フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

ミクロがマクロを包摂する

2009-05-27 23:49:53 | research
月曜日は立教大の先生が研究室を訪ねてくれて話。NSWの蘇舛見さんからの紹介。多文化共生派の悪口をちょっとだけ。

今日は異文化間コミュニケーション論の講義をお願いしている非常勤の先生と食事。実践的なアプローチで異文化に対する感受性を育てると同時に自分に対する内省を促すことを重視しているというお話。自分を知る努力のことを内省と言っているわけだが、知ることと内省とをつながなければならないことはいつも感じていることだとは言え、それはその場その場で内省を促すだけではだめで、やはり一人一人の予測しようのない成長とともにあることを思い出させてくれて新鮮だった。

国境を越えて移動する人々はどのように接触場面をとらえ、そこのコミュニティに参加しているのか?

こうした疑問を考えていくためには、接触場面におけるディスコースの相互作用と言語管理を見ていく以外に、どのような視点や方法が必要なのか?とくに社会的な作用やコミュニティの慣習、あるいはその人の半生の言語環境など、いわばマクロな要素はどのように扱うべきかを考えていた。(次の言語管理研究会の準備です)

一番はっきりとわかることは、ディスコースの相互作用の中には社会的な影響や個人の言語態度などが見つけられるが、マクロな要素の中にはディスコースの言語管理は見つけられないということだ。つまり、実際の接触場面で参加者が何を感じどのような相互作用を行おうとしたかという中には、参加者が相互作用にどのような態度で向かおうとしたかとか、そこで用いられる基準が社会のどのような相と関連しているのかとか、そもそも参加者の言語管理のあり方はどのような社会的制約に基づいているかとかいった局面が分析できるように思われる。しかし、マクロな言語政策をいくら眺めてもそこにはディスコース上の言語問題を予測させるものはぼんやりとしたもの以外は見つけられないように思うのだ。だから、ここではマクロがミクロを包摂するのではなく、ミクロがマクロを包摂しているという逆説的な状況があることになる。

ディスコースの相互作用に言語問題の基礎がある(ネウストプニー1995)ということの意味はここにあるのかもしれない。
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Goffman, Brown and Levinson そしてJ.V.Neustupny

2009-05-19 23:36:35 | today's seminar
先週の週末は娘の中学の体育祭があった。中学生は素晴らしい。男の子たちはサラブレットのように駆け抜け、女の子たちは鹿のように飛び跳ねる。その身のこなしのなんと軽いこと!それは高校生になるときっと消えてしまう軽さなのだと思う。

大学院授業のメモ。

Brown and Levinson(1987)には周知のようにポライトネス研究再考といった趣の序があって、Goffmanへの関心の喚起や、Leechのポライトネス原理に対する批判がある。

少し読み始めると、彼らのポライトネス理論の前提にあるグライスとの関係を自己解説した部分に、ポライトネスをグライスの公理(格率)からの逸脱deviationとしてとらえていたことが述べられている。逸脱という言葉はGoffmanにも見られるが、B&Lにもまさにネウストプニーが言う意味での逸脱、つまり不適切であったり一貫していなかったりすることについて使っている。逸脱という言葉に眉をひそめる向きがあるとしたら、それはB&Lのポライトネスのプロセスについての考察にもおそらく理解が至らないということになるかもしれない。

GoffmanのFace-workの論文には、主なface-workとして回避avoidanceと訂正correctiveがあげられており、faceの侵害を事前に回避する場合から、それを維持したり、事後に回復するような行為について考察が行われている。これもまたぼくには極めてわかりやすい論述の流れであって、ネウストプニーの言語管理理論が明らかに彼らと同時代的な土壌から生まれていることがわかる。

Goffmanには社会に対する考察の面が強い(何しろfaceはデュルケームの神聖性が個人に内在化されて、社会の統合のくさびになっていると主張しているほどだ)。B&Lもまたデュルケームの言葉を巻頭言として載せているが、どうしても社会の考察が背景化してしまう(おそらくはfaceをひとのwantとしたことに遠因がありそう)。同じようにネウストプニーでもディスコース上の管理を語りながらマクロな社会の管理(言語政策)については背景化が起こっている。おそらくディスコースといいながら、個人の意識や内面を強調してしまう契機が混じってしまったことが原因の1つとなっている可能性がある。Goffmanには身振りや仕草といった相互作用の演技的な面を社会と個人の境界線としてとらえる目があり、心理を扱っているようでいてそうではない。

それにしもて滝浦氏の文章(「日本の敬語論」)は冴えている。かなりの論考はB&Lを下敷きにしているとしても、言いたいことをずばりとわかりやすく言えるのはなかなかのもので、どても勉強になる。
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言語バイオグラフィーのポテンシャルについて

2009-05-14 23:35:05 | research
今日は涼やかな風のすがすがしい日。しかし風が強い。
仕事の合間に言語バイオグラフィーの方法論を論じたネクバピル氏の論文を読んでいた。

Nekvapil, J. (2003) Language biographies and the analysis of language situations: on the life of the German community in the Czech Republic. International Journal of the Sociology of Language 162, pp.63-83.

