昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(三日目(2)) 11回/11回

2007-02-10 04:44:31 | 08北陸・石川県
途中で、海女さんが出掛けるのを見たので、後を追いかけて、潜る姿を見ることができた。舳倉島の海女さんは年配の方が多く、「島の明日」を考えると少し不安な気がした。


(仕事に出掛ける海女さん)


(潜っている海女さん)

昼食後、いよいよお別れである。民宿の女将さんに見送ってもらい、港へと急いだ。


(民宿の女将さん)

着いたフェリーに島民が数名乗っていくが、直ぐに下船してくる。何かと思ったら、船内の自動販売機でコーヒーやジュースを買ってきたようである。島には自動販売機がないようである。


(ジュースを買って下船する島民)

帰りのフェリーは穏やかで、甲板から遠ざかる舳倉島や七ツ島を見ながら、輪島港へと戻り、バスで高速道路を走り、日本海に沈む夕日を見ながら小松空港へ向かい、帰ってきた。色々な思い出が多数残った島旅であった。


(遠ざかる舳倉島)


(甲板から展望できた七ツ島)


(日本海へ沈む夕日)


(小松空港)
(写真撮影:2004.09)

今日で舳倉島を終わります。明日からは、「奄美大島油井の豊年踊りと喜界島」を23回で投稿します。

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(三日目(1)) 10回/11回

2007-02-09 05:25:29 | 08北陸・石川県
翌日早く散歩していると朝日を見ることができた。


(昇る朝日)

今日もいい天気である。全員でバードウォッチングに出掛け、最初は、野鳥観察舎から覗いていたが、あまり来ないので、島内を歩くことにした。


(野鳥観察舎)

季節が少し早かったが、10数種の渡り鳥を見ることができた。しかし、飛んだり、移動が速く、中々うまくビデオで撮ることはできなかった。


(ノジコ)








(観察できた野鳥)
(写真撮影:2004.09)

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(二日目(6)) 9回/11回

2007-02-08 04:44:53 | 08北陸・石川県
島の裏側の一本道に沿って北へ向かうと「シラスナ遺跡」と「深湾洞遺跡」が点在していて、弥生、古墳、奈良平安の複合遺跡ともいわれている。


(深湾洞遺跡)

その先に、八坂神社があった。この神社は、防疫神として心身の健康を祈願する島民のよりどころである。これで舳倉島をほぼ一周した。


(八坂神社)

夕食後、講師からの野鳥の話を聴き、明日のバードウォッチングの準備をした。


(二日目の夕食)


(講師による野鳥の話を聴講)

外を散歩していた人が帰ってきて、夜空に星がすごく見えると言ったので、全員、星を見に、島の裏側に出かけた。街灯が全くなく、真っ暗な中、全員、道路に寝転び、空を見上げると満天の星と天の川の天体ショーを見ることができた。このような天体ショーを見たのは生まれて初めてである。感動した。
(写真撮影:2004.09)

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(二日目(5)) 8回/11回

2007-02-07 04:56:04 | 08北陸・石川県
民宿で少し休憩し、残りの半周を見るために出掛けた。民宿を出て、少し港へ戻りかけたところに 「やしろ様」とも呼ばれる伊勢神宮があった。


(伊勢神宮)


(やしろ様)

境内の右手に自生する「タブ」の木は、舳倉島で唯一の大木で、神の依代として昔から島民の尊崇を受けてきた。このタブの木は、昭和58年に輪島市指定天然記念物に指定され、全長約12.6m、根回り約4.8m、推定樹齢約300年と言われている。


(輪島市指定天然記念物のタブの木)

そのまま西に向かって歩き、港の中の小島には、弁財天社があり、


(弁財天社)

港を越して更に進むと草叢の中に、大きな鳥居が見えてくる。石がゴロゴロと転がって歩きにくい参道の奥に、民家のようなイメージの社殿が見える。


(大きい鳥居)


(社殿)

拝殿の後方には、石を積み上げた垣の中に本殿が鎮座。社殿の右側には、大和田神社が鎮座している。


(大和田神社)

これが奥津比(姫)神社である。江戸時代に、島の北東部にある伊勢神社の地から、島の南西部へ遷座したために、西宮と呼ばれている。創祀年代は不詳だが、伝承によると、筑前鐘ケ崎の海人が、能登半島沿岸で季節的漁業に従事し、その後、輪島付近に居留するようになったという。そこで、故郷の宗像同様、沖の島に祀ったのが始まりという。
(写真撮影:2004.09)

