フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

最後に雑感を

2008-04-07 23:03:57 | I AMSTERDAM
というわけでSociolinguistic Symposium 17もどうにか終わりました。

私は共同発表だったのでスライド操作だけしていればよかったのですが、英語による学会は久しぶりでした。ヨーロッパを中心にさまざまな国から集まった社会言語学者たちがコミュニケーションのツールとして英語を駆使して研究のアイデアを交換しているのを見ると、これからはもう少し外に出てやってみるべきかなと思ったのも事実です。

感心したのは、若い研究者でも研究のフレームワークや理論を大前提にその適用や検証を目指した発表は少なくて、理論的な理解は背景に納めながら、いくつもの概念を駆使して、オリジナルに研究対象に向かっていることでした。簡単に言うと仮説生成タイプの研究となるのですが、要は厳密さや隙のなさよりも柔軟で自由なアプローチのほうが大切だということなのかもしれません。

娘も言っていましたが、それは、日本の学会と比較して、発表の教室では静かに聞かなければならないのは同じだけど重くならない、ということからも見える気がします。聞き手は節度をもって暖かくオリジナルな考えを聞いていますし、発表者は緊張しながらもときどき笑顔や冗談が出てくるんです。

さて、最後に何か写真を載せようと思って探してみました。オランダのきれいな花の写真などもあるのですが、ここではホテル周辺の住宅の写真を紹介します。

ホテルはちょうど空港と街の中心部の中間あたり、かなり場末のところにありました。運河の向こう(つまり中心部に近い)にはオランダの煉瓦造りの3階か4階建てのきれいな住宅が続いています。こちら側はじつは移民の街・労働者の街であって、6階以上のアパートになっています。道行く人も東欧系、アフリカ系、中東系、アジア系、オランダ人の労働者などで、そんな中にホテルも、広東レストランもあるわけです。アムステルダムの繁華街にはじつに雑多な人々が群れて賑わいを作っていますが、周辺では生活があるのみです。じつは繁華な場所からホテルに戻ってくるとほっとしてもいたのです。

それもこれもアムステルダムであり、多言語社会の表層に見える風景なのだと思います。
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大会3日目

2008-04-06 08:15:11 | I AMSTERDAM
この大会は社会言語学の大会としては最大のものになっているそうで、じつに600人以上の発表者が集まったそうです。今日が最終日で、夜遅くまで内容を修正するのに忙しかったのですが、雨の中、タクシーで朝9時に始まるワークショップに出かけました。

language planning, managementのワークショップで6組の発表がありましたが、いわゆる言語政策研究の人が4組で、言語管理については第1部の最初に理論を紹介したNekvapilさん、そして第2部の私とファンの発表だけでした。あとはSpolskyさんのグループというわけです。SpolskyさんはLanguage Managementというタイトルの本を書き上げて出版を前にしているそうで、その宣伝でもあったようです。しかしこのタイトルはじつはいただけないというか、すでに20年前からこちらで使っている理論の名前ですから、納得できないですね。

その他の発表では、ウェールズ語維持委員会の話であったり、リンガフランカと経済の関係であったり、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の言語政策のミクロとマクロであったり(ただし、このウィーン大の2人の発表は面白かった)で、ミクロなディスコースの言語問題という視点はまったくないのです。ウェールズ語やリンガフランカの話を聞いていると、なるほど言語政策研究とは役人の間の研究なのだなと思いました。ある政府のセクターはこう考えていて、他のセクターではべつな方向を向いているといった政府機関の事情通というのがこうした研究の秘訣になっているのです。

40人ほど集まった出席者からの質問は、Nekvapil教授と我々の言語管理の発表に関するものが多く、どちらが魅力的だったかはそれで判断してもよいのかなと思いました。(自画自賛?)

最後の特別講演はLabovで、まる1時間、例の変異理論の枠組による、発音のバリエーションと年代の関係についての具体的な研究発表でした。もう80歳になると言うのに、早口でしかもまだまだデータを収集しての研究をしているのには驚きました。背はその時代の人で低いのですが、太ってもいず、偉ぶるわけでもなく、ただ言語研究に従事する研究者といった風情でした。

すべてが終わり、Nekvapilさんと3人で外に出て、食事をすることにしました。ずっと雨模様だったのに、大会が終わると同時に空が澄み渡りました。Labovの講演について、Nekvapilさんはじつに正直に、In fact, it is very boring, and I am almost sleepingとか言ったので笑ってしまいました。私もすかさず、I was absent for 20 minutesと告白してしまいましたが。

最後にひとつ、付け加えておきたいのは、欧米の社会言語学の世界で言語管理を主張していくためにはMACRO→MICROの方向での議論や研究だけでなく、MICRO→MACRO、つまりミクロな言語問題の研究からマクロな言語政策への方向でも積極的に言及していかなければならないというNekvapilさんの言葉です。これは考えなければならない点だと思います。MICROにだけ言語管理理論を使うと、それは一種の文化適応(acculturation)の理論と区別がつかなくなるというわけです。

