時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

許されない北朝鮮の核実験

2006年10月13日 | 憲法・平和問題
以前に書いたことだが、通常は50件くらいのアクセスがあったのだが、しばらく記事を更新しなかったら、1日当たりのアクセス数が10数件になってしまった。
「時々」新聞社とはいうものの、やはり、フラリと立ち寄ってくれる人もいるのだから、記事の更新は大切なのだと痛感した。
さて、更新をサボっていた間に、北朝鮮による核実験が行われた。まったく許しがたい行為であり、平和に対する挑戦である。
日本政府は、当初「核実験かどうかわからないので、確認が必要」などというノンビリした態度だったが、数日後には、北朝鮮への経済制裁を決定した。この決定を歓迎したい。
北朝鮮との間では、あらゆる外交ルートを用いて、あくまでも平和的な外交によって問題の解決を図って欲しいと願っているが、相手は普通の国家ではない。
経済制裁など、あらゆる平和的な手段も用いて、相手を同じテーブルに着かせる努力が必要だ。
国連決議も、軍事的な解決ではなく、あくまでも外交を通じた平和的な解決を図る方向で議論が進んでいるが、この態度は立派である。北朝鮮の友好国と言われている中国やロシアも含めて、国際社会が一致して、問題解決のために努力することを期待したい。
さて、北朝鮮という国について、少し考えてみたい。
多くの国民が、この国のことを未だに社会主義、共産主義国家であると思っている。マスコミなどもそういう報道を続けているので、国民がそう思い込んでしまうのも無理はない。日本の共産党などは、北朝鮮の味方のように思われていて大変気の毒になるくらいだ。
しかし、国家の絶対的な支配者たる「将軍様」が、世襲で決まっていくような共産主義国がかつてあっただろうか?これは、江戸時代の日本と同じであり、さらに、徳川将軍から天皇へと支配者の名前が変わっても、特定の一族が絶対的権力を握っていた戦前までの日本と同じであり、とても、共産主義国家などと呼べる代物ではない。むしろ、狂信的な宗教国家に近い。敢えて名づけるとするならば、金日成教国家とでも呼ぶべき国家である。
指導者による国家の変質、理想からの逸脱を、我々は、世界のさまざまな国で目撃してきた。スターリンや毛沢東など、共産主義国と言われてきた国家だけでなく、資本主義国と呼ばれる国々でも戦争好きや汚職まみれの指導者は存在してきた。
私は、現在の資本主義社会の次に来る社会体制の一つとして、共産主義社会をけっして否定しない。あるいは、新しい探求が行われて、日本はまったく別の国家体制になるかもしれない。
しかし、次の社会体制になった場合の日本の姿として、少なくとも現在以上に自由や平和を謳歌でき、国民が主権者として政治を動かし、あらゆる差別、犯罪や環境破壊もなく、障害者や子供、老人が大切にされる社会を希望するものである。
隣国のバカな指導者を笑うだけでなく、日本の抱える社会の矛盾についても改めて考える機会にしたいと思っている。