今日は夜遅くなって雨、という天気予報は外れました。
気温はぐっと下がりましたが、朝から日中にかけて吹いていた強い風が収まったのは幸いでした。暦の上では春だといっても、実際はまだ真冬なのですから、寒いのは当たり前。寒いほうが凛として、かえって身が引き締まる思いがします。
ただ、おぢさんは何が嫌いといって、風ほど嫌いなものはありません。多少暖かくて風があるより、寒くても風のないほうがありがたい。
真冬の寒風は誰でも嫌いでしょうが、春のオトコオンナ(こんな言葉は禁句でしたかな)みたいなヤワな風も嫌いだし、扇風機の風も嫌いです。頭の上からくる電車の冷房の風など論外も論外。
市川大野には、十階以上のマンションが十棟近く林立している一帯があります。駅から十分以上も離れていて、お世辞にも交通の便がよい場所とはいえませんのに、マンションが固まってあるのはそこだけです。
なにゆえにそんなところを選んでマンションが集結したか? というと、当初の計画では武蔵野線の駅がすぐ近くにできるはずだったから……だそうです。
平たいところに一か所だけ高い建物が密集しているので、いわゆるビル風が起きます。とくに風もないと思える日でも、その一帯に近づくと、嘘のような強い風に見舞われることがままあるのです。おぢさんの勤め先は、あろうことかその一帯の中にあって、わざわざ嫌いな風に向かって突き進まなければならないのです。
江戸の人たちは風が出ると、恐れ、警戒心を強めたらしい、と最近になって識りました。なぜか……理由を聞けば当然です。火が出ると、拡がりやすいからです。
おぢさんは風を怖いと思うわけでもなく、警戒心を持つわけでもありません。ただただ鬱陶しいと感じ、嫌いなだけです。しかし、本能的に嫌うのは、江戸ッ子のDNAが形を変えて受け継がれたからかもしれぬと思ったりもします。
先考は随分前に他界しましたが、東京両国緑町の生まれです。先祖代々呉服屋だったそうです。
その呉服屋の息子が町工場を始めました。一昔前の家庭ですから愕くには値しませんが、二男六女という子だくさんでした。その末っ子というか、滓っ子が桔梗おぢさんです。
滓っ子が生まれたとき、先考はすでに五十歳に近い年齢でした。
工場でどんなものをつくっていたのか詳しく識りませんが、電電公社の下請けで公衆電話をつくっていたという記憶があります。もしかすると、それはあとで聞いた話がそういうイメージをつくり上げただけのかもしれませぬが……。
日本に公衆電話ができたのは、電話開通と同じ明治二十三年のことだそうです。東京十五か所、横浜一か所の電話局内に設置されました。
それから数十年たったころ、その当時の電話機を復元させようという試みが生まれました。
図面か写真があったのか、ボロボロではあっても実物が残っていたのか、まだ大人になっていなかったおぢさんにはわかりませんが、復元されて、愛知県犬山市にある明治村に陳列されることになりました。その電話機を復元させたのは、不肖おぢさんの父でありました。
年長の兄弟にいわせると、電電公社の仕事はほんの一部に過ぎなかったということですが、上記のような話の影響もあるのか、先考(つまり自分も)が現在のNTTにお世話になっていた、という強いイメージが遺されたのです。
規制緩和ののち、他の電話会社からセールスの電話がかかってきたり、DMがくるようになりました。しかしおぢさんは、死ぬまで固定電話はNTT、携帯電話はドコモを使いつづけたいと思います。
今日十九日は先考の月命日です。五日前の日向守殿の月命日と同じように、阿弥陀如来にお水をお供えし、焼香して手を合わせ、しばし瞑目します。
先考は東本願寺のほうの浄土真宗の信者でありましたので、本来なら立っておわします阿弥陀如来に、お線香は火を移したあと、横に寝かせて置くのが作法ですが、我が庵には坐弥陀しかおわしませず、お線香を横にできるような香炉もないので、作法に適っていなくても我慢して貰うしかありませぬ。
午前中、メジロがきて桜の枝にとまり、随分長いこと囀っているのを勤め先の窓の外に見ていました。
昼休み、まだどこかにいるかもしれぬと思い、カメラを持って外に出ましたが、見当たりませんでした。よって、今日は添付画像はありません。先考はロックなど無縁の人でしたから、おまけもつけません。