瀬戸内海気候に属し、産業は畜産業(肉用牛)が中心で、他に漁業が営まれている。現在の島々の中では、畜産で生計を立てる島は珍しい。

寺島 直島北端の製錬所のすぐ北側にある無人島。面積0.23km2・標高84m。瀬戸内海国立公園に含まれる。北側を除いて、風戸の湾に包まれるように位置している。古くから採石場として利用され、島内には樹木をほとんど見ることができない。また、犬石・唐船石などとして知られる石が多い。直島との間にある寺島水道は常に潮流が東から西への片潮で、「汐通し」と呼ばれていた。戦後まもなくまで10人以上の住民が暮らしていた。


尾高島 直島の南約0.2kmにある花崗岩の無人島。面積0.03km2・標高21m。瀬戸内海国立公園に含まれる。崇徳上皇が鷹狩りをしたことからこの名がつけられ、尾鷹島とも記される。ウバメガシ・クロマツ・ツツジ・ヤマモモ・オオバヤシャブシ・カシなどに覆われている。北側に小さな波止場があり、チヌ(クロダイ)・メバル・アイナメなどの釣り場として知られている。

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 54回目 

2010-07-30 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
さらに、先へ進んだところ、オランダ塀がありました。これは、オランダ商館の目隠しと火事などの延焼から守るために設置されたものとのことでした。


(オランダ塀)

オランダ井戸です。これは、オランダ商館の遺跡のひとつです。


(オランダ井戸)

オランダ商館跡は、1641年オランダ商館が長崎出島に移転するまでの間、海外貿易・文化交流の拠点として栄えたところです。




(オランダ商館跡)

オランダ埠頭もありました。オランダ商館跡の一部で、貿易品が盛んに積み降ろされていて、潮の干満を考慮して、階段状に造られています。


(オランダ埠頭)

常燈の鼻といわれるものがありました。これは、平戸が日本で最初の貿易港として栄えていた頃、この場所には多くのオランダ船が入港していて、灯台の常夜灯が平戸瀬戸を航海する船の安全を見守るために造られたものです。


(常燈の鼻)

時間になり、皆さん、集合し、平戸大橋を渡り、長崎空港から、帰宅しました。


(平戸大橋)
(写真撮影:2005.8)

3泊4日の楽しい島旅でした。
次回からは、香川県の直島諸島の島々の投稿をします。
お楽しみに。

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 53回目 

2010-07-29 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
坂の途中で振り返ると寺院と教会が見えました。よくポスターや雑誌の写真に載っている場所ですね。


(寺院と教会が見える場所)

そのお寺が、瑞雲寺です。


(瑞雲寺)

街中に戻り、今度は、市内散策へ出かけました。最初は、幸橋(オランダ橋)へ向かいました。この橋は、三十代平戸藩主の命により、元禄15年(1702)に築造された石造単アーチ橋(重要文化財)で、オランダ商館建造に携わった日本人石工が、地元の石工たちに伝授した架橋技術で建設されたと伝えられるため、オランダ橋ともよばれています。


(幸橋(オランダ橋))

その橋を渡り、平戸市役所へ向かいました。


(平戸市役所)

途中に、イギリス商館跡がありました。


(イギリス商館跡)

港へ戻ってくるとジャカルタに追放された「じゃがたら娘」の像が建てられていました。


(「じゃがたら娘」の像)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 52回目 

2010-07-28 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
定番の「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」へ向かいました。この教会は、天文19年(1550)に平戸を訪れたフランシスコ・ザビエルを記念して、昭和6年に建てられた聖堂です。この周りには寺院も多くあり寺院と教会が同居する平戸独特の風景を作っています。






(聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂)

平戸独特の風景を作っている坂道に向かいました。その途中に、松浦隆信(宗陽)の墓がありました。松浦家28代 松浦隆信(1591年~1637年)は、平戸が最も繁栄した頃の領主だったようです。




(松浦隆信(宗陽)の墓)

寺院と教会がみえる坂を下りました。


(寺院と教会がみえる坂)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 51回目 

2010-07-27 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
次は、宝亀教会に行きましたが、修復工事中で、中を見られませんでした。写真が飾られていて、赤と白のきれいな教会のようでした。




(宝亀教会)

平戸観光のメインの場所へやってきました。ここでは、自由散策ということで、バラバラに行動しました。私は、何度か来ていましたので、外からの散策をしました。最初は、松浦史料博物館です。松浦家伝来の武具(鎧・日本刀)や松浦家歴代当主画像、絵画、蒔絵、茶道具ほか、什器・文書・図書類合わせておよそ12,500点が展示されているようです。


(松浦史料博物館)

多くの明商人が平戸に定住し、平戸を根拠として貿易を行いました。六角井戸は、その当時、明の様式で作られたといわれています。六角形の柵で囲われているのが特徴的です。


(六角井戸)

天満神社の大蘇鉄は、当時の貿易商、川崎屋の庭に植えられていたものだそうです。


(天満神社の大蘇鉄)

