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新「授業でいえない世界史」 6話の1 古代中国 五代十国~南宋

2019-08-26 08:57:38 | 新世界史2 古代中国

 いま中国史です。中国史をいうときに問題なのは、たんに万里の長城の南が中国と思うんではなくて、万里の長城の北で馬に乗っている人たち、農耕民じゃない人たち、騎馬遊牧民族、または逆にして遊牧騎馬民族、こういった人たちがいることです。
 たぶん顔形は東洋人の顔なんでしょうけど、言葉は中国語じゃないんですね。言葉が違えば民族も違う。民族が違えば文化も違う。こう言った人たちが中国の周辺にうごめいてくるんです。
 その相互作用が中国史なんです。全部わかろうとすると大変なんだけど、ポイントは難しくありません。騎馬遊牧民といっても、その時代時代でメインの遊牧民は一つです。



【五代十国時代】
 300年間続いた唐が滅んだあと、また中国は約50年間の分裂時代になります。五つの国が次々に変わります。これを五代十国時代といいます。
 北の方では五つの国が変わり、南の方では十国がバラバラです。また戦国時代です。
 中国はまとまってはバラバラに、まとまってはバラバラに、これを繰り返します。こういう戦国時代になるのは、北にいる騎馬民族がしょっちゅう攻めてくるから、材料には事欠かないです。
  この五つの国はすべて後をつけて、後梁・後唐・後晋・後漢・後周といいます。漢字で書くから中国人の王朝みたいですが、これらの国の支配層は突厥つまりトルコ人です。後をはずして梁・唐・晋・漢・周と覚えたら楽です。

 

【ウイグル】 唐が滅んだのは907年ですが、それ以前の唐の時代のモンゴル高原は突厥だった。
 その後、同じトルコ族の別のグループとしてウイグルが活動しだした。しかしこのウイグルも、唐の滅亡の前に、敵対していたキルギス840年に攻められてモンゴル高原を出ていかざるをえなくなった。
 彼らは西へ西へと移動していきます。これをウイグルの西遷という。西遷とは西に引っ越すことです。



【中央アジア】 中国の西方、砂漠地帯から、パミール高原、アジア大陸の真ん中あたりまで、そこを中央アジアといいます。そこには超大国はないですが、アジア大陸のへソみたいなところで、西から東からといろんな民族がうごめくんです。意外と注意です。
 ウイグルというトルコ族の一種がまず西に動いて中央アジアに行く。もともとそこは白人が住んでいた。白人といってもイラン系、ペルシア人です。

※ 中央アジアのオアシス民は、古代においてはおもにインド=イラン語系の言語を話す人々であった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P108)


 ウイグルはトルコ族です。だからトルコ人の土地という意味で、この一帯はトルキスタンと呼ばれていくようになります。トルコ人が住んでいる土地という意味です。それまではイラン人やペルシア人が住んでいた。イラン人とペルシア人はだいたい同じです。ペルシア帝国があったところが今のイランという国になっている。

 そこに我々と同じ黄色い顔のウイグル人が来て、そこはもうすでに・・・・・・まだ言ってないけど・・・・・・イスラーム教が広まっていた地域なんです。そこに入ってきたウイグル人はイスラーム教を信仰していきます。モンゴルにいたウイグル人が移動してイスラーム教徒になっていく。
 これが10世紀ごろに起こったことです。この場所が中央アジアというところ、インドのちょっと北西あたりです。  
 


【キタイ】 ウイグルが移動によって、モンゴル高原は空いた。空いたら誰も住まなかったか。そんなことはない。その代わりには事欠かない。いっぱい別のグループがいる。似たような人たちがいるんですよ。彼らがまたそのモンゴル高原に入ってくる。
 彼らをキタイ族という。これを中国人は漢字に当てはめて、なるべく似た名前にした。契丹(きったん)という。キタイ、キッタン、なにか似ている。漢字はもともと音を表す言葉でなくて、意味を表す言葉だから正確な発音を表せないんです。この契丹が乗り込んできて国を建てる。

 彼らは中国文化が上だと知っているから中国風な国をつくる。漢字一文字を当てるんですね。これを「」という。建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)。発音は正確には分からない。
 これが戦うと強いんです。文化的には中国が上なんだけど、喧嘩するとこちらが強い。勉強しないけど喧嘩は強い、そういう人いるでしょう。全然不思議なことではない。



【燕雲十六州】 そこで彼らは中国の一部であった地域、万里の長城の南側、ここの部分を936年に占領する。全体から見るとそんなに大きな地域ではないけれども、中国内の土地が異民族に取られたということで、中国にとっては非常にインパクトが強い。中国人はこのことに強い危機感を覚えた。この地域を燕雲十六州(えんうん十六州)といいます。
 中国にまた異民族が入ってきた。戦争で勝つのは決して文化的に高いところではありません。文化水準が低いところは逆に野蛮だから、野蛮な人間が高い文化を滅ぼすことはよくある。

