会津の重ちゃん日記

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戊辰150年 その15

2018-06-19 22:27:37 | Weblog
2018年6月19日(月)晴 30.3℃~16.3℃
「女性たちの会津戊辰戦争 自刃 」

二、自刃した女性たち

会津若松の武家屋敷第二資料館に、西郷一族の集団自決の現場が人形で再現されている。
(写真は和田義男氏のHPから)
舎熊を被って抜刀して立っているのは長女、細布子を介錯した土佐藩士、中島信行だが、近年、彼ではないという説がある。


会津戦争で城下の自刃者は、わかっているだけで二百三十余人。
家族、婦女子の自刃は、捕われの恥辱を受けんが為であり、鶴ヶ城内に籠城する家の当主や男子の足手まといにならないよう、後ろ髪引かれるようなことのなきようと願う為。幼子がいるので籠城戦の足手まといになると思ったのでしょうか?

①西郷頼母の一族
 慶応4年8月23日(1868年10月8日)会津藩家老西郷頼母邸において、西郷一族二十一名が集団自決をします。この日、西郷邸には頼母の家族の他に、支族や親戚の者が居合わせていました。敵の侵入を知らせる半鐘が鳴り響く中、知人である高津家の人が一緒に入城することをすすめますが、頼母の妻、千重子(ちえこ)は「最後のときが来るも、入城しないことにしております。」と述べこれを断るのです。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は養母・西郷律子、まだ自害できない幼子を刺し、我が子の死を確認すると返す刀で喉を貫ぬいた。家族9人が死んだ。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。一族21人の悲劇。

実際、そうだったと思う。だが、西郷家の婦女たちの自刃は別の側面があるような気がしてならない。気の毒だが西郷一族の女性たちが入城できるわけがないのだ。入城したら周囲から白眼視されるに決まっている。当主と嫡男が籠城戦闘員から外され城外に放り出されたのがその証です。
入城に遅れたのではなく、入城できなかったのです。
藩内で微妙な立場となっていた夫の名誉、西郷家の名誉を守るための自刃であったとも伝えられている。

②柴家のこと
 歌人一同白衣を着け、仏前に集まり、後事及び介錯を親戚の柴清助(70歳)に託し、つね子(80歳)、ふじ子(50歳)、長男太一郎の妻とく子(20歳)、妹さよ子(7歳)、と共に自宅に火を放って自害する。

③河原家のこと
 河原善左衛門の妻アサ、白無垢に着替え、喉を貫いた老母(67歳)の介錯をし、娘國子(8歳)を斬り、二首を菩提寺に仮葬し、讃岐門より城にはいる。

④中野慎之丞の家族のこと
 中野慎之丞の妻やす子(34歳)は、老衰で歩けない父大次郎(72歳)を介錯し後、我が子4人(15歳~6歳)を刺し、義弟の妻子を去らしめた。
自宅に火を放ち自刃し井戸の投じて染んだ。

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