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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

辺見庸「瓦礫の中から言葉を」・山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」

2012-03-04 00:11:05 | my library

 3月に入った。今年の冬は本当に長い。去年の今頃はどんな夢をみていたものやら。

 昨年の大震災がどれほどぼくらの行動や思考や認識をしばり、影響を与えてきたかをときどき思うが、そのような著作にはなかなか出会わなかった。2月に読んだ次の2冊はまさにそういう深さをもった思索の書だと思う。

辺見庸「瓦礫の中から言葉をー私の<死者>へ」NHK出版新書(2012.1)

山浦玄嗣「イエスの言葉 ケセン語訳」文春文庫(2011.12)

辺見氏は石巻出身の作家、山浦氏は大船渡出身の医師(ケセン語訳新訳聖書を出版したことで有名)だ。

辺見氏は東京の自宅で故郷と友人をなくすのを見ていた人であり、メディアや政府、専門家の言葉の軽さや欺瞞から始めながら、やがて原民喜の「夏の花」、堀田善衛の「方丈記私記」などが刻んできた言葉を手がかりにわれわれの「現在」を理解しようとする誠実さが息苦しい。

山浦氏は大船渡でまさに津波を経験した人だが、すでにライフワークであるケセン語訳聖書を仕上げた人が、イエスの言葉を一つ一つ取り上げ紹介しながら、被災を生きていく自分や周囲に起こったことをイエスの言葉を読み込んでいきながら理解していこうとする祈りの姿が目に見えてくる。

 

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ヴォルテール、吉村正一郎訳『カンディード』岩波文庫

2011-05-26 23:57:34 | my library
自転車で大学まで行き来をしたら、今日はなぜかとても重く、疲れて何もできなくなったので、夜は『カンディード』の残りを読了した。4月末から枕元で読んでいたのだが、薄い本なのに時間がかかってしまった。

初版は1956年で、手元にあるのは1978年の25刷のもの。今は植田祐次訳で岩波文庫に収められている。

この本は買ったのは大学1年のときだろうから、林達夫の影響に間違いない。最後のカンディードの言葉、「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さなければなりません」はあまりに有名だ。

本の最初のほうに1755年のリスボン大震災の記述がある。「恩人の死を嘆きながら、市中に足を踏み入れたかと思うと、たちまち足下の大地が振動するのを感じた。港内は海水泡立ち高潮して、碇泊中の船舶は破壊された。炎々たる焔、火の粉の渦巻が通りや広場を覆うた。家は倒れ、屋根は土台の上に落ち重なり、土台はばらばらに飛び散った。老若男女三万の住民は倒壊した家屋の下に圧しつぶされた。」(p.31)

ウィキペディアではこの地震をつぎのように記述している。

「1755年リスボン地震(1755ねんリスボンじしん)は、1755年11月1日に発生した地震。午前9時40分に[1] 西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5 - 9.0。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている。」

「11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日)であった。当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある[2]。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。生き残ったリスボン市民は港のドックなどの空き地に殺到したが、やがて海水が引いてゆき(引き波)、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った[3]。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた市民を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。ポルトガルの他の町でもリスボンのような惨禍に見舞われた。」

今回の震災と酷似したものであったことがわかる。

カンディードはさまざまな悲惨な目に遭いながら、楽天主義と悲観主義の哲学的議論をしていくが、最後に手に入れた畑と家に自足の必要を見いだすわけだ。しかし、今回、読んでみて、カンディードの言葉はそれに加えて、大言壮語をいましめて、足下の現実から始めなければならないということでもあるように感じる。

いつも意識の隅にいつづけていた『カンディード』だが、思わぬことで再び手に取ることになったものだ。
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オルガ・トカルチュク 小椋彩訳『昼の家、夜の家』白水社

2011-02-16 23:48:38 | my library
雨が降ったり雪が積もったりする冬の終わりに入りかけた2月2週目、大学院の前期課程の入学試験、学部の卒論発表会、などようやく終わり、あとは成績付けを残すばかり。めずらしく残り2月は校務がほとんど入っていない。