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(二日目(4)) 7回/11回

2007-02-06 03:54:03 | 08北陸・石川県
灯台を下りて、歩き始めると舳倉診療所が見えてきた。そのまま直進すると島の裏側に出た。島の裏側には民家はひとつもなく、幾つかの小さい祠が点在し、一本の道が通っているだけであった。


(舳倉診療所)

まず最初に、航海と海上安全を祈った金毘羅神社が見えてきた。


(金毘羅神社)

一本道を歩き始めると周囲180mの池、龍神池があり、池の畔に小祠・無他神社、傍らの丘の上に石積垣に囲まれた観音堂があった。


(無他神社と遥拝所)


(龍神池)


(石積垣に囲まれた観音堂)

話として、「藩政末期に一旭上人という僧が島にやって来て、毎晩観音堂に島民を集めて説教をしていた。ところが、いつも末座に若い女がじっと聞きいっているので、ある晩、上人がたずねると、女は「私はこの池に棲む竜なのです。難破船の錨の毒にあたって死んだのですが、未だに成仏できずにいます。どうか助けてください。」と涙を流してたのむのだった。そこで翌朝、島民が池の水をくみ上げたところ、池の底から大小二体の骨が見つかった。この母子の竜骨は法蔵寺分院に葬られた。人々は父親の竜が現在も近くの海に生息していると考え、神として祭って無他神社とした。」と伝えられている。
周囲の海岸には、石を積んだ築山、ケルンが多く見られた。
竜神供養のために積まれた石だが、一説には、標高13mと低い島のため、船から目立たないので、少しでも高く積んで、目印としたともいわれている。


(積み上げられたケルン)

島の北端まで行くと漁業繁栄の祈願所の恵比須神社が岩の上に鎮座していた。これで島をほぼ半周した。


(恵比須神社)

こちらに来る1ヶ月ほど前に、テレビ東京で「舳倉島」を放映していた。その中に出ていたのは、ここの民宿のご夫婦と息子さんであった。こちらでは放映されていないと聞いていたので、録画して持って行き、民宿の食堂のテレビにつなぎ、他のお客さんや民宿の方達と一緒に鑑賞した。民宿の方達には大変喜んでいただき、後ほどダビングしてお送りした。


(放映されて画面)
(写真撮影:2004.09)

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(二日目(3)) 6回/11回

2007-02-05 04:45:42 | 08北陸・石川県
午後は、島内散策となった。港の方に戻り、坂道を登りながら、島の内部へと入っていったら、舳倉分校があった。二宮金次郎の像もあった。


(舳倉島上空写真)


(舳倉分校)


(二宮金次郎像)

その斜め前には、今回の講師がお世話になった駐在所があったが、昔の面影は全くないと言われていた。


(講師がお世話になった駐在所)

来た道の正面上を眺めると舳倉島灯台が聳えていた。灯台は、昭和6年に完成。高さは34m、光達距離は約33km。輪島から職員が1週間交代で勤務している。しかし、2005.4から無人灯台となっている。


(舳倉島灯台)

内部の見学ができるというので、最上段に登った。そこからは360度の展望ができた。天気も良く、能登半島、七ツ島などが遠望できた。東京まで約350kmという掲示もあった。展望所からこの後出掛ける建物や方向を確認しておいた。


(東京まで約350kmという掲示)


(能登半島、七ツ島などが遠望できた)


(緊急ヘリポート)
(写真撮影:2004.09)

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(二日目(2)) 5回/11回

2007-02-04 04:11:05 | 08北陸・石川県
昼食時に、今回のバードウォッチングの講師の方が昔話を話し始められた。しかし、その話がこんな感動的なものになるとは誰も予想はしていなかった。
それは、講師の方が41年前に、大学の写真部の展示会のために、「舳倉島」へ写真を撮りに渡島した。当時の海女さんは「裸で、褌ひとつで潜っていた」ため、どうしても海女さんの写真を撮らせてもらえなかった。展示会の写真として物足りなく、後日、ひとりで「舳倉島」に渡島し、駐在所に泊めてもらい、自炊しながら、海女さんの写真を撮ろうとお願いしたが、駄目だった。 いよいよ帰る日、最後にお願いした若い海女さんに「海の中での撮影を条件」に船に乗せてもらえ、海女さんの写真を撮ることができた。
その後、展示会の写真は殆ど売却や処分した中、「その写真だけは手元に残し、いつの日か渡したい」と思い、今回の渡島時に持参された。民宿の人に見せたところ直ぐに名前がわかった。民宿の人の電話で、ご本人が直ぐに民宿にやってこられた。しかし、ご主人は若くして亡くなられており、「大切な一枚の写真」になったと感動され、時を忘れて思い出話をされていた。その再会に、フラッシュがたかれ、まるで記者会見場の様であった。海女さんは、三輪車の荷台に2枚の写真パネルを乗せ、手を後に添えて帰っていかれた。


