桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2022年六月の薬師詣で・千葉市

2022年06月08日 21時36分35秒 | 薬師詣で

 六月の薬師詣では千葉市を歩きました。
 庵を出発したのは正午。同じ県内の、それほど遠くないところへの小旅行とはいえ、随分ゆっくりとしたお出かけ、と思われるかもしれませんが、最初に参拝する東光院の最寄り駅は外房線の鎌取駅。そこからバスに乗るのですが、バスの発車時刻は十三時十二分。もう少し早い便はないの? といっても、その前の便は三時間以上も前の九時五十分しかないのです。
 バスは使わず、鎌取駅から東光院まで歩こうとすると、グーグルマップを基にシミュレーションしてみたところ、四十分もかかります。歩けない距離ではないので、行きは歩きでも、帰りはバスがある、ということならいいのですが、行きの便がない、ということは帰りもない。従って、歩くとすれば、往復八十分を覚悟しなければならない。
 最近は寄る年並で、シミュレーションをしておいても、実際にはそのとおりにいかないことも多いので、八十分では済まず、百分以上、ヘタをすれば二時間近く、ということになるかもしれない。となると、いくらなんでもキツイ距離なので、バスに乗ろうと考えたわけですが、電車が遅れたりして、バスに間に合わない、というときは歩くしかないので、その覚悟を持って出かけました。



 新松戸から武蔵野線で南船橋へ。南船橋で京葉線に乗り換えて蘇我へ。蘇我でさらに外房線に乗り換えて、出発から約一時間。幸い電車が遅れることはなく、鎌取駅に着きました。



 千葉駅行、羽田空港行など、蘇我駅前にはたくさんのバスがくるようですが、私が乗るのは千葉中央バスのマイクロバスです。乗客は私を含めてわずか三人でした。



 乗車七分、平山坂下というバス停で下車。
 バスを降りると、折悪しく霧雨が降り始めました。
 天気予報は信じず、「予報」ではなく、競馬やプロ野球の順位予想と同程度の「予想」に過ぎないだろう、日本語は正しく使え、と悪態をついたりする私ですが、漁師でもない自分に天気を見ることなどできません。結局、「予想」をアテにするしかないのですが、前日まで、昼ごろに「雨」となっていた一時間天気が、今日になって「雨」マークが「曇」マークに変わったのを見て、傘は持たずに出かけてきたのです。



 バス通りを外れると、心細そうな径が伸びていました。頭上に覆いかぶさるような木立が雨を防いでくれますが、真っ昼間だというのに、少しずつ暗くなってきます。



 バスを降りて歩くこと五分。木立が切れると、前方が開けて、広い駐車場があるのが見え、このような石柱がありました。



 そこから境内へとつづく長い石段がありました。



 参道途中にはこんな掲示。読めないかもしれませんが、最後に「等身大のお薬師さま」と書かれています。



 石段を上り切ると、右手に御堂があったので、薬師堂かと思って行ってみたら、大日如来を祀る御堂でした。

 正面に本堂。
 東光院の創建年代等は不詳ですが、創建したのは平忠常(975年-1031年)、
本尊は入口の石柱にあったように七仏薬師如来です。
「千葉市史」によると、この七仏薬師如来像は忠常の祖父・平良文(886年?-?)が兄・国香と争ったときに加護を与えた、上野国府中花園村(現・群馬県群馬町)の息災寺という寺の本尊を勧請したものといわれています。

 平良文は承平元年(938年)、甥の平將門と力を合わせ、上野国花園村で兄・平国香と合戦に及びましたが、良文軍は次第に苦戦に陥り、ついに主従七騎になってしまいました。良文も落馬して、絶対絶命の窮地に追い込まれたと思ったとき、雲の中から「羊妙見菩薩」が現われて良文軍に加勢。結果、勝利を収めることができた、といわれます。
 戦後、合戦場の近くには息災寺という寺があって、妙見菩薩を祀っていると聞いて行ってみると、七仏薬師が安置され、その主尊が羊妙見菩薩だったということから信心するようになったようです。




 本堂に掲げられた七仏薬師の額。

⬇東光院にはホームページがあります。
http://www.tokoin.com/index.html



 帰りのバスは終点まで行ったバスが戻ってくるだけですから、一日の便数は行きと同じ。わずか八便しかありません。
 雨は熄む気配がありません。幸いバス停の上は樹の枝が傘のように張り出していたので、雨を凌ぐことができました。