風邪っぽく少しモウロウとしたけど、古い風邪薬やレモンティーなどを飲んで何とか持ち直したようだ。

今日は書店で『文藝春秋』を見つけて購入。例の二人セットで売り出すことになった芥川賞作品2作が載っているもの。どちらも1頁読んでみたけれど、残念ながら退屈。というかきっとどこにも突き抜けていかないのだろうと思ってしまい、芥川賞ってこんな感じだったのかなと思ってしまう。そういえば、『文藝春秋』もずいぶん下世話なのに驚いた。

現在、読書中なのは、これも書店で表紙が気に入って買った、ポーランドの作家、オルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』(2010年10月 白水社。原書は1998年出版)。

ポーランドとチェコの国境地域のノヴァ・ルダという町の人びとやその土地に関する掌編が散りばめられている小説で、なんとも不思議な作品。ストーリーを壊したことが効いているのか、上であげた芥川賞2作品とはちがって、まったく予測の出来ない文章が続いていく。言い換えると、物語に還元されたり、フィルターをかけられることのない、登場人物の独自な生活や習慣や感じ方が透明な視点からかたられていく。そんな感じだ。まだ始まったばかりだが、さて、どんなふうに進展していくのか、こちらもまったく予想も出来ない。久しぶりの現代(post-modern)小説である。
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『ハックルベリー・フィンの冒険』(村岡花子訳)

2011-01-15 23:43:41 | my library

香港にいる間、読んでいたのはマーク・トウェインの名作『ハックルベリー・フィンの冒険』。

じつは恥ずかしながら今回、初めて頁を開いた。マーク・トウェインは今ならほとんどテロリスと呼ばれそうなくらい、アメリカ人を批判的に描く作家だと思っていたけれど、その印象は変わらない。ハックルベリーが逃亡してきたジムといっしょに筏で川を流れていく中で、白人民衆の醜さが活写されていく。ハックルベリー少年はジムの誠実で人間と人間の間の基本倫理のようなものに感化されて、成長していくのだ。昔、大江健三郎が「ハックルベリー問題」として注目した箇所、ジムといっしょに地獄に落ちようと決意するところの、トウェインの書きぶりは、当時の読者からは本当にハックルベリーが地獄に落ちてしまうと信じるようなやりかたで書かれているが、現在から見ればそれは紛れもなく黒人を人として見なそうとする決意の表れとしてしか読めない、そんな二重の仕掛けがここにはあるわけだ。

それにしてもトウェインがすごいのは、最後の最後に、今度はインディアンの居留地へ行こうとハックルベリーに言わせているところだ。もちろん、問題は黒人で終わらない。インディアンの人びとについてもおなじことが行われなければならない。その宣言が最後にされて、この本は終わる。

写真は、湿地公園で見つけたハックルベリーの木。ただし、Chineseという冠がついている。
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佐藤文夫 『詩集 津田沼』(作品社)

2010-02-09 23:38:29 | my library
延吉の話は1回休み。

10年以上も前、年の終わりにその年に刊行された詩集を何冊も買っていたことがある。つまり詩人たちがその年に言葉を通じて戦ったその戦績を拝読するという儀式だった。もうすっかりそんなことをやめてしまったけれど、この1月に久しぶりに買ったのが上の詩集だ。2009年4月の初版。

購入したのは残念ながら津田沼ではなくて、稲毛海岸だった。ぼくはごくふつうの本屋に行ってあまり普通とは思えない本を見つけて買ってくるのが楽しみなのだが、そのときも特にこの本を買おうと思って本屋の棚を物色していたわけではなかった。「津田沼」と目に入ってくるまで、何も知らなかったのだ。

最初の詩は表題になっている「津田沼」で、こんなふうに始まる。

津田沼
という沼は
どこだ

きみはいま
津田沼という
ない沼の上に
立っている

津田沼よ
かつて津であり
田であり
沼であった
津田沼よ

もう誰も言わなくなったことを敢えて言葉にする、まったく流行らないそのやり方は、意識的にユーモラスでもあり、かなり姿勢を正される。反骨精神だけなのかというとそうでもなく、たとえば次のような美しい言葉が紡がれる。

日和山にて風をまつ
風が吹いたら船をだす

学生時代の同人誌に、「風待ち」という小説のようなエッセーのようなすがすがしい鬱屈を書いた先輩のことを思い出す。

しかし、やはりユーモアが良い。次の詩は「動物園」の連作。

「ヒト喰い虎」

ちかごろのトマトときたら ほんとうの
トマトの味が しなくなってきたという
そういえばちかごろ人間だってさっぱり
人間の味がしなくなってきたではないか
と どこかでヒト喰い虎がはなしている