広い通りに出てくると平戸城が見えてきました。


(平戸城)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 50回目 

2010-07-26 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
帰りは、西周りの「サンセットウェイ」でした。夕日は、きれいだろうと思われました。途中、岸壁が続きました。鷹ノ巣断崖と聞きました。昔は、鷹が住んでいたようです。


(鷹ノ巣断崖)

生月大橋を見るために、バスから降りて、眺めました。これで、生月島を一周したことになります。


(生月大橋)

生月大橋を渡り、平戸島へ戻ってくると海上に中江ノ島が見えました。生月の隠れキリシタンにとっての最大の聖地、中江ノ島です。


(中江ノ島)

平戸島で最初に向かったのは、紐差教会です。この教会は、昭和4年に、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの東洋屈指の規模で、建設に携わったのは、長崎県内に多くの優れた教会を建設した鉄川与助氏とのことでした。彼が建てた鉄筋コンクリート造り教会としては、熊本の手取教会に次いで2番目で、原爆により旧浦上天主堂が崩壊された後は、日本最大の天主堂として知られていました。






(紐差教会)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 49回目 

2010-07-25 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
海岸線には、大敷網が設置されていました。ここらでは、どんな魚が獲れるのでしょうか。


(大敷網)

今度は、もう1つの観光地である「大バエ」へ向かいました。バスを降りて、大バエへ向かう途中に、昔、遠火番所が置かれていた番岳が見えました。


(番岳)

大バエは、生月島の最北端部の高さ100mの断崖になっていて、その断崖の上に白亜の大バエ灯台が建っていました。この灯台は展望台も兼ねている珍しい灯台です。また、北東方照射灯と書かれていて、灯台本来とは、違った照射をしているようでした。


(大バエ)


(大バエ灯台)


(北東方照射灯)

そこからの展望で、島影が見えました。少し、近い気もしますが、大島と壱岐島でしょうか。


(大島と壱岐島?)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 48回目 

2010-07-24 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
山田カトリック教会内には、きれいなステンドグラスもありました。




(きれいなステンドグラス)


(山田カトリック教会)

次に行ったのは、塩俵の断崖です。塩俵の断崖は、玄海灘の荒波に洗われてできた雄大な亀の甲模様の玄武岩の柱状節理であり,生月島西海岸を代表する景勝地です。この柱状節理は新第三紀(約2500万年前-500万年前)にできた溶岩台地です。柱状節理は溶岩流が厚い部分に発達する場合が多く,玄武岩の柱はほぼ垂直で,さらに水平に亀裂が生じて蜂の巣状の俵を重ねた様になるようです。ここ塩俵の断崖の柱状節理は県内でも代表的なもので、南北に約500mの長さがあり、海面からの高さも20mもあります。また、ここから大バエ灯台まで3.3kmの遊歩道もあります。生月島では大バエ灯台とならぶ観光地です。






(塩俵の断崖)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 47回目 

2010-07-23 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
ガイドさんから、「ガスパル様」といわれました。説明によるとこのガスパル様の建っている場所は黒瀬の辻の十字架と言って生月のキリシタンにとっては信仰の原点とも言える最高の聖地で、1609年、生月で最初の殉教者である西玄可(洗礼名 ガスパル)と家族が殉教した場所とのことでした。


(ガスパル様)

山田カトリック教会に到着しました。この教会は、長崎県内や周辺各地で数多くの教会建築を手がけた鉄川与助の設計・施工によるロマネスク様式の教会堂です。教会内部の壁面には、蝶の羽で作られた装飾画が飾られています。これは1990年頃に、在任していた主任司祭が自ら蝶を採集して作り上げたもののようです。




(山田カトリック教会)




(蝶の羽で作られた装飾画)

7本の剣が刺さった悲しみのマリア像もありました。


(7本の剣が刺さった悲しみのマリア像)
(写真撮影:2005.8)

宇久島・小値賀島・野崎島・生月島 チャーター船もつかってめぐる平戸諸島 46回目 

2010-07-22 04:30:00 | 島旅
次に向かったのは、生月大魚藍観音でした。昭和55年に生月出身の元農林水産大臣、金子岩三氏が舘浦港を見下ろす高台に建立。高さ約18m、重さ150トン、坐像のブロンズ像としては日本最大級とのことです。


(生月大魚藍観音)

堂内には、本尊が飾られていました。


(堂内の本尊)

高台から眺めると屋並みが少し変な形をしていました。家がくっついていました。江戸時代からの名残のようです。




(屋並みが少し変な形)

港には、漁船と大きな船が停泊していました。ガイドさんからは、大きい船で、遠洋に出かけて、3年もすると家が建てられた時代もあったとの説明がありました。


(漁船と大きな船が停泊)

たくさんの墓がありました。この地域では、お盆の時には、3日間にわたり、先祖を供養する行事が、今も残っているとの話がありました。


(たくさんの墓)
(写真撮影:2005.8)