 鎌取駅に戻って、千葉駅まで外房線に乗車します。

 

 行きの蘇我~鎌取間は結構混んでいたので気がつきませんでしたが、帰りは一車両に乗客数人というガラガラ状態。初めて気づいたのは優先席(臙脂色の斜め縞模様)と一般席(紺色)が合体したロングシート(画像上)と久しぶりに目にしたトイレつきの車両。



 千葉駅で降りて西改札口に出ました。
 今日二つ目の目的地は大日寺ですが、近くに我が宗派の宗胤寺があるので、寄って行きます。

 千葉公園を通り抜けて、千葉駅から約三十分。宗胤寺に着きました。
 千葉駅を出るときはまだ霧雨が降っていましたが、歩いている間に雨は熄み、あろうことか陽射しまで出ました。
 宗胤寺は室町時代の創建。本尊は木造十一面観音坐像。開基は千葉氏第十代の宗胤(むねたね・1268年-1312年)。当初は現在の千葉県庁と都川をはさんだ対岸にあったと伝えられています。昭和二十年の戦災で焼失、当地へ移転しました。



 我が宗派のお寺に参拝するときは本堂だけでなく、歴住の墓所に参拝するのを常としているのですが、墓域にはそれらしき卵塔があるのが見えても、入口が見当たりませんでした。一旦陽射しが出たとはいえ、再び雨が降る恐れはあったので、あまりゆっくりとはしていられない。塀越しに望遠レンズで撮影。そこで拝礼するのにとどめて、先を急ぎます。



 宗胤寺から十二分。目的の大日寺に着きました。
 真言宗豊山派の名刹で、千葉氏第八代・頼胤(1239年-75年)が源氏三代の霊を供養するために、建長六年(1254年)に創建しましたが、創建の地は現在地ではなく、松戸市馬橋。私がときおり参拝に赴く萬満寺のある場所です。
 弘安七年(1284年)、頼胤の子・宗胤によって、千葉氏の菩提寺として千葉に移された、と伝えられています。昭和二十年の戦災で全山焼失の憂き目に遭い、千葉神社の南側(現在は通町公園となっている)から現在地に移りました。



 趣きのある瑠璃光殿。



 下が覗けて、上って行けば宙に浮いたような感じになるであろう階段を上ることは、高所恐怖症持ちの私にとっては至難の業です(というより最初から上る気がありません)。お賽銭は本堂にあげたので、これでいいですよね、と独り言をつぶやきながら、頭上におわすであろうお薬師さんに合掌。



 すぐ隣といっていいほどの距離に来迎寺がありました。現在は浄土宗単立ですが、当初は時宗の寺院だったようです。



 創建は大日寺を創建した頼胤から数えて五代あとの千葉氏第十三代・氏胤(1337年-65年)が一遍上人を開基に招いたと伝えられていますが、氏胤が生きた時代と一遍上人の生涯(1239年-89年)とは一致しません。創建されたのが伝えられている建治二年(1276年)だとすれば、千葉氏の当主は頼胤の子・宗胤(第九代)ですが、当主とはいっても、建治二年時は弱冠十二歳に過ぎません。創建年代が正しいとすれば、頼胤による創建と考えるのが妥当でしょうか。
 当初は来光寺と称し、先の大日寺の近く(現在の道場公園付近)にあったと伝えられています。やはり昭和二十年の戦災に遭って消失。当地へ移転しました。



 今日のお勤めを終えて、帰りは西千葉駅に出ました。
 
 毎月八日に薬師詣でをしようと思い立って始めたのは2011年一月のことですから、今年で十二年目になり、六月の薬師詣ではすなわち十二回目ということになります。当然のことながら、毎年毎年梅雨のさなか、ということになりますが、六月の薬師詣でに限ると、去年六月までの十一回、雨に降られたことは一度もありませんでした。
 今年の薬師詣では関東地方は西日本に先駆けて梅雨入りが発表された直後で、初めて雨に降られたわけですが、行程の半分は雨に祟られずに済んだということは、いささか牽強付会の度が過ぎると思いつつも、お薬師さんのご加護があったのではないかと考える次第です。

この日、歩いたところ①(鎌取駅~東光院。行程のほとんどはバス利用)。

同②(千葉駅~大日寺~西千葉駅)。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アメリカフウ(モミジバフウ) | トップ | 足立区しょうぶ沼公園へ行く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

薬師詣で」カテゴリの最新記事