もはや詩を気取ることのない詩人の言葉は滋味深い。
ちなみに津田沼駅の周辺はむかし陸軍の鉄道連隊の敷地だったそうです。陸軍がそのあたりでレールの敷方を練習していたので、そのでき上がったレールを買った京成線は練習通りにカーブがやけに多いのだとか。
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Kurt Vonnegut Jr, Mother Night

2009-10-13 23:35:32 | my library
Kurt Vonnegut Jr, Mother Night. New York, New York: Dell Publisher, 16版 April 1980. $1.95

今年の夏休みに遊んだオーストリアにはこの本を持って行った。以前に書いたように、アメリカ留学の後、初めて訪れたヨーロッパにも持って行ったから、この本は2度ヨーロッパを旅したことになる。ペーパーバックなのですっかり黄ばんでしまっているが、とにかく軽いのと、ヨーロッパとアメリカの関係を考えるときにいつも思い出す本なので、今回も持って行き、ゆっくり最後まで読んでみた。初版は1961年。買ったのはきっと1979年に登場したばかりの村上春樹が口にした作家の1人だったからだ。

以前に触れたときにはドレスデンでアメリカ軍の無差別攻撃に遭ったアメリカ人の物語と書いたのだが、その記憶は正しくなかったようだ。経験したのはボネガットで、主人公ではない。ただし、Resiという後半で重要な役回りを果たすことになるロシアで行方不明になった主人公の妻の妹が無差別爆弾を経験したことになっている。

主人公はHoward W. Campbellという名前のドイツ育ちのアメリカ人。彼はもと舞台の脚本家だったが、ナチス時代にドイツの英語放送でナチスの宣伝広報を担当した罪で、帰国したニューヨークで捕らえられ、エルサレムで服役しながら、自分の罪を告白する書き物を綴っているというのが、小説の設定だ。こう書いただけでも、ナチス=悪、アメリカ=正義といった単純な構図からかけ離れたところで書かれたことがわかるだろう。詳しいストーリーは書かないが、ボネガットらしい、権力からも人生からも疎外されたというか、栄養分をもぎ取られてしまったというか、あるいはただただ途方に暮れたというか、そんな負荷感を持った文体で、戦争という大声で至る所から正義が叫ばれる中に主人公を翻弄させながら、それでも、なにか倫理のようなもの、公言すれば笑われるような、なんともみすぼらしくプライベートな心のわずかな振動を書き留めさせようとする、そんな話なのだと思う。

彼の文体の負荷感からは時代とサシで向かっている孤独が感じられる。たとえば安部公房のような。ノーベル賞委員会はきっとリストにも入れなかったかもしれないが、ぼくにとっては傑作だ。
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田口晃著「ウィーン 都市の近代」(岩波新書)

2008-10-30 00:01:51 | my library
今年10月21日発行の岩波新書です。田口先生は私の学生時代の先生です。授業を受けたことはないのですが、ウィーンつながりで縁がありました。

後書きによると、1981年から83年にかけてウィーンに留学生活を送られています。私がマサチューセッツ留学の終わりに大西洋を渡ったのが82年6月でしたから、長くて暗い最初の冬を越して春の季節を迎えた頃に、私は先生のウィーンのアパートに何日かご厄介になったということになります。あのときはまずカフカのプラハに行き、そこからウィーンの南駅に着いたのでした。縁とは奇妙なもので、ネウストプニー先生はそのプラハ出身でしたし、その後、初めて日本語を教え始めたのもウィーンだったわけです。

先生のアパートは後書きにもある労働者の多いOtterklinger区にありました。ウィーンのアパートはそれほど広いわけでもないので、先生の机が玄関の狭い廊下の突き当たりに置かれていたのを覚えています。

それからまだ小さかった二番目の娘さんが「警察はpolizeiって言うのよ」と教えてくれたのも覚えています。ご家族といっしょにワインを飲みに行ったり、たしかシェーンブルン宮殿まで案内していただいたのではなかったかなと思います。