 中国とヨーロッパの関係もそうです。中国とヨーロッパを比べると、ヨーロッパが文化が進んでると考えたらダメですよ。
 まだヨーロッパにはお金も流通してない。中国にはすでに1000年前からお金が流通している。さらにヨーロッパには紙もない。中国にはすでに1000年前から紙がある。多くの人が文字を書ける。ヨーロッパはほとんど文字を書けない。
 日本の江戸時代だって、ヨーロッパの先端文化は進んでいたかも知れないけれど、識字率つまり国民がどれくらい字を書けるかというと、日本人の識字率が高い。江戸時代の庶民は、学校がなくても、誰から命令されるわけでもなく寺子屋に行き出す。だから識字率は非常に高い。
 そういう平和な国にペリーが大砲向けて来ると、ひとたまりもないわけです。



【宋】
 唐が滅んだあとはどうなったか。これがという国です。960年に建国です。
 5Cの南北朝時代にも南朝に「宋」という同じ名前の国がありましたが、それとは別の国です。


▼北宋と遼


  隋のあとの順番は、隋・唐・五代十国・宋・金・南宋・元とくる。モンゴル帝国まであとちょっとです。秦の始皇帝からもう1000年過ぎました。

 上の図が宋です。都は開封といって、横に川が流れてる。それが黄河です。黄河のほとり、そこにむかし隋が運河を掘った。ちょうどその運河と黄河がつながっているところです。



【文治主義】 この宋という国を作った人は、字が難しいて趙匡胤(ちょうきょういん)という。五代の最後の王朝である後周の軍人です。もとは辺境を守って自分の軍隊を持っていた親分、つまり節度使です。
 彼は軍人ですが、自分が軍人だからこそ軍人の恐ろしさを知ってる。武力で国がコロコロ変わるような社会には飽き飽きした。

 それで文治主義です。「勉強しなさい」という。中国にはすでに試験がある。ヨーロッパは紙がないから試験できない。中国は紙があるから試験ができる。それが科挙です。その科挙を強化する。
 「勉強したやつは役人に取り立てるぞ。政府に抱えるぞ」。今までは節度使のような地方の親分に、地方政治を任せっぱなしだった。しかしこれからは地方に、中央から役人を派遣し地方行政を行おうとした。つまり中央集権をめざすわけです。そのために「頭のいいやつを登用するぞ」、そういう方針を打ち出していく。

 しかしこれはお金がかかりすぎて、財政が回らなくなるんです。いままでは地方のことは地方の親分に任せていた。しかしこれからは中央政府の役人が地方政治を行うことになる。政府の資金で地方政治を行うんです。だからお金が足りない。
 それで1万円札を刷るんです。これが世界初の紙幣です。1万円札を刷る意味は「国家の信用でお金をつくる」ということです。そうやって紙のお金を作り出す。金貨とはまったく発想が違います。これはもともとは商人たちが発行していた手形です。

 では今我々が使っている1万円札も国家が発行しているのか。ちょっと違いますね。今の1万円札は、国家が発行しているのではありません。日本銀行が発行しています。日本銀行で働いている人は公務員ではありません。だから今の1万円札は、政府紙幣とは違う別の何かです。今のお札は正式には日本銀行券といいます。そう1万円札に書いてあります。この銀行券というお金の謎は深いです。


 
【商業重視】 さっき首都が開封に移ったといいましたが、これは何を意味するか。中国はもともと農業中心の国だったんですが、水上交通の便のいいところに初めて首都をおいたということです。
 1番大事なものは、農業ではなくなりつつある。商業重視の国家になりつつあるということです。
 商業が栄えると、商業の同類に貿易がありますから、外国との取引の港として発達してくるのが、この図の広州です。1000年前から広州はあります。

 これが伝統的な港で、今から約200年前にイギリスがここに行きたいけれども、その入り口にある小さな島を手に入れたくて、中国に戦争ふっかけて自分たちのものにした。アヘン戦争です。つまり麻薬を売りつけた。これが今の香港です。
 香港は中国でもずっと南のほうです。北京は当然北方です。北の京は北京。南の京は南京という。南京のそのまたずっと南に香港がある。もともと広州といいます。



【西夏】 ただこの宋は、軍事に力を入れなかったから戦争が弱い。弱いと周辺の人間が暴れまわる。異民族がいろいろ動き出して国をつくっていきます。

 今度はチベット系異民族、騎馬民族とちょっと違って・・・・・・チベットは西のほうにある・・・・・・西夏という国をつくり出す。王様は李元昊(りげんこう)という。李元昊の昊はめったに使わない字です。彼が王様です。
 宋はこの西の西夏にも圧迫されます。北にある契丹の遼にも圧迫されています。毎年、銀や絹などの貢ぎ物を送らなければなりません。戦っても勝てないのです。この貢ぎ物の額が莫大なのです。