(再会の握手)




(撮影された写真)


(あたかも記者会見のよう)


(思い出話をするお二人)



(写真を乗せて三輪車で帰られる)
(写真撮影:2004.09)

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(二日目(1)) 4回/11回

2007-02-03 04:57:45 | 08北陸・石川県
翌日は、晴れであった。港まで宿のバスで送ってもらった。昨日は数日前に通過した台風の余波で欠航であったようだが、今日は、出港するとのこと。一安心である。


(フェリー乗船券売り場)

しかし、台風の余波のため、日本海は大時化で、定期船ニューへぐらは港を出るなり、大荒れで、窓は大波を被り、舳倉島に辿り着くまでに多数の方々が船酔いに悪戦苦闘した渡島であった。


(定期船 ニューへぐら)

定期船に島の人々が荷物を引き取りに来ていたが、この島には車は1台もなく、殆どは、三輪車であった。


(往来する三輪車)

これは海女漁に出掛ける時にも荷物を乗せたり、獲った魚介類を持ち帰るのに便利であるからだ。島内には車もなく、今夜の宿の民宿までは歩きである。板塀の家々が続いている。殆どの家の屋根や軒には瓦が飛ばされないようにロープが置いてあった。


(民宿まで歩きで)


(瓦が飛ばされないように屋根にロープが置かれていた)

しばらく歩くと今晩の泊まる「民宿つかさ」が見えてきた。


(民宿つかさ)
(写真撮影:2004.09)

なお、今日は、動画と2本投稿しています。

「能登沖 海女の孤島 舳倉島」(一日目(3)) 3回/11回

2007-02-02 04:40:54 | 08北陸・石川県
その後は、車窓観光をし、能登島大橋(1050m)を渡ったが、この橋の形が変わっていて、右側にのみ街灯が33本立っていて、バランスを欄干の幅で取っているとのこと。


(能登島大橋)

右側の湾越えに有名な和倉温泉が見えた。


(和倉温泉)

能登半島を北上し、キリコ会館に到着した。能登地方の夏秋の祭礼には各町内からキリコとよぶ巨大な御神灯を神輿(みこし)のお供に担ぎ出す習慣があるそうである。このキリコ会館では能登を代表する各地のキリコが展示してあった。キリコは「切子燈籠」のことで「切籠=キリコ」と略されたようである。「能登国」と書かれたキリコは、能登一高く、高さ15mでビルの4階建てに相当し、重さ2.5tあり、150人で担ぐとのこと。「能」の字だけで畳2畳分あるとのこと。奥の場所でDVDプロジェクターの迫力ある大画面で、「能登のキリコ祭り」を放映していた。


(能登一高いキリコ)

輪島塗を見学して、一泊目の輪島温泉郷の旅館に到着した。風呂に入る前に「漆塗の部屋」を見学した。天井、屏風、座卓、風呂、トイレなど色々なところに漆が塗られていた。


(天井にも漆が塗られてあった)

夕食時には、仲間の腹話術や手品が行われ、賑やかに過ごした。


(一日目の夕食)

その後、「御陣乗太鼓」を聴きに外へ出掛けた。目の前で聴くと腹から地響きのように太鼓の音が伝わってきて、すごい迫力であった。この「御陣乗太鼓」は天正の時代に、上杉勢がこの地方(能登)に攻め入った時に、地元の古老が一計を案じ、杉皮や海藻などで奇異な装いをし、奇怪な面などをつけ陣太鼓を打ち鳴らし、上杉軍に奇襲をかけ敵を敗走させたのが「御陣乗太鼓」の始まりと伝えられている。


(御陣乗太鼓)
(写真撮影:2004.09)