みなさんの感覚ではどうでしょうか?
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大会2日目

2008-04-05 22:04:15 | I AMSTERDAM
2日目はじつは発表準備があって2人の発表にしか行けませんでした。一人はモナシュ大のマリオットさんのもの、そしてその後にベルギーの若い学者が第2次大戦前後のレジスタンスに入ったことのある男性のナラティブに見られるシフトについて報告していました。

その後、いったんホテルにもどって、それからアムステルダムで一番高い塔をもつ西教会で行われる晩餐会にでかけました。西教会はじつはアンネ・フランクの隠れ家から目と鼻の先にあります。晩餐会というのでかなりフォーマルなのかと心配していたのですが、どうもそんな感じではないんですね。なかなか始まらないので、まだ開いていたアンネ・フランクの家を訪ねることにしました。

急な階段を登った先に本棚があり、その陰に穴があいていて、そこからが8人のユダヤ人が2年間かくまってもらっていた部屋が続きます。それはいくつかの部屋と階段からなっていて、空間としては意外なほど広いといわなくてはならないのですが、8人が一歩もソトに出ずに過ごす空間という意味では、もちろん広いわけがないのです。8人のうち、生き残ったのはアンネの父、オットーだけでした。しかしアンネも戦争が終わる寸前まで生きていたのです。過去を見なければ未来もないというのがオットーの言葉でした。
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大会1日目

2008-04-04 02:10:17 | I AMSTERDAM
今日から3日間の大会です。午後からアムステルダムの自由大学までトラムに乗って出かけました。自由大学は見たところそれほど立派でも歴史があるわけでもなさそうで、大学の雑な雰囲気が感じられます。

コーヒーブレークでようやくこの学会に誘ってくれたNekvapil教授に出会うことができました。Nekvapilさんと共同でパネルを組織したSpolsky教授とも挨拶が出来ました。Nekvapilさんとはもう3年越しになっている本が6月にでるという話や、6人のパネルで言語管理をやっているのはNekvapilさんと私とファンの発表だけだからがんばろうとか、そんなことを話して別れました。

午後の発表は3人の個人発表を聞きましたが、やはり研究テーマが近いのでわかりやすいし、親近感があります。一人は、デンマーク語とドイツ語のバイリンガルの子供たちの話で、デンマーク語の小学校ではきびしくデンマーク語だけ話すプレッシャーがあり、ドイツ語の小学校ではcode-switchingにあまり厳しくないという違いがあると、子供たちのストラテジーも違ってくる。ドイツ語小学校の子供たちは目に見えるcode-switchingをするけれど、デンマーク語小学校の子供たちは目に見えないcode-switchingをするというのです。そしてそうしたcode-switchingは、転移ではなく、ストラテジーなのだと言いたいんですね。これはじつはほとんど言語管理の内容なのだと思います。

もう1組は、ブリュッセルの企業がどの程度多言語話者を求めているか、他のヨーロッパの都市ではどうかといった話でした。面白かったのは、ベルギーにおける言語意識ですね。ブリュッセルはフランス語とオランダ語を公用語とするところですが、政治的な理由でバイリンガル教育は認められていない。社会レベルではフランス語とオランダ語のバイリンガルは、敵同士というと語弊がありますが、お互いにライバル関係にあるベルギーの2つのコミュニティの両言語を使う人間となって、かなり変な人間と見られてしまうのだそうです。だからこの2つの言語の組み合わせにもう1言語、あるいはもう2言語話せると、それは問題としては見なされなくなる。などなど、多言語使用については実例がいくつも出てきます。

去年から早稲田の宮崎さんが多言語主義ではなく複言語主義でしょうということを言っていましたが、こちらの学会ではmultilingualismという言葉が飛び交っているので、もうしばらく多言語主義でいこうかと思った次第です。
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レセプションに出かける

2008-04-02 23:54:28 | I AMSTERDAM
2日はいよいよSS17 (Sociolinguistic Symposium)の登録、そして夕方からレセプションでした。登録とレセプションは場所が違うこともあって、市民ホール(Stadthuis)で行われたレセプションに出かけました。

ステージのあるホールで行われるのかと思ったらじつは小さな踊り場で飲みのものとスナックを食べながら、立ってわいわいして親交を温める式の会でした。3人の人が短いスピーチをしましたが、最初はアムステルダム市長で、市と社会言語学の関係をしっかりを話していたのには感心しました。市長によるとアムステルダムには174カ国の出身者が住んでおり、小学校に入学する時には40%の子供たちがオランダ語以外の言葉を話しているそうです。最近は多言語主義は強調されず、英語教育に力を入れているけれども、先生たちの英語の発音がやはりオランダ式英語なのが問題、なんて言っていました。オランダ人からそんな問題をいわれてしまったら、ほかの国は何を言えばいいんでしょうね。オーストラリアに移民した人々で最も早く英語にシフトするのはオランダ人なのです。

