桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2018年五月の薬師詣で・板橋区

2018年05月08日 23時37分03秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では、天候が危惧されたので、懸案だった茨城県美浦村へ行くのはやめて、板橋区の志村坂上あたりを歩くことにしました。

 予報では日中は曇でしたが、朝と夜は雨。
 帰り近くになって雨になるかもしれぬと思われたので、折り畳み傘を持ち、巡るところも、薬師如来を祀る三か寺のみにして、できるだけ速やかに行って帰ろう、と決めました。



 出かける前に地元の慶林寺に参拝して行きます。このところ、門の閉ざされていることが多くなりました。



 毎日の日課にしている参拝は、門が閉まっていれば、門の外で手を合わせるだけで済ませますが、薬師如来の縁日である今日は、お賽銭をあげることにしているので、通用門から入って、香炉と一体になっている賽銭箱にお賽銭をあげ、香炉の後ろにある小鐘を撞いて、参拝します。



 河津桜が満開だったころ、同じように咲き誇っていた白梅の樹に梅の実が生っていました。



 常磐線直通の東京メトロ千代田線で大手町まで行き、都営三田線に乗り換えて、志村三丁目で降りました。
 一つ前の志村坂上を出ると、線路は地上に出て、高架になります。この先、終点の西高島平までずっと高架。
 都営地下鉄というのは乗る機会に恵まれません。いわんや東京都民ではなくなった現在をおいてをや、です。記憶が確かであれば、巣鴨から先、高島平方面に乗ったのは、およそ四十年ぶり。

 駅を出ると、真ん前にファミリーマートがありました。そこで冷たい烏龍茶を買って歩き始めます。
 いつもは500ミリリットルのペットボトルに四分の三ほど黒烏龍茶を入れて、前夜から冷凍庫に入れて凍らせておき、出かける直前に常温の黒烏龍茶を足して持つ、というのを通例にしているのですが、この日は何を慌てたものか、ちゃんと用意しておいたのに、持つのを忘れていました。忘れていることすら忘れていて、大手町で都営三田線に乗り換え、座席にどっかりと坐り込んで、サテと一息つくまで、忘れていることに気がつきませんでした。



 環八通りに出て、画像奥のほうに見えている、首都高速の高架と出会うところを目指します。



 志村三丁目駅から十五分で今日最初の目的地・蓮華寺に着きました。
 真言宗智山派の寺院です。



「新編武蔵風土記稿」には「本尊薬師を安ず」とあるだけで、どのようないわれのある薬師如来像が祀られているのかわかりません。また創立年代も、開山がだれかも詳らかではありません。
 当初、荒川河畔に建立されていたようですが、しばしば荒川の氾濫に遭ったので、元禄の初めかそれ以前に現在地に移転したようです。



 蓮華寺への参拝を終えたあと、環八通りを引き返して、都営三田線のガードをくぐり、中山道と交差する志村三丁目交差点に出ました。


 
 

 都心方向に向かう中山道は緩い上り坂になっています。いわくありげな門があったので、近づいてみると、薬師の泉という木標がありました。



 薬師池。映っていませんが、画像奥のほうには小さな滝があります。

 ここはかつて大善寺という曹洞宗の寺院があったところです。室町時代に開かれたという古刹で、江戸時代、八代将軍・吉宗が志村周辺で鷹狩をした際、この大善寺に立ち寄り、境内に湧きい出る清水を飲んで、その美味さを愛で、本尊として祀られていた薬師如来に「清水薬師」と名づけたといわれています。



 このあと訪ねる総泉寺は隣接しているので、そのまま繋がっているのかと思いましたが、一旦外に出なければならないようでした。




 今日二つ目の目的地・総泉寺に着きました




「く」の字型に曲がった坂を上り詰めると、大きな山門がありました。



 山門前にあった清水薬師如来の碑。



 元は浅草橋場にあった寺院で、板橋区立郷土資料館が発行している「いたばしの寺院」によると、「創立は建仁元年(1201年)二月。開基は千葉介。開山僧は不詳。当所は法相或いは律相であった。後、禅宗となり、曹洞宗開山は相模最乗寺三世噩叟宗俊、中興開基は千葉介守胤(法名総泉寺院殿長山昌潡大居士、弘治三年:1557年:十一月八日寂)以後代々千葉氏(石浜城主)の菩提寺となる」とあります。