この論文は、1920年代に生まれ、チェコに育ったドイツ人のこれまでの生活をインタビュー調査する質的な研究をもとにして、当時から現在までの言語環境を語りの中からすくい上げるための1つの方法である、言語バイオグラフィーの信頼性を検証したものだ。ナラティブ・インタビューの方法的な問題、1年の間を置いた場合に語りは変わるのか、調査者がチェコのマジョリティの人間か、調査協力者と同じ言語を話せるドイツ人であるかによって語りは変わるのか、そして調査の目的の提示の仕方が違う場合にはどうか、などいくつもの論点について検証が行われている。

興味深いのは、人生についてのインタビューをする形を取り、調査協力者に言語にフォーカスさせないままに語ってもらうことによって、言語がその人の人生においてどのような役割をもっていたかが分析できるという点。逆に言語使用や言語習得自体に焦点をあてたインタビューをすると、そうした言語環境の位置づけが見えてこなくなるという。

また、個人の語りから得られる言語バイオグラフィーを重ねていくことで、「典型的」な言語バイオグラフィーが抽出できるということ。もちろん、そうした典型的な言語バイオグラフィーが1つだけかどうかは議論のいるところ。1つになってしまうのは、調査協力者が共通した背景をもっている場合だろう。

最後に、ある言語に対する語りには、その言語の話し手たち(とそのコミュニティ)に対する態度の表明が分析できるという点。ナラティブ・インタビューという構築物を作っていく上でそれはまるで規則のように影響しているという。

こうした言語バイオグラフィーの方法は、歴史の中で人々が置かれていた言語環境とそれに対する認識や態度を研究する上で有効な社会言語学的方法になりうるというのがネクバピル氏の主張なわけだ。とくに最後の点、もしもそれほど古い時代までさかのぼらずとも自分の出身地域から現在までの言語バイオグラフィーの中から言語とその話し手のコミュニティに対する態度が抽出できるのであれば、それは実際の場面における言語使用と言語管理の傾向に何らかの影響をもつメタ的な意識をさぐる試みに使えるのかもしれない。

さて、どうだろう?

強い向かい風の中、海岸線を帰宅。風が強いので海岸には人は少ないけれど、夕陽を背景にして幾人かが一人で砂浜を歩いていたりする。ぼくらはそうやって個にもどる時間をつくるわけだ。
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ポライトネスの受動的面と能動的面

2009-05-12 23:52:58 | today's seminar
今学期は修士課程で滝浦氏の『日本の敬語論』の第2部、博士課程でGoffmanのface-workから読み始めている。

今日の『日本の敬語論』ではBrown & Levinsonのポライトネス理論について、それが受動性と能動性をもっており、社会言語学的コードが強くて選ばされるポライトネスと、相互作用の中で自ら選ぶポライトネスの両方が含意されているという指摘があった。

これはBrown & Levinsonには必ずしも明瞭に説明されていない点だが、とても興味深い。なぜなら、それは言語の規則によって生成される側面と、意図によって意識的に選択される側面とを見ているからだ。この意識的な選択という側面がすぐに言語管理的な側面に直結するというわけにはいかないが、滝浦氏は注釈でネウストプニーの業績を評価しているように、我々と似た言語使用の諸相を見ているのだと思う。

Brown & Levinsonの場合には、むしろストラテジーの使用が諸条件(関係、権力、負荷)による自動的な生成のように感じられてしまうのはぼくだけだろうか?
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トチノキの花咲く頃

2009-05-10 23:30:06 | Weblog
あっという間に5月になってしまった。

日差しも明るく、空気も乾いているこの時期はまさに春の陽気。トチノキのピンク色の花が、葡萄の房を逆にしたような三角形に咲いて、光を浴びている。この街に来て10年目になるが、風の強いこの街ではこれまでせっかく拡げた大きな葉が強風にやられてよく枯れていたが、最近は幹も太くなり丈夫だ。写真は、私も少しだけ関係のある、わが街のボランティアグループのHPから借用させていただいたