時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

金属価格の高騰

2008年04月09日 | 社会問題
一時期は、金属窃盗のことが随分話題になっていたが、最近下火になっているのかと思いきや、先日、路線バスからバッテリーが盗まれたというニュースが報じられていた。
バッテリーそのものが目的なのか、それに含まれる鉛が目的なのかはわからないが、いずれにせよ、相変わらず金属価格の高騰は続いているようだ。
中国などの経済発展で、鉄はもちろんのこと非鉄金属、貴金属の価格も上がり続けている。
こういう傾向は一体いつまで続くのだろうか?
さて、ちょっと気になったので、金属の埋蔵量や採掘可能年数を調べて見た。
その結果、今後世界的な経済の発展によって、金、銀、鉛、亜鉛などは、20年以内に埋蔵量を超える量が使用されると予測されているようだ。要するに、足りなくなるとの予測が出ている。
確かに、金属といえども無限に存在するものではない。あちこちの鉱山を掘り返しているうちに、とうとう枯渇するものも出てくるだろう。
そうなると、各国が競ってこれらの資源の争奪戦を繰り広げることが予想される。原油に続いて、新たな政治問題になりそうな気配である。
それまでに、代替の金属や新たな素材が開発されることがあるかもしれないが、いずれにせよ、金属資源は無限ではない。そのことを念頭においた生産活動が大切であろう。
一方で、「都市鉱山」と呼ばれるように、日本にはさまざまな電化製品などに含まれる形で、希少金属の多くを保有しているとの記事もあった。それによると、・・・
・インジウム:1,700トン(世界の現有埋蔵量の61%)
・金:約6,800トン(同16%)
・銀:60,000トン(同22%)
・アンチモン:340,000トン(同19%)
・スズ:660,000トン(同11%)
・タンタル:4,400トン(同10%)
ということなので、世界の埋蔵量の多くを日本が所有していることになる。
ただ、こういう金属は本当に微量しか含まれていないので、これらを含む製品の効率的な回収や取り出し方なども今後更に研究が必要になるだろう。
いずれにせよ、発展途上国の経済発展に伴って、金属資源はますます重要性を増すだろう。多くの金属はあと50年もすれば枯渇し、一部の金属ではあと20年も経たないうちに枯渇すると言われている。
こういう金属を対象に投機マネーが飛び交うことになるのだろうか?そして、金属窃盗の記事がまた新聞紙上を賑わすことになるのだろうか?

生産者重視から生活者重視へ?

2008年04月08日 | 政治問題
福田首相は、事あるごとに、生産者の立場ではなく、生活者の立場ということを強調する。
たとえば、1月の施政方針演説では以下のように述べている。
「これまでの生産者・供給者の立場から作られた法律、制度、さらには行政や政治を、国民本位のものに改めなければなりません。国民の安全と福利のために置かれた役所や公の機関が、時としてむしろ国民の害となっている例が続発しております。私はこのような姿を本来の形に戻すことに全力を傾注したいと思います。」
その後も、生活者重視などという発言をたびたび繰り返しているが、生産者や生活者の意味するところも大いに間違っている。特に「生活者」という言葉は、公明党から拝借した概念だろう。
しかし、この言葉はゴマカシにすぎない。
一般に、「生産者」、「供給者」といえば、零細農家、個人事業者、中小企業から超巨大企業までを包括する概念だろう。
また、「生活者」あるいは「消費者」といえば、ホームレス、一般庶民から資産家までの全国民を示す言葉になってしまう。
だから、公明党などは、響きの良い「生活者」などという言葉を使って、いかにも庶民の味方ですと思わせておいて、その実、資本家の立場を擁護する行動を取っているのである。
さて、首相がそういう概念を理解しているかどうかは別として、少なくとも、現在の社会が、「商品の生産者」の立場で法律が作られ、「消費者」を保護するという視点に欠けていることに言及せざるを得ないところまで、今日の社会のゆがみが生じていることは事実であろう。
以前から述べているように、現在の日本の社会体制は「資本主義」社会である。資本家がその支配を永続させるために、自民党やその同属政党をその代弁者として国会に送り込み、資金的な援助を行い、資本家に都合の良い法律を作り、経済の仕組みを作り上げているのである。
しかしながら、最近は、福田首相が経団連に対して、形ばかりとは言いながらも、賃上げへの協力を訴えたり、非正規雇用の解消を訴えざるを得ないところまで、日本の社会の矛盾が広がっており、国民もそれに騙されなくなっていることの反映であろう。今回の発言も、そういう一連の流れの中の発言と思われる。
「大企業や資本家もちょっと儲けすぎではないか?やりすぎではないか?政権党として、資本主義体制を守るために頑張っていますが、これほど国民を痛めつけると、社会体制そのものが危うくなりますよ。それでは元も子もなくなり、甘い汁が吸えなくなりますよ。」
この間の首相の一連の発言の中には、彼のそんな心の底が見えるような気がするのである。