 こんな立派な歴住の墓所を見るのは初めてです。残念なことに、チェーンが張られていて、入ることはできません。



 仮本堂。



 仮本堂前の前の掲示板。完成予定日は? と見ると、平成十一年だと。オイオイ、今年は平成三十年だぜィ。



 薬師堂も周囲にロープが張り巡らされていて入ることはできず、正面から拝むことができません。
 もともと賽銭箱もないようですが、お賽銭をあげることもできません。手前に写っている屋根は地蔵堂。
 この薬師堂に祀られる薬師如来は「江戸名所圖会」には聖徳太子の真作、とあります。



 本堂前から眺めた山門。お寺の正面には工場。オリエンタル酵母というパン酵母を製造する会社の本社工場です。
 これまで数々のお寺巡りをしてきましたが、お寺と高層マンションという取り合わせはしばしばあっても、工場と、という取り合わせは初めてなので、異様というか、新鮮というか。



 先に訪ねた薬師の泉の北門前に戻り、坂を下って行きます。このあたりは台地が荒川に削られた土地なので、進行方向右手には斜面がつづきます。
 小豆沢公園の斜面下を歩いていたら、こんな標識が目に入りました。
 二輪草です。開花期は四月から五月とあって、いままさにそのとき、と思ったのですが、この地区ではすでに先月のうちに花は終わってしまったようです。見たことのない花なので是非見てみたいと思いますが、再びくる機会はありやなしや。 



 二輪草群生地の先には、御手洗不動旧跡。
 このあと訪れる龍福寺の薬師如来が出現したと伝えられる池で、江戸期には、富士山や大山への参詣に際して身を浄めるみそぎの場(水垢離場)として使用され、不動明王の石像が祀られていたと伝えられています。



 私が持っていた地図では、次に目指している小豆沢神社と龍福寺は、ここまで歩いてきた道と総泉寺の山門前を通る道に挟まれてあるということがわかるだけで、入口がどっちの方向を向いているのかがわかりませんでした。
 長い石段があったので、上ってみます。



 上り切ったところは小公園になっていて、隣に小豆沢神社がありました。創建年代は不明ですが、康平年間(1058年-65年)、源義家が勧請したという説もあります。 

 門前には結構長い参道がありました。



 小豆沢神社の祭神は国之常立神(くにのとこたちのかみ)ほか十六柱。



 御神木のスダジイ。幹は空洞になっているようです。



 小豆沢神社の隣に目指す龍福寺がありました。真言宗智山派の寺院です。
 室町時代末、袋村(現・北区赤羽)にある真頂院という寺の運珍という僧が隠居寺として創建したのに始まると伝えられています。
 



 龍福寺本堂。本尊は大日如来です。



 本堂左手前にあった薬師堂。
 寺に伝わる「薬師縁起」には、この薬師堂に祀られている薬師如来は天長年間(824年-34年)に台地下の七々子崎(ななこさき)と呼ばれる荒川の入り江で発見されたことや、小豆沢という地名の由来は、平將門への貢物を積んだ舟がここで沈み、その際、積荷の小豆が流出したことに由来している、ということが書かれているそうです。
 私が歩いてきた台地の下は、平安の時代には七々子崎と呼ばれる荒川の入江だったのです。



 龍福寺から十分歩いて、帰りは行きに降りた駅より一駅都心寄りの志村坂上から。

 この駅は凸版印刷板橋工場の最寄り駅です。二十三歳から四十歳過ぎまで、勤める出版社は変わりましたが、なぜか印刷会社はいつも凸版印刷で、それも工場は板橋工場ばかりでした。若いころは週刊誌記者だったので、印刷にかかる直前の最後の校閲のため、ほぼ毎週土曜日夜から日曜払暁にかけて通っていました。齢を経て、多少偉くなると、滅多に行かなくなりましたが……。
 その会社との付き合いがなくなって、三十年かぁ、と思いながら、最後に付き合った営業担当は私より一回り下、と聞いたことがあるので、辞めずにいれば、まだ定年前。どうしているだろうかと一瞬の幻を見たような気がして、帰りの電車に乗りました。

 この日、雨が降り出したのは夕方五時過ぎでした。私はすでに庵に帰り着いていました。薬師詣での日はほんのちょっとしたことではあっても、なにがしか佳きことがある、というジンクスは途切れることなくつづいているようです。


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