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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り 6回/24回

2007-03-13 04:21:45 | 68西海・長崎県・五島列島
少し街中を歩いて着いたのが福江城跡でした。そこは、五島藩主の居城で、黒船の来航に備えて造られました。これは江戸幕府最後に築かれた我が国で最も新しい城だといわれ、15年の歳月で完成しました。城壁の三方が海に面している我が国ただ一つの海城として有名です。


(福江城址、現五島高校)

現在は、本丸跡に五島高校があり、


(五島高校)

石垣伝いに進むと五島邸(隠居所)がありました。


(五島邸(隠居所))

城門から出て、進むと


(お堀)

三の丸跡に文化会館、城山神社、図書館が建ち、福江の文化ゾーンになっていました。


(文化会館)


(城山神社)


(図書館)

五島観光歴史資料館へ戻る途中に、三方海に囲まれていた名残の船泊まり跡がありました。


(船泊まり跡)
(写真撮影:2007.01)

加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り 5回/24回

2007-03-12 04:37:07 | 68西海・長崎県・五島列島
その後、椿油作りを指導していただいた方にふるさと館内を案内いただきました。最初に「バラモン凧」の説明をしていただきました。「バラモン凧」は、五島に古くから伝わる大凧の名称で、「バラモン」とは、五島の表現で「活発な、元気のいい」という意味で、絵柄には、鬼に立ち向かう武士の兜の後ろ姿が描かれています。裏側には、籐でできた弦が張られているため、大空に舞うとブーンというウナリをあげ、これが悪魔を払うという言い伝えから、五島では、男の子(長男)の初節句に祖父がバラモン凧を贈る習慣があるようです。1つのバラモン凧を作るのに2週間も掛かるようです。また、色々な形のものがあるようです。




(色々な形のバラモン凧)

また、別のコーナーでは、これから行く福江城跡について、古い地図と現在の地図を重ねて説明いただいた。


(福江城の古い地図)

庭を歩いていると「ナンヨウスギ」という樹が植わっていました。少し葉の形が違っていました。


(ナンヨウスギ)

その後、別の案内人の方に福江城跡(石田城跡)や武家屋敷を案内いただきました。まず、武家屋敷通りを見て、


(武家屋敷通り)

今もお住まいになっている上級武士の松園邸へ出掛けました。屋敷は、薬医門があり、溶岩塊を積み上げ、その上に「こぼれ石」といわれる丸石を積み重ね、両端は蒲鉾型の石で止められている石垣がありました。


(松園邸)


(薬医門)


(こぼれ石)


(鉾型の石)
(写真撮影:2007.01)

加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り 4回/24回

2007-03-11 04:28:41 | 68西海・長崎県・五島列島
福江武家屋敷通りふるさと館に到着後、昔の製法で椿油作りを体験しました。


(福江武家屋敷通りふるさと館)

まず、椿の実に焦げ目をつけるくらいに炒り、杵と臼でその実を潰し、お湯に入れて沸騰させ、上澄みをすくい、布を通して搾り出し、それを焦がさないように煮詰めると椿油は完成しました。


(椿の実)


(実を炒る)


(実を潰す)


(お湯に入れて沸騰させる)


(上澄みをすくう)


(搾り出す)


(煮詰める)






(椿油完成)

また、その油を使って、芋のテンプラを揚げてもらい、美味しく食べました。


(芋のテンプラ)
(写真撮影:200)

加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り 3回/24回

2007-03-10 04:51:08 | 68西海・長崎県・五島列島
福江空港から名所の鬼岳へ向かう途中、昼食として五島牛入りの五島うどんを食べました。


(五島牛入りの五島うどんを)

食後、鬼岳に登り、鬼岳展望台からは、南側に黄島(おうしま)、赤島を見ることができました。


(赤島、黄島)

また、北側は、久賀島(ひさかじま)、福江市街地、福江空港を見ることができました。


(久賀島、福江市街地)


(福江空港)

展望台から下ったところに平和都市宣言モニュメント「ココロの球」があり、真ん中で音を出すと響いておもしろかったです。


(平和都市宣言モニュメント「ココロの球」)

ヤブツバキが咲き始めていて、メジロが飛んできていました。


(ヤブツバキ)


(メジロ)
(写真撮影:2007.01)

加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り 2回/24回

2007-03-09 05:00:14 | 68西海・長崎県・五島列島
参加者も10名中2名はリピータのようですが、初めてお会いする方々で、島旅初めてのご夫妻も居られました。今回の添乗員さんとは、3ヶ月振りの島旅でした。羽田空港第二ターミナルに集合し、空路福岡へ飛びました。


