フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

1国家=1民族=1言語

2008-01-11 23:02:14 | today's focus
このところ、投稿のテーマがあっちこっちにいって、接触場面研究とは関係なくなっているかもしれませんが、お許しを。

ここしばらく、NHK BSで放映している、100年前からの画像や映像をもとにヨーロッパを中心とした近代史を考えるBBC4のドキュメンタリー、「BS世界のドキュメンタリー 奇跡の映像 よみがえる100年前の世界」を観ています。今日は、「第7回 中東:分裂の悲劇」ということで、第1次世界大戦後の1920年代、パレスチナ、イェルサレム、トルコ、ギリシャが国家建設を始めた前後の事情を扱っていました。

中東には第1次大戦で勝利したイギリスやフランスがドイツが持っていた植民地を分配するために進駐していました。それまで、パレスチナにはユダヤ人もパレスチナ人も共存していた姿が見えますし、トルコには先祖代々暮らしていたギリシャ人がいましたし、クルド人に代表される少数民族も暮らしていました。民族の違いだけでなく、宗教の違いもまた、単なる違いとして認められていたのです。

当時、ヨーロッパから国家建設を夢見て移住してきたシオニスト(カフカもまたそうしたシオニスト達に影響をうけていましたっけ)が相当数、パレスチナにはいましたが、彼らにお墨付きを与えたのはイギリス人でした。また、トルコでは進駐軍の影響下で、「トルコ人」のための「トルコ」が建設されようとしていました。

すべては1国家=1民族=1言語という国民国家のフィクションが始まりだったのです。民族間の紛争も、宗教間の不寛容も、この純化プロセスとともに生じたことは覚えておいていいでしょう。純化とは排除の別名です。(この純化思想は当然のことながら、ナチスにもスターリンにも及んでいるわけです。だから先日の、ソクラテスの思想がナチスやスターリンまで進むという話には頷けないのです)

以前に触れたように、初期言語管理理論に見られた「逸脱」の概念もまた、母語話者の言語共同体を前提にしています。きっと100年前のパレスチナ人には、我々が非母語話者や外国人を区別する「逸脱」の多くを逸脱として留意することはなかったのです。

ポストモダンに必要なのは、純化ではさらさらなく、多様化と重層化の世界でしょう。そこで言語を管理する出発点は何なのでしょうか?

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