桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2021年終い薬師・千葉市

2021年12月12日 22時55分32秒 | 薬師詣で

 二か月ぶりの薬師詣でに出かけました。
 先月八日の薬師如来の縁日は数日前からの持病の発症で青息吐息の状態だったので、十二日に日延べすることにしたのですが、その十二日には多少持ち直したものの、地元の慶林寺参拝すら危うい状態……そう思っていたら、実際は天井板を一枚挟んだ私の頭上で、火事の火がボウボウという状況だったのです。
 新居を見つけることができたので、迫りつつある年の暮れは
なんとか屋根の下で過ごすことができると、とりあえずは安堵。しかし、迎えた終い薬師の八日は雨。今日十二日に仕切り直すことにして、千葉市の花見川区を歩きました。

 千葉市内のお寺を巡るのは、四年前の九月以来、二度目です。前回は西船橋まで武蔵野線、西船橋から幕張本郷まで総武線に乗り、京成幕張本郷駅から京成電車を利用して千葉寺駅まで行きましたが、帰るとき、京成電車の千葉中央駅に着いたら、たまたま新京成線直通の松戸行電車が停まっているのを目にして、「そうか、こういう経路があったのだ」と気がついていたので、今回は八柱から京成線直通の新京成電車に乗って、京成幕張本郷まで行き、そこで総武線に乗り換えます。

 

 幕張本郷の京成駅とJR駅です。



 幕張本郷の一駅先、新検見川で下車。初めて利用する駅です。
 バス乗り場は駅の真ん前……と思ったのに、さにあらず。少し歩かなければならなかったので、予定していたバスには乗れませんでした。が、今回のバス路線はこれまでの薬師詣でではよく出くわした一時間に一本、というような便数の尠ない路線でなかったのが幸いでした。



 乗車十五分、さつきが丘団地というバス停で降りました。



 今日最初の目的地・長福寺に着いたのは、バスを降りてから十七分。
 事前に立てていた計画では所要十二分で到着できる手筈でしたが、バスを降りた直後、なぜか方向感覚が完全に狂っていて、地図を視ても、どこがどこやらわからない。あたりをグルグルと見回しても、目印になりそうな施設や建物も見当たらない。目指して行く方角がやっとわかるまで、数分も要してしまったのです。
 バスを一本遅らせたことと合わせると、二十分の遅れ、ということになってしまいました。ただ、バスを利用するのはこのときだけだったので、致命傷とはならなかったのが幸いでした。
 この長福寺は真言宗豊山派の寺院ですが、いまのところは得られる史料が何もないので、由来などはわかりません。薬師如来が祀られているはずなので、本堂に参拝しましたが、賽銭箱がなかったので、お賽銭を置くこともなく辞去しました。



 長福寺を出た直後、行き止まりの径に迷い込んでしまったので、また数分のロス。やがて交通量の多い道路に出ました。千葉県道69号・長沼船橋線、通称御成街道です。



 このあたりは犢橋町。「こてはし」と読ませます。しかし「犢」の読みは「トク」だけで、「こて」という読みはありません。江戸時代からつづく古い地名のようですが、なぜこういう地名がつけられたのか、現地で懐いた私の疑問は帰ってきてからも解明されないままです。



 道路は上ったかと思えば下る、と結構起伏に富んでいます。
 


 また下り坂になったと思えば、花見川を渡るのでした。まだこの日の行程のなかばにも到っていませんが、長福寺をあとにしてから、ここまで三十分。久しぶりの遠出だったので、すでにすねのあたりに痛みが……。



 渡るのは天戸大橋。
 橋名とともに、御成街道と記されています。
 この道は慶長十八年(1613年)、徳川家康の命を承けた佐倉城主・土井利勝によってつくられたもので、船橋から東金までを、ほぼ直線で結ぶ総延長約十里(40キロ)の街道です。工事が始まったのは慶長十八年の十二月中旬、完成は翌一月初旬。ひと月足らずという短期間でつくられたことから「一夜街道」という別名もあります。徳川家康・秀忠・家光と三代にわたる将軍たちが東金方面への鷹狩りの際に利用したといわれています。



 川を渡り終えるとまた上り坂。
 行く手に「花島山正観世音」と彫られた石塔が見えてきました。道はこの石塔のあるところで十字路になっていて、右折すれば石塔が示す観音様が祀られている天福寺というお寺ですが、私は左折します。
 天福寺は歴史も古く、三十三年に一度しか開帳されない十一面観音像を祀ることで著名な寺院であるようですが、スマートフォンの地図がこの石塔のあるところから歩くと、二十分もかかると示しているので、今回は割愛しました。