(羽田空港第二ターミナル)

途中は少しの揺れがありましたが、眼下に北アルプス、南アルプスの山々、乗鞍、御岳、白山連邦の山々も見ることができました。


(北アルプス、南アルプス)

しかし、飛行機の福岡空港の到着が遅れ、乗り継ぎ時間が10分ほどしかなく、慌しい乗継でしたが、無事、五島列島の福江空港に到着することができました。


(手作業搭乗)


(福江への飛行機)


(福江空港)
(写真撮影:2007.01)


加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り 1回/24回

2007-03-08 04:52:21 | 68西海・長崎県・五島列島
加藤庸二先生の島歩きの学校2007 小正月の奇祭ヘトマト祭り(2007.1.15~17)に参加しました。
この祭りの由来についての定説がありませんが、諸々(もろもろ)の行事を一度に行う祭りとして、全国的に類を見ないものであり、昭和62年に国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。

今回出掛けた島々の概要を記載しておきます。

福江島は、長崎港の西海上約100kmの東シナ海にある五島列島の主島。対馬暖流の影響で気候は温暖、東シナ海の荒波を受けた見事な海食崖や、わが国でも珍しい小型のホマーテ、アスピーテの火山群など、西海国立公園の中でもとくに美しい自然景観を誇る。古くは「大値賀島」と呼ばれ、遣唐使の寄留地や倭寇の根拠地として大陸との交流の中継基地となり、貴重な歴史・文化資源も今も数多く残している。弘和3年(1383)宇久島の宇久氏が福江に進出、文禄年間(1592~96)には五島氏を名乗り、江戸時代に入って1万2,600石の五島藩主として支配した。三方を海に臨む海城として知られた石田城は、黒船の来航に備えて嘉永9年(1849)に築造されている。福江市は福江島の東部に位置し、五島藩の城下町として栄え、現在でも五島列島の政治・行政・経済の中心地。古来、深い入江の「深江」と呼ばれていたが、寛永15年(1638)石田陣屋の竣工を機に、「福江」と改称された。今後は、恵まれた資源をベースとした観光産業もジェット機や高速艇の就航でますます発展しそうだ。平成16年8月1日、福江島1市4町と奈留町の合併で「五島市」が誕生した。

嵯峨島は、福江島三井楽町貝津港から西4km沖合、溶岩と凝灰岩でつくられた島。海に突き出た火山海食崖や西岸に広がる千畳敷と呼ばれる岩場は学術的にも著名である。また、この島の人々に伝わる「オーモンデー」の踊りは、国内のどこにも類を見ない異色の念仏踊りで、国選択無形民俗文化財・県指定無形民俗文化財となっている。地下と竹原の2地区がある。ほとんどの人が漁業に従事し、大型船も数多く導入されていて漁家所得も高い。寛永18年(1641)に異国船遠見番所が設けられ、正保4年(1647)まで国内最西端の番所として重視された。また、五島藩の配流地でもあった。大村藩からの移住者もあり、現在住民の5分の1はカトリック信者である。古くは、流人の島、平家の落人の島として歴史に登場し、「嵯峨島」の「嵯峨」は京都の「嵯峨野」に由来していると伝えられている。

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から

奄美大島油井の豊年踊りと喜界島(四日目(4)) 23回/23回

2007-03-07 04:25:07 | 76奄美・鹿児島県・奄美群島
夕日の散歩道は、長い歳月にわたって波しぶきにうたれ、いろいろな形をした珊瑚礁ある遊歩道。島人は「夕日の散歩道」とも呼び奄美大島本島を望み、落日の金色で染められた景観は感動的なものがある。また、年中釣り人のたえない島随一の大物が釣れる場所である。




(夕日の散歩道)

スギラビーチは、潮の干満に関係なく泳ぐことができる。長さは、250メートルで真白な砂とすきとおった海には熱帯魚も泳いでおり、まさに南国そのもの。夕日が、きれいに見える景勝地でもある。




(スギラビーチ)

僧俊寛は源平合戦の頃に平家打倒を企て、“鬼界ヶ島”に流されたとされている。この地から力仕事とは無縁の男性の人骨と副葬品が見つかり、棺に使われている木も島のものではなかったことから、鬼界ケ島とは喜界島のことで、この場所が俊寛の墓ではないかと言われている。しかし、この鬼界ヶ島は文献上で活火山島であったことなどから、ここの喜界島ではなく、薩摩硫黄島であるというのが歴史学上の定説になっている。


(僧俊寛の像)


(僧俊寛の墓と言われている?)