先生はオランダなどのヨーロッパ小国の政治史がご専門でしたが、その時代の先生の常で大変な博識で、芸術にも、歴史にも、そしてこの著書で扱われているような建築や経済、そして都市の構造についても何でも知っていたのを覚えています。ヨーロッパの強さは、近代主義が強いと同時にアンチ近代主義の歴史もまた200年も前からあることだ、とワイン(ウィーンでは、ワイン酒場ではワインに炭酸水を混ぜてよく飲むのですが)を傾けながら、話して下さったのを覚えています。ワインを飲んで談論に花を咲かせるというのは、長い黄昏文化ですよね、なんて話したかな。

6月の、11時にならないと夜にならない、長い長い黄昏の光がそこにはありました。

いろいろな研究をされてきたのだと思うのですが、ウィーン研究がライフワークの1つになっていったと書かれています。そしてあの頃から27年近くも経って、その成果の一部をまとめられたわけです。その息の長さを、やはり研究者として肝に銘じておきたいところ。

ウィーンについての著書としては、個人的には、良知力の遺作『青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年』(平凡社1985年)以来の骨のある著作だと思います。
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カフカ『アメリカ』『失踪者』

2008-09-25 00:47:53 | my library
『決定版カフカ全集4 アメリカ』(千野栄一訳、新潮社)1981年12月25日 3刷 1984年5月5日
『失踪者』カフカ・コレクション(池内紀訳 白水ブック)2006年4月25日

カフカは好きな作家で、アメリカ留学の最後にヨーロッパに行ったときも、最初の目的地はカフカのプラハだった。まだ東欧という響きが国境の堅い警備を意味していた頃で、プラハの人々にとってカフカはいわば禁句だったのだと思う。プラハには市街区広場を囲むアパートの壁にカフカがそこに住んでいたことを示すレリーフがあるだけで、他にはカフカを感じる場所はどこにもなかった。第一、カフカはチェコ人でもなかったのだから、チェコ人がカフカを国民的英雄とするわけもない。ただし、プラハの春の象徴的存在だったことは確からしい。だからカフカは当時のプラハで、とてもカフカ的だったわけだ。

そんなわけでカフカについては新潮社版の全集を買いそろえていたが、唯一最後まで読了できずにいたのが、この『アメリカ』だった。この題名はカフカにとっては「例のあの話」程度の意味で使った題名で、彼自身は『失踪者』という表題を考えていたらしい。カフカを世に出したマックス・ブロートの編集では『アメリカ』となっていて、その編集された形は長い間、変更出来なかったという。そのため、新潮社版も『アメリカ』となっている。

もう1冊は最近手に入れたもので、池内紀個人訳の全集の廉価版。こちらはようやく各国の研究者の成果を盛り込んだ新版にそった内容となり、題名も変わった。そこで、少し池内訳を開いたわけだが、読み始めて何ページとすすんでも、どうもカフカを読んでいる気がしない。ふつうの誰か知らない作家の作品という印象。おかしいなあというわけで、千野訳と冒頭の1段落を比べてみたのが、下の引用だ。ついでに、原語のテキストもインターネットで見つかったので載せてみる。

「女中に誘惑され、その女中に子供が出来てしまった。そこで17歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカにやられた。速度を落としてニューヨーク港に入っていく船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像を見つめていた。剣を持った女神が、やおら腕を胸もとにかざしたような気がした。像のまわりに爽やかな風が吹いていた。」(池内紀訳)

「女中に誘惑され、そのために女中に子供が出来てしまったので、貧乏な両親にアメリカに送られた16歳のカール・ロスマンが、すでに船脚をゆるめてニューヨークの港に入りかかっている船の上から、もう長いこと自由の女神の像をながめていると、ふいにそれが輝きを増した太陽の光に照り映えて見えた。そして女神の剣を持った腕が前方にあらたにさしのべられ、像のまわりには自由な風がそよいでいるように思えた。」(千野栄一訳)

"Als der sechzehnjährige Karl Roßmann, der von seinen armen Eltern nach Amerika geschickt worden war, weil ihn ein Dienstmädchen verführt und ein Kind von ihm bekommen hatte, in dem schon langsam gewordenen Schiff in den Hafen von New York einfuhr, erblickte er die schon längst beobachtete Statue der Freiheitsgöttin wie in einem plötzlich stärker gewordenen Sonnenlicht. Ihr Arm mit dem Schwert ragte wie neuerdings empor, und um ihre Gestalt wehten die freien Lüfte." 
(http://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=1347&kapitel=2&cHash=fb27b01e53ameri11#gb_found)