 

 先の石塔があるところで御成街道をそれると、径はまた下り坂。今日二つ目の目的地・福壽
院の石段下に差しかかりました。石段を上って行くと、正面に本堂がありました。
 真言宗豊山派の寺院で、寺号は薬師寺です。創建年代等は不詳ですが、明応年間(1492年-1500年)ごろ、千葉氏の家臣・亘内蔵之丞永行という人が、千葉家七仏薬師のうちの一体を安置して創建したと伝えられています。



 本堂の前に薬師堂を思わせる屋根の御堂がありました。説明書きは何もなく、中を覗いてもよく見えないので、確信はありませんが、これが薬師堂だろうと思ったので、本堂にお賽銭をあげたあと、ここにもお賽銭。
 今日は四つの寺院に参拝しましたが、賽銭箱があったのはこの福壽院と次の真蔵院だけでした。

 

 福壽院から二十五分ほど。右手に小高い丘を望み、左手には花見川を見ながら(といっても、川面は見えません)歩いて、薬師神社という珍しい名の神社にきました。
 そろそろだな、と思ってスマートフォンを取り出し、地図を覗き込みましたが、地図上では薬師神社と私の現在地が合致しているのに、それらしき鳥居が見えません。しばらく付近を右往左往したあと、ふと見ると、地域の集会所らしき建物の奥に小さな赤い鳥居があるのが見えました。これか、と思いましたが、鉄の門がガッシリと閉じられているので、中に入ることはできません。離れたところで手を合わせて、立ち去ることにしました。グーグルマップに投稿されている画像を見ると、仮に扉が開いていたとしても、鳥居と拝殿の間にも鉄扉があるので、結局は入れなかったのでした。



 途中でこんなのを見かけたりしながら、のんびりと歩きます。



 京葉道路をくぐって進みます。



 すでに住む人もなく、取り壊される直前のようでしたが、こんな洒落た透かし塀と蔵のある屋敷もありました。



 薬師神社から二十分で真言宗豊山派寺院・真蔵院に着きました。
 創建年代等は不詳ですが、開基は大同元年(806年)と言い伝えられています。千葉常胤の三男・武石三郎胤盛が、母の菩提を弔うため、柳地蔵菩薩像を本尊として建久八年(1197年)に堂宇を建立しました。



 本堂の左が小高い丘になっていて、御堂が建てられていました。屋根の形から薬師堂かと思いましたが、浪切不動堂と呼ばれる不動堂でした。胤盛の守り本尊だった不動尊を本尊として、胤盛の曽孫・武石新左衛門尉長胤が正治元年(1259年)に建立したものです。



 瑞穂橋で再び花見川を渡って、大賀ハス通りを歩きました。
 結構通行量が多く、車道とは区切られた歩道を進んで行くうち、総武線をアンダーパスでくぐって行くことになりますが、歩道は地下通路のような階段があって、そこでストップです。上ると、車道とは別にアンダーパスがあって、上ったところは検見川神社の鳥居前でした。

 


 境内ではすでに年始を迎える準備が整っていました。



 この石段の高さに臆して元に戻れば、また行き止まりに出るだけです。女坂があるだろうと思いましたが、見当たらなかったので、手すりを頼りに、おっかなびっくり。無事下ることができました。



 この日最後に参拝した寶蔵院です。ここも真言宗豊山派の寺院。
 創建年代等は不詳ながら、宥秀法印が開祖となって、寛永五年(1628年)に開基(中興開基)したと伝えられています。「千葉縣千葉郡誌」には「薬師如来を本尊とす」とありますが、由緒は不詳です。

 すでに陽は西に傾き始めていました。
 同じ千葉県内であり、県庁所在地でもある街を歩いたのに、土地勘がないものですから、終始おっかなびっくりでありました。予想外に時間はとられましたが、幸いにして道に迷うことはありませんでした。歩き終えてみると、歩数計はこのあたりで一万六千歩を示していました。普段の散歩や買い物だと三千歩も歩けば脛のあたりや太腿が痛くなって無性に疲れているのに、知らないところを歩いたので気が張っていたのか、さほど疲労を感じることも痛みを感じることもなく歩き仰せました。これもお藥師さんのご加護です。

この日、歩いたところ

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