【交子】 さらに文治主義にはお金がかかる。学校も実はお金がかかるんです。そのお金がないから、世界初の紙でお金を印刷する。すでに印刷技術があったんです。ヨーロッパは印刷技術がないし紙もない。中国には紙があるし、印刷技術がある。これで紙をお金にすれば簡単だというわけです。
 
 これが世界初の紙幣です。この紙幣を交子(こうし)という。紙幣の発行をします。
紙幣そのもののルーツは中国ですが、ヨーロッパでの紙幣は、のちにまた別のところから発生します。そこには銀行がからみます。これはだいぶあとで言います。このお金は説明し出すとキリがない。簡単に見えてトリックに騙されます。
 この中国の紙幣は、もともと預り証です。預り証というのは、ズボンを買ってスソを曲げのため預けると「1週間後にズボンを取りにきてください」と言われる。そしてその引換券をもらう。1週間後にその紙を渡せばズボンがもらえる。そのときのズボンの引換券といっしょです。その預り証です。
 では紙幣は何の預り証か。中国の本当のお金は銅銭です。銅は重いから、その預けた銅銭の代わりに紙の「預り証」をもらう。でも紙は軽くて便利だから、その預かり証が本物のお金のように流通していく。

※ 10世紀から11世紀にかけて銅銭の鋳造量は20倍にも達したのですが、それでも銅銭が足りず四川などの周縁地域では、鉄が貨幣の素材とされました。・・・・・・そこで、四川の成都で張詠という人物が、唐の飛銭(便銭とも言われた送金手形)にヒントを得て、1002年、「交子」という鉄銭「預り証」を考案します。成都の16人の豪商が組合を作って鉄銭を預かり、「預り証」として「交子」を発行したのです。「交子」は商人の資産の裏付けで発行された手形(約束手形)です。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P73)

※ 中国では歴代のコインをはじめ、多種多様のコインが流通しており、極めて不便だった。そこで、四川の成都の金融業者は、「交子」という手形を発行することで、かさばる鉄銭の不便を避けようとした。
 やがて「交子」の利便性が知れ渡ると、宋は商人組合から手形の発行権を奪い、紙幣としての「交子」を発行するようになった。もともとは銅銭の価値を示し、銅銭と交換することができるとされた手形を、皇帝が価値を保証する紙幣にかえたのである。
 元来、中国の「お金」は素材としてはあまり価値のない銅を用いており、皇帝の権威により価値を付加されていたために、紙幣への移行が比較的円滑に行われたと考えられる。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P43)


 最初は預り証を発行する業者によっていろんなお金がありました。国中に何百種類もの紙のお金があって不便だったから、政府がそれをまとめて発行します。
 中国の通貨の基本は、政府がお金を発行します。今の中国銀行も、政府が実権を握っています。それに対してヨーロッパは、政府がお金を発行していません。政府とは別の、中央銀行が発行しています。
 どっちが発行した方がいいか。これが大問題で決着ついてない。ヨーロッパ型は銀行券です。

 日本は明治初期にヨーロッパ型をまねて以来、銀行券を発行しています。
 しかし江戸時代は違う。江戸時代の金座・銀座は、幕府が経営しています。東京の銀座は、銀貨を発行する幕府の座があったところです。そこからついた名前が銀座です。その銀座を管轄しているのは幕府です。
 ところが明治になると、政府はお金を発行しなくなった。その代わりに三井という民間商人を母体にした日本銀行がお金を発行しだした。それはヨーロッパのマネです。

 ここでは宋王朝が国家として紙幣を発行したということです。政府は「官」だからその紙幣を「官交子」といいます。

※ 優れた紙と印刷技術により作られた「交子」は鉄銭と同価値で流通しますが、紙が素材であるため偽造や詐欺が相次ぎました。・・・・・・そこで北宋の地方政府は、紛争の多発と導銭の準備不足によって不払いを起こした両替商や交子舗(交子を発行していた金融業者)の救済を口実に、利幅の大きい「交子」の発行を商人から政府に移行して新たなビジネスにしました。1023年、北宋は36万貫の鉄銭を準備し、それに89万貫分を上乗せして、125万貫の「官交子」を交子務という役所に発行させます。それが世界初の紙幣です。北宋では価値を担保する鉄銭の3.5倍もの額の「交子」が発行されましたから、政府は巨額の発行益を手にすることができました。・・・・・・古代以来、絶対的な権威を持つ皇帝が天帝の代理人として通貨の発行権を握っていた中華帝国だからこそ、貨幣の素材を「銅」からさらに安い「」に替えても貨幣の信用を保つことが可能だったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P74)