ぼくはドイツ語はほとんど出来ないけれど、ドイツ語のテキストと比べてすぐにわかるのは、千野訳が一文を一文で訳す直訳主義であるのに対して、池内訳は上からどんどん句点をつけて区切っていく、どちらかというと意訳主義だということ。このどちらが良いかはぼくにはわからない。しかし、これまでぼくが読んでいたカフカは千野訳調のものが多かったから、池内訳にはカフカの香りが感じられなかったのだと思う。

どちらにも言語感覚のするどい訳語があり、どちらにもこれはちょっとと思う訳語もありそうだが、池内訳の「おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら」は主人公にかかってしまうので、これは誤訳かもしれない。それからこれはどうかと思うのは、最後の部分のfreien Luftの訳。千野訳は「自由な風」としているが、池内訳は「爽やかな風」となっている。カフカの小説にはよく役所の風景が描かれていてそこには必ずと言っていいほど、澱んだ息の出来ないような空気が強調されていると思うけれど、ここでは旧大陸から新大陸に降り立とうとする主人公の気持ちがあるわけで、その対照を考えれば、ここはやはり「自由な風」ではないかと思う。

というようなことを素人のぼくは思うのだが、ドイツ語のわかる人の意見を聞いてみたいところ。池内さんのものについては最近、同じような経験をしたことがある。例のカントの『永久平和論』を池内さんが訳していて、きれいな写真つきの、とても読みやすさを考えたものだけれど、読んでいるとどうも意味不明なところが出てくるのだ。そこで、岩波の訳を見ると、難しいけど論理はわかる。だから難しいものがわからないわけではないのだと思った次第。

なので、千野訳のほうをぼくはやはり買いたい気持があるし、そこにカフカを感じたいと思うけれど、果たしてその判断は正しいのだろうか?案外、池内訳のほうがドイツ語の堪能な人々にはカフカらしさを感じさせるものだったということはないのか?カフカのドイツ語は難しくない、と遠いどこかで聞いた言葉が気にかかる。

それがぼくの大きな疑問。
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『西遊記』(岩波・中野美代子訳)

2008-08-28 16:07:23 | my library
あっと言う間にメルボルン滞在も最終日になりました。

今週に入ってようやく春の気配が感じられるようになって、久しぶりに冬らしかった雨のメルボルンも終わりというところで、日本に戻らなければなりません。

休暇中、中野美代子訳の『西遊記』を2巻だけ読んでいましたが(じつは80年代前半に最初の訳者が亡くなり、中野美代子が代わって完成させたものです。こういうことは結構あるのですね。ドン・キホーテの訳も同じ運命を辿っています)、いろいろストーリーということについて考えさせられていました。2巻の中盤に至ってようやく玄奘三蔵が現れるので、いったいそれまでの天宮での大騒ぎと五行山への幽閉、唐の皇帝の黄泉の国行きと生き返りなどはどのような意味を持つのかと思ったのです。しかし、もしこうした物語がなぜあるのか、なぜ物語るのかを考えるなら、そこにはきっと人が生きていくことと並行的な関係が現れているからに他ならないのだと思います。それは人生はいくつもの物語の重なりなのだということ、だからこそ作者はいくつもいくつも物語を語っていくのだと思うのです。

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藤村信「歴史の地殻変動を求めて」訂正

2008-01-26 23:00:49 | my library
アマゾンから先に紹介した書籍が届きました。
ざっと目を通していたら、藤村信の日本人の奥さんの名前が出ていました。後書きはジャーナリストの娘さんが書かれています。

というわけで、私がウィーンで教えていたクマダさんは藤村信とは無関係ということがほぼ確認できたと思います。当時から考えると実に20年ぶりの修正となったのですが、しかしそれでもクマダさんとの経験は藤村信と結びついて離れそうもないのが面白いです。当時は私もお金がなかったこともあってしきりに東欧やバルカンに足を延ばしていたこともあり、藤村信の書き物がその道案内になっていたということなのかもしれません。
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