帰りは、喜界空港から奄美空港に戻り、東京へ帰ってきた。台風が心配されたが、大きな問題もなく、楽しく過ごせた3泊4日の島旅であった。


(喜界空港)
(写真撮影:2004.09)

今日で、奄美大島と喜界島の投稿は終わりました。
明日からは、五島列島福江島の「へとまと祭り」を投稿開始します。
お楽しみに。

奄美大島油井の豊年踊りと喜界島(四日目(3)) 22回/23回

2007-03-06 04:44:32 | 76奄美・鹿児島県・奄美群島
そこで、地元の食材で作った昼食を出していただき、美味しく食べた。菜の花、良く釣れるので地元ではバカイカ、カシワを種味噌和え、島豆腐、紫イモの天麩羅、空豆などを食べた。


(地元食材を使った昼食)

百之台公園は、島の中央部にひろがる標高203mの広大な隆起サンゴ礁の高台地で、眼下には島を囲むリーフに砕ける白波や太平洋と東シナ海の雄大な景観を望むことができた。






(百之台公園からの展望)

奄美最大の気根多発夫婦ガジュマルは、推定樹齢850年・樹高13メートル。
ソテツ巨木は、雄雌異株でこの巨木は雄木である。雌木は赤い梅大位の球果が着生する。果実からは澱粉が採取され食用にも利用されていたが現在は利用していない。生葉を生食すれば酒酔いに有効とされている。庭園、公園樹として最適である。樹高6メートル、胸高囲4.2メートル、樹齢約300年


(夫婦ガジュマル)


(ソテツ巨木)

サンゴの石垣は、台風に備えて先人の人々は、家々の垣根をサンゴでつくり、風を防いだという。サンゴの石垣にはよくハブが住みつくといわれているが喜界島にはハブがいないので保存状態がよく島のいたる所でみかける。貴重な文化遺産である。




(サンゴの石垣)
(写真撮影:2004.09)

奄美大島油井の豊年踊りと喜界島(四日目(2)) 21回/23回

2007-03-05 05:51:38 | 76奄美・鹿児島県・奄美群島
製糖工場で「黒砂糖の製造体験」をした。その前に、キビジュースを懐かしく飲んだ。キビ搾り、加熱作業、アク取り、煮詰め、石灰入れ、撹拌・排出、カット作業の工程を経てサトウキビ100%の黒糖が完成した。


(サトウキビジュース)


(サトウキビ絞り)


(原料投入)


(加熱作業)


(アク取り)


(煮詰め)


(石灰入れ)


(攪拌作業)


(練り込み)


(排出作業)


(固め)


(カット作業)


(完成品)


(絞りカス処理)
(写真撮影:2004.09)

奄美大島油井の豊年踊りと喜界島(四日目(1)) 20回/23回

2007-03-04 04:47:06 | 76奄美・鹿児島県・奄美群島
翌日は、天気も回復し、奄美空港から喜界島までは、上がったら降りる感じのフライト時間であった。


(朝日)


(名残の月)


(奄美空港)


(喜界空港)

喜界空港到着後は、バスで島内散策に出掛けた。まず、恒例となっている喜界郵便局へと出掛けた。


(喜界郵便局)

次に、雁股の泉に出向いたが、ここは保元の乱で伊豆に流された源為朝が南島に向かい、行く手に浮かぶ平坦な美しい緑の島が突然見えてきた。為朝の軍船は、島に近づき住民の有無と敵味方を探るため、船上から為朝の強弓に雁股の矢をつがえ放った。敵対する様子もないので上陸した。上陸して矢を抜き取ると清水が湧き出たのが現在の雁股の泉であると伝えられている。


(雁股の泉)

次のムチャ加那公園は、奄美民謡で有名な「ムチャ加那節」のウラトミ、ムチャ加那を偲んで建立された公園で、ムチャ加那の碑があった。


(ムチャ加那の碑)

また、その下の方には、かつて風葬の習慣があり、風葬跡が残っていた。


(風葬跡)

奄美のハワイと言われている「トンビ崎海岸」に行ったが、岩肌は鋭く、裸足では歩けなかった。


(トンビ崎海岸)
(写真撮影:2004.09)