※ 四川の交子鋪が事業に失敗し、銅銭の準備高不足で不払いを起こしました。宋王朝は1023年、交子鋪の救済を行うと同時に、交子両替のビジネスを民間の交子鋪から取り上げ、朝廷の専売ビジネスとします。朝廷が交子を発行しはじめたことによって、交子は公的な兌換紙幣となり、全国に普及しました。これが史上初の兌換紙幣です。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P89) 


 金(キン)と違って、お金がないときでも紙幣はいくらでも印刷できます。それが癖になると歯止めがきかなくなります。お金を印刷しすぎると、物の値段はどうなるか。これは「政治・経済」で言ったことといっしょです。

 物の量が一定なのに、紙幣ばかり印刷したら、物の値段は上がります。これが2倍、3倍だったら普通のインフレですが、100倍を超えるとハイパーインフレとなり、そこまで行くとそんな紙切れをいくら持っていても何の役にも立ちません。そうなると宋王朝が信用を失って、国家が潰れる。紙幣発行にはこの弊害があります。紙幣増刷が危険なのは、洋の東西を問いません。しかし問題は、紙幣を誰が発行するかによって「富の偏在」が発生することです。このことは「富の格差」の問題と関係してきます。このことはヨーロッパの中央銀行のところでもう一度触れます。



【王安石】 紙幣が発行され始めると経済がより活発化しました。しかし紙幣が流通して貨幣経済が発展すると、貧富の差が大きくなっていく。するとお金を儲けた人間が土地を買い占めていき、大土地所有制が広がっていく。農民の生活が苦しくなっていく。
 中国はこの貧富の差を無くそうと努力します。努力した改革者を王安石といいます。

 これは結果的にうまくいきませんが、ヨーロッパはもともとこういう政策がないです。お金はお金のあるところに集まる傾向がある。一部の金持ちと、大多数の貧しい人に分かれる。中国には「こういう社会はよくない」という考え方が前提としてあります。
 ヨーロッパは「自由競争をして富める者と貧しい者が分かれるのは仕方がない」という考え方です。そのことも西と東でだいぶ違います。



【金】 今度は、万里の長城の北で暴れまわる民族が出てきます。これは本当はジュルチンというんですけど、中国では漢字で書くからこれを女真(じょしん)と書いた。女のグループじゃない。中国人が発音をまねただけです。

 この女真族が1115年に国をつくる。これがという国です。金を建国した王様は・・・・・・ここでも中国人はでたらめな漢字を当てますが・・・・・・完顔阿骨打(わんやんあぐだ)という。「なんだこれは」と驚いてしまう名前ですが、そう読むんです。女真族の王様の名前です。
 中国人の宋はこの金にも圧迫される。金は強くなって1125年にまずを滅ぼす。そして翌年の1126年を滅ぼす
 遼は逃げて西のほうで別の国、西遼1132年に作ります。そのときの王様は耶律阿保機ではなくて、その一族の子孫、耶律大石といいます。彼らは中国から姿を消します。



【南宋】
 金に滅ぼされた宋は南に逃げて、翌年の1127年に別の国を作ります。南に逃げた宋だから、これを南宋といいます。都は臨安(杭州)です。

▼南宋と金
 


  この国が1279年までこのあと150年ぐらい続く。これを地図で見ると、12~13世紀の中国は上の図の状態です。南が南宋、北は金です。その国境が淮水(わいすい)です。南宋は北方民族に押された形になります。
 南宋は金に対して中国史上初めて、臣下の礼をとり・・・・・・つまり金の子分となって・・・・・・毎年、銀や絹の多額の貢ぎ物をしなければならないことになります。



【宋学】 南宋は金に頭が上がらない。毎年多くの貢ぎ物をします。その経済的負担は大変なものです。だから紙幣を発行したということは前に言いました。
 しかしそれだけではありません。「漢民族としてのプライドを捨てて、異民族に頭を下げ続けることが人間として正しいことなのか」という疑問がわいてきます。「人間として生きるためには何が正しいことなのか。どういう社会が正しい社会なのか」、そういう疑問がわいてきます。

 それに応えたのが朱子学です。宋学ともいいます。これをとなえたのが南宋朱熹です。朱子ともいいます。仏教などの外来文化ではなく、「中国の伝統文化に立ち返り、その正しさを周囲の国にもちゃんと主張すべきなんだ。そしてそれによって、中国を中心とした国際秩序を作るべきなんだ」と主張します。「正しさを主張するのなら、堂々と外に向かって主張し、その中国の正しさで国外の秩序も維持するべきだ。ところが今は異民族に頭を下げている。」と言います。こういうのを大義名分論といいます。
 これが儒教の正統とされ、このあと日本にも大きな影響を与えます。日本の江戸時代の武士の学問といえば、一言でいうと、この朱子学です。
続く。


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