同じパネルのメンバーも見つからないので早めにレセプションを出て、夏時間でまだまだ明るい街路を歩きましたが、6時でお店はほとんど閉店です。どんどん閉じていくのを眺めて、あーやはりここはヨーロッパだなと思っておりました。
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雨の日は美術館めぐり

2008-03-31 18:13:53 | I AMSTERDAM
前日の晩ご飯はホテルで紹介された近くの中華レストランに行きましたが、メニューをみるとどうも香港風です。支配人のおじさんと息子さん(?)がすぐに広東語にスイッチして別メニューを準備してくれました。30年前に香港の元朗から移民できた人で、息子さんはアムステルダム生まれだそうです。つれあいの話では、単語が少し足りないけど、ちゃんと広東語を話せるそうです。思わぬところで、移民第1世代と第2世代の多言語話者にであったわけです。

30日は一転、雨模様で一日中降ったり止んだりです。

そんなわけで、同じトラム2の沿線にあるゴッホ美術館と国立博物館を訪問しました。

ゴッホ美術館は、ゴッホの弟テオが使命としたビンセントの絵を広める仕事を引き継いだ、奥さんと息子によって永久期間アムステルダム市に貸し出されている絵をもとに建てられたもので、多くのすばらしい作品が展示されていました。ゴッホの説明を見ると、色の実験という面が強調されていて、そういうふうに見れば確かにじつに鮮やかな色の対照を作り出していることがわかります。売店でもゴッホの黄色や青を使ったカサやスカーフを売っています。しかし、ゴッホ以後の印象派から現在のCMまで広がる色の実験に目を汚されている人間から見ると、ゴッホにはむしろ構成の強さを感じてしまいます。

国立博物館は言わずとしれたレンブラントとフェルメールです。とにかく「夜警」が巨大。ここにあるレンブラントはどちらかというとオランダの国宝としてのレンブラントが多い気がします。卓越した絵の技術とか、アムステルダムを称揚するような絵が多いのです。むかしプラド美術館で見たレンブラントには、ゴヤの友人のような絵が結構あったんですけど。

なんかすごい絵ばかり見て視覚が飽和してしまったので、ちょっと息抜きにビンセント・ヴァン・ゴッホを娘と一緒になんて言い換えられるか考えていました。で、出てきたのが「えびせんとばんごっはん」。声に出して言ってみると笑えます。

発表の話は、トップダウン・アプローチをとる言語政策と、ボトムアップ・アプローチで当事者の問題から出発する言語管理とのかかわりを多言語使用者の事例から考察するというものになります。

マクロな言語政策では外国人居住者は、ある言語の母語話者として見なされるか、日本語の非母語話者として見なされるか、のどちらかしかなく、政策立案もまたある言語の母語話者に対する言語サービスか、日本語支援と生活支援しかないというところが議論の出発点です。

昨年から発表を始めている多言語使用者の事例には、そのどちらでもない外国人居住者がじつは少なくないというところに、マクロな政策との矛盾が見えてくるのだと思います。そして現在すすめられつつある「多文化共生」のスローガンもまた、こうしたトップダウンの政策的な前提から一歩も踏み出していない、ということも言えるのかもしれません。


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Amsterdam到着

2008-03-30 14:44:44 | I AMSTERDAM
28日夕方、アムステルダムに到着しました。来週開かれる社会言語学の学会に共同発表者として参加するため、少々早く成田を発ちました。アムテルダムはまだ肌寒いのですが冬は終わったようです。ようやく木々に淡い緑が見え始め、春の到来を準備しているといったところでしょうか。

着いた日の夜は雨でしたが、29日は晴れ上がったので土地勘を作るために朝から中央駅までトラムで出かけ、午前は運河のクルーズ、午後は町の散策で過ごしました。オランダは九州と同じくらいの広さですが、人口は1600万人もいて、町中は土曜日ということもあって人でごった返しているのには驚きました。イースターでもあって、観光客も少なくないようです。それでも狭い道に西欧人が新宿や渋谷以上に密集しているのは変な感じです。問題なのは、オランダ人は背が高い人が多くて前が見通せないことですよ(笑)。私自身はこれまでどこへ行ってもそんなことを感じたことはなかったんですけど。

会議では日本における多言語使用者について発表することにしていますが、アムステルダムのようにどんな人間も昔からいる社会で、どのように話を進めれば理解してもらえるか、そのことを見つけたいと思います。
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