さぁ、次はガソリン税の復活と一般財源化

2008年04月07日 | 政治問題
道路特定財源となっていた暫定税率が廃止になり、ガソリン価格も下がり、運送業界や一般消費者も喜んでいる時であるが、無税のままで済ますことはできないだろう。
税金として入ってきたものが、道路にしか使えないという税金には編集長も大反対であるが、入るべき税金が入らなくなることは問題である。
ガソリン税を復活させ、それを道路整備だけなく、環境や医療、福祉、教育にも使えるように一般財源化することが次の課題である。
安いガソリンを手に入れた消費者からは総スカンを食うかもしれないが、温暖化ガスばかりでなく、有害な窒素酸化物、硫黄酸化物を撒き散らして1円の税金も払わないというのは虫が良すぎるだろう。
与野党とも、けっして課税に反対なのではない。
道路特定財源、道路にだけ使おうという一点にこだわっているのが自民、公明の与党であるが、これに対して国民はノーの意思表示を示している。
とすれば、ガソリン税を復活させ、このうちどれだけを道路財源として使うのか、どれだけを一般財源化するのかを決めれば良いだけのことである。
与野党の合意はそれほど難しいとは思われない。
道路整備も優先順位を決めて、地方に手厚く配慮すれば地方の合意も得られるであろう。
何はともあれ、与野党がガソリン税の復活と一般財源化の方法について、1つのテーブルに着くことを望むものである。

後期高齢者医療制度はネーミングが良くない?

2008年04月06日 | 医療・社会保障
「ネーミングがよくないんじゃないか」――。4月1日に始まった75歳以上が対象の「後期高齢者医療制度」の名称に、福田首相が注文をつけた。首相に指摘され、舛添厚生労働相は通称を「長寿医療制度」とすることを急きょ決めたという。
もうどうしようもないレベルである。
名前を変えたからといって、内容のひどさは隠しようがないではないか。
新制度は、75歳以上の高齢者を対象とした医療保険制度で、高齢者一人ひとりから徴収する保険料と税金、現役世代からの支援金で運営する。保険料は年金から天引きされ、高齢者だけを従来の国民健康保険などから切り離すことに根強い批判がある。舛添厚労相も記者団に、「お年寄りを前期と後期にわけてもいいのかという意見もある。我々の説明が足りないかもしれない」と話した。
しかも、たとえば、75歳以上の夫とその扶養家族になっている75歳未満の妻の場合、夫は自動的に後期高齢者医療制度に移行するが、妻は改めて国民年金に加入手続きを行わなければ、無保険者となってしまう。こういう対象者が数万人にも及ぶと言われている。
以前の記事にも書いたように、後期高齢者は、合併症や認知賞も多く、治療しても治らない。そしてやがては「避けられない死」を迎えるのだから治療などしても無駄だ、というのが厚生労働省の主張である。
1970年代には、70歳以上のお年寄りの医療費は、多くの自治体で無料になり、それがやがては国の制度になった。ところが、この制度がどんどんと切り下げられ、ついには、今回のような差別医療が持ち込まれることになった。
2006年の6付きに決定されたこの医療制度は、小泉政権時代に、自民党と公明党が国会でゴリ押しして決めたものだが、その批判は福田首相が背負うことになった。ちょっと気の毒と思う人もいるかもしれないが、当の福田首相も議員として、この新制度を推し進めてきた張本人の1人であることには間違いはない。
 この日、厚労省と総務省が連携して広報活動をするための実施本部を設置。自治体などを通じて、お年寄りを中心に新制度の周知を図る。通称は、今後リーフレットで正式名称との併記を検討するが、二つの名称が混在し、かえって混乱を招きかねない。「(通称の導入で)混乱しないやり方を考えたい」と厚労省担当者。
以下に「長寿」医療制度と名づけようと、「長寿」を喜び、それを祝う制度でないことは明白である。
制度そのものの廃止に向けて、力を尽くすべきではなかろうか。

産科病床数の上限撤廃で妊婦受け入れが改善?

2008年04月04日 | 医療・社会保障
産科医不足で、全国の産科医療機関が相次いで閉鎖されるなか、厚生労働省は、現在診療を受け入れている産科医療機関の能力を最大限に活用するため、地域ごとに設定されている病床の上限数から、産科病床を例外的にはずすことを決め、各都道府県に通知したという。
医療機関の病床数については、医療法により各都道府県が地域ごとに必要な基準病床数を設定しているため、この基準より実際の病床数が多いベッド過剰地域では、新たな増床は原則として認められない。この基準病床数は診療科に関係なく全体の総数で決められているため、受け入れに余力がある産科の医療機関が増床を申し出ても、ほかの診療科の病床が多い場合、この規制によって今までは増床が認められなかった。
同省では、医療法の施行規則の一部を改正し、出産を扱う医療機関の病床は、基準病床数を超えていても新たな増床を認めることにしたというものだ。
各医療機関の要望を受け、都道府県の医療審議会で必要と認められた場合、都道府県と国が協議した上で許可する。
しかし、これで本当に妊婦の受け入れが改善するのだろうか?
全国の病院を見れば、妊婦の受け入れに余力がある病院も多少は存在するだろう。
しかし、根本的な問題は、産科医の不足である。
これが原因で、全国の産科医療機関が次々と閉鎖されており、診療を受け入れている病院でも産科医やスタッフの過重労働が問題になっているのである。
産科医不足という根本問題にメスを入れず、ベッド数だけを増やせば、今までは通常勤務で対応できていた産科病院の医師やスタッフに過重労働を押し付けることになるのは明らかである。
産科医の待遇改善や医療訴訟の際の公的な補償制度などを拡充し、産科医が安心して治療に専念できる施策を行ってこそ、産科医不足も解消されると思われる。

妻の日記で労災を認定

2008年04月03日 | 社会問題
東芝に勤務していた技術職の男性社員=当時(37歳)=が自殺したのは過労が原因として、熊谷労働基準監督署(埼玉)がこの男性を労災認定していたことがわかった。同労基署は男性の妻の日記だけで長時間労働を認定しており、こうしたケースは珍しいという。
代理人の弁護士によると、労災認定は3月14日付で労災が認定されたという。男性は2000年10月から深谷工場(埼玉県深谷市)に勤務していたが、2001年12月に青木ケ原樹海(山梨県)で自殺した。
男性は当時液晶基盤を造るラインの立ち上げなどに従事していたが、ほかの業務も加わり仕事が増加。代理人の計算では、1年以上前からしばしば時間外労働が月100時間を超え、直前1カ月には約154時間に上った。
会社側はタイムカードなど過重労働を裏付ける資料はないと主張したが、妻が男性の帰宅時間などを日記に詳細に残しており、労基署は死亡する半年前から月100時間超の時間外労働が続いていたと認定した。
労基署の決定は当然であろう。
何も、企業に保管されているタイムカードばかりが就業を確認する唯一の手段ではない。夫の健康を気遣う妻のメモ、日記も当然のことながら、就業を裏付ける重要な証拠になる。
しかし、ニュースによると、企業側にタイムカードなどの証拠がなかったというのもひどい話である。企業によっては、タイムカードを廃止したり、終業時刻にいったんタイムカードを押させた上でサービス残業をやらせるような悪質な行為もある。
天下の東芝もこういう企業の1つだったということである。
いま、企業内では、長時間にわたる残業はもちろんのこと、違法なサービス残業まで横行している。その一方で、非正規雇用者が増加し、その非正規雇用者にまで長時間労働が押し付けられている。最近話題になっているコンビニの店長などは、その良い例である。
労働条件の改善は、労働現場でしか、またそこで働いて直接的に被害を受けている労働者が声を上げなければ解決することはできない。
死ぬほどの思いをしているのなら、勇気をもって個人加盟の労働組合、弁護士などに相談し、解決の道を探ることだ。
今回の件を教訓に、企業もその社会的責任を果たすべきであることを強調しておくとともに、長時間残業、休日出勤などで苦しむ家族がいる家庭では、その勤務状況を克明に記録しておくことをお奨めする。もちろん、重大事態に至る前に、家族としても必要な対応を行うことが最も望ましいことは言うまでもない。

石原銀行の後始末に怒り心頭

2008年04月02日 | 政治問題
新銀行東京への400億円の追加出資が、自民、公明の非常識な賛成で可決された。
どの新聞の世論調査でも反対が70%以上を占めていた。都庁への意見も80%以上が反対だった。にもかかわらず、これだけの都民の意思を無視して、追加出資が強行されたことは、石原都政には「民主主義がない」ということだ。
この国の民主主義のレベルは、この程度にすぎないということを改めて認識させてくれた出来事だった。
産経新聞のように、「議会にも責任がある」という主張をしているところもあるが、議会全体を十把一絡げに批判することは正しくない。
議会には、この新銀行の設立や当初の1000億円の出資そのものに反対した共産党も存在した。また当初は賛成したものの、その後これを反省し、今回の追加出資に反対を表明した民主党も存在する。これらをゴチャ混ぜにして「議会はけしからん」というような議論は的外れという他はない。
都民として、マスコミとして批判すべきは、何の見通しもなく銀行を設立した石原知事の責任であり、これを推進したばかりか、臆面もなく追加出資を容認した自民、公明の与党である。
来年夏には、都議会議員選挙が行われる。
都民は、今回のことをそれまでは絶対に忘れないようにしようではないか。その頃には、石原銀行の経営はますます悪化しているだろうから、都民の心に新たな怒りが湧き起こるに違いない。
なお、最後になったが、これだけ赤字を垂れ流している銀行からはできる限り早く預金を引き上げるべきだろう。
特に、1000万円以上の預金は保護されないから、直ちに引き上げるべきだ。また、1000万円未満の預金と安心していてはいけない。潰れそうになってから預金を解約しようとしても、すぐに解約できるわけではない。現金がなくなり、預金保険機構から現金が補給されるまでにはそれなりの時間がかかるはずだ。
沈没寸前の船からはできる限り、早く逃げ出すのが庶民の唯一、最高の対策である。