よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

加賀市の歴史5

2012-04-26 | 

江戸時代に入り40年近く経ってから前田利常の三男、利治がきて大聖寺蕃が始まります。

大聖寺の町には大聖寺川が流れ低湿で地盤が軟弱、街をつくるにはどちらかといえば不適切な場所のようです。それでも、藩邸を構えたのは、越前との国境にあって、一向一揆の元になった吉崎御坊の近くでもあり、戦略的に重要な場所だからなんでしょうね。平和な江戸時代になっても武将たるもの戦を考えないわけにはいかなかったということでしょうか。 というわけで、大聖寺は頻繁に水の被害に遭うことになるのです。 

本書に大聖寺蕃史から作成したという近世の災害略年表というのがありました。

それをグラフ化したのが下の図です。



グラフは、水害(台風含む)、火災、地震、飢饉についてのもので発生件数を累積しています。

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さて、江戸時代後半となる1760年以降の水害発生率は約5年に一度の割合で起きています。 それ以前は20年に一度ですから、1760年を境に急増しているともいえますが、火災も同じく変化しているので単に記録上の問題なのかもしれません。 ところで、日本全体の人口は、1600年に2200万人だったものが、1650年には2500万人(300万人:14%増・、1700年・2900万人(400万人:16%増)、 1750年・2900万人(±ゼロ)、 1800年・2800万人(100万人:3.5%減) というように、前半は増加しているものの、後半は停滞から減少に至っています。 減少の原因としては天明の大飢饉や天保の大飢饉など、天候不順によるものは当然として、制度疲労による生産性の低下がありそうです。 こうした傾向は大聖寺蕃も同じだったはずです。 それで、前半に災害が少ないのは、平和で経済や文化が発展する高揚感の陰になったとか、発展途上にあって被害を受けるほどの規模に育っていなかったということかもしれません。

どちらにしろ、大聖寺以外の災害記録(水害・火災・地震など全てを含む)に比べると、その多さが際立っています。

今でこそ、大聖寺川上流に2つのダムができて、河川の改修もされて水害に遭わなくなりました。 ほんとありがたいことです。 とはいえ、この先も大丈夫かどうか分からないので、新たに住むのなら山に近いところの方が安全かもしれませんね・・・千年、二千年、生きられるわけでもないので考えすぎか (^^;

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