時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

人のために生きるということ

2006年09月28日 | その他
めっきり涼しくなり、いきなり風邪をひいてしまった。そのせいで、記事の更新も、「時々」になってしまった。まぁ、発行時の原点に戻ったということかもしれない。
さて、体調がすぐれないので、何となくテレビをつけたら、何の番組だか知らないが、富士山測候所に長年にわたって勤務し、富士山頂での滞在記録を持っているという人がテレビに出ていた。
1年のうち3分の1を富士山頂で、残りを地上で過ごすような生活だったそうで、過酷な勤務の中で遭難のために同僚を何人も失い、それでも気象観測を続け、日本の気象予報に貢献できたことへの誇りを語っていた。
番組の途中だったので、わずか10分ほどしか見られなかったが、この人が番組でさりげなく語った一言が大変印象に残った。
「人は人のために生きるようになっている。」
なかなか素敵な言葉ではないか。
人は、日々の生活の中で、「人のために生きている」ということを意識することは少ない。しかし、よく考えてみると、家族や友人、同僚などから必要とされていると感じられてこそ、日々の生活に喜びや張り合いが生まれるものであろう。
最近は、殺人、傷害、窃盗、詐欺など殺伐とした事件も多いが、この背景には、家族や同級生、同僚など、身近な人から必要とされていないのではないか、むしろ疎まれているのではないか、と感じている人たちが多くなったことが背景にあるのかもしれない。あるいは、若い人たちの自殺も増えているが、この背景も同じかもしれない。
人は、こういう行為に手を染めるまで追い詰められた時に、通常、その行為に伴う家族や友人の悲しみ、困惑などに思いを馳せるだろう。しかし、その歯止めがなくなってしまうと、人は人でなくなってしまうのである。
最近は、家族や友人のみならず、隣近所といったコミュニティとの関係なども希薄になっているが、編集長は、コンピューターゲームやインターネット上での仮想社会の広がりに大きな一因があると考えている。
また、最近顕著になってきた異常なまでの「拝金主義」も、利己主義を助長し、「自分さえ良ければ・・・」、「他人がどうなろうと関係ない。」という風潮を生み出しているのではなかろうか。
本紙でも、格差社会や国家破綻に関する記事の中でも書いてきたが、読者諸兄が自分の生活を守るという狭い発想ではなく、広く社会に目を向けて、考え、行動することを希望するものである。
「人は人のために生きている」という言葉を頭の片隅に記憶いただき、自分の行動のどこが人のためになっているのか、どのような行動がより人のためになる行動なのかを絶えず自問自答しながら生きてほしいと思っている。