桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

土浦再訪(2)

2011年01月22日 19時07分19秒 | 歴史

 土浦再訪の〈つづき〉です。

 郁文館正門から千束町という交差点に出て左折。高架になった道路の下をしばらく歩くと、鍵形に曲がった道に出くわしました。その道に入って行くと、少し先でまた鍵形に曲がっています。標識らしきものは見かけませんでしたが、道筋だけは昔のままのようで、旧水戸街道なのであろうと見当がつきました。鍵形に次ぐ鍵形の道路は城下町ならでは、です。
 少し歩くと、細い路地の先に朱塗りの御堂が見えました。慶長十二年(1607年)創建の曹洞宗東光寺です。



 東光寺瑠璃光殿。元文四年(1739年)の建立。
 瑠璃光というからには薬師如来が祀られているものと思われますが、説明板の記述は御堂のことに終始していて、祀られているであろう仏像については一言も触れられていませんでした。



 東光寺本堂。
 民家に押し潰されるような形に境内があります。狭いところによくぞ建てたり、と感心するような伽藍の配置です。画像右上の庇は瑠璃光殿。



 浄土真宗大谷派等覚寺。創建は建仁年間(1201年-04年)。
 創建当時は極楽寺といって、土浦市街の北西7キロほどの藤沢城内にありました。江戸時代に入った慶長五年(1605年)、藩主となった松平氏が現在の地に再興。このときに寺の名も改められました。



 等覚寺の銅鐘。鎌倉時代の建永元年(1206年)の銘があり、年代が明確なものでは関東では最古といわれます。国の重要文化財です。



 旧水戸街道沿いには古い蔵が残されています。「しるこ」という電飾看板の掲げられた店。「しるこ」というのは店の名か、汁粉屋なのか。
 ほかに店の名を記した看板はなさそうですが、店は閉まっていたので、何を生業としているのか、不明のまま。



 矢口家住宅。嘉永二年(1849年)の建築。
 土蔵造りは天保十二年(1841年)の土浦大火後、瓦葺きの屋根などとともに防火の備えとして取り入れられたものです。

 


 旧水戸街道を挟んで向かい合わせの上・野村と下・大徳。
 野村は江戸時代後期から明治時代初期に建造された蔵で喫茶室があり、予科練関係の資料も展示されています。
 大徳は天保十三年(1842年)の建築。大正時代は呉服屋として栄えた店です。いまは観光協会の事務所が設けられ、土産品の販売、資料の展示などを行なっています。



 江戸後期の地理学者であり、天文学者の沼尻墨僊(ぬまじり・ぼくせん)が享和三年(1803年)に開いた寺子屋・時習斎の跡です。
 野村の先、引っ込んだところに御堂が見えたので寄ってみたら不動堂でした。隣に小さな琴平神社があり、その境内にこの塚がありました。

 琴平神社のすぐ脇には長唄小唄の教室がありました。戸はアルミ製に変わっていましたが、格子戸で、引けばカラカラといい音がしそうでした。路地は抜けられるようになっていて、この一画だけ江戸情緒が残っていました。

 城下町にしてはお寺の少ない街です。そう思いながら、行きに歩いてきた駅前通りを突っ切ると、民家の陰に隠れるように御堂がありました。

 


 臨済宗済岸寺です。
 土浦駅から歩けば十分ほどのところですが、裏手は広大な墓地でした。墓地に面して民家の縁側があったりします。御堂が瀟洒なところからすると、墓地がイヤに広いと思ったら、いくつかのお寺の墓地が背中合わせになっているのでした。

 下は済岸寺墓地で見つけた土浦藩儒であり、侍講でもあった中田正誠(1813年-57年・号は平山)の墓。



 済岸寺近くで見かけた土浦の猫殿。
 白猫は三倍ほどもありそうな黒猫の身体に押しのけられて、私が置いた餌にありつくことができません。安心して食べられるようにと、少し離れたところに置いてやったのに、気づかない様子です。やがて黒猫が見つけて、それも食べられてしまいました。
 しかし、喧嘩をしたり、威嚇し合ったりはしない。毛並みはまったく異なるけれども、親子のようです。



 浄土宗高翁寺。永禄三年(1560年)の開創。
 ここに「ブラリひようたん日記」で知られる高田保(1895年-1952年)の墓があったと知ったのは、家に帰ってからのことでした。



 阿弥陀院。
 名残は何もありませんが、江戸時代はこのあたりに水路があって、積み荷を積んだ舟が行き交ったようです。あたりには船頭たちを相手にした料理屋や旅籠のある盛り場であったそうです。



 千手院。
 済岸寺の墓所からこのお堂が見えたので、行ってみようとしのですが、柵があって行けませんでした。どんな仏様を祀っているのかわからないまま行くのを諦めたら、意外なところに路地があって行き着くことができました。



 土浦駅近くまで戻ってきたら、「さくら通り」という歓楽街がありました。通りの名はさくらでも、桜の樹はどこにもありません。賑わっているように見せるための、べつのサクラという意味か?

 病気をしてから外で呑むことはなくなりましたが、私は若いころからこういうところには鼻が利く、という天分があります。
 出張などで、見ず知らずの町へ行っても、誰に訊ねることもなく、寝るまでのしばしの時間を過ごす歓楽街がどの方角にあるか、ということがわかったのです。しかし、いまや無用の長物となりました。



 観光協会のあった大徳で、蜆(シジミ)のしぐれ煮と公魚(ワカサギ)の甘露煮をお土産に求めました。家で待つ者などいないので、酒の肴として我が胃の腑に収まるのみ。

この日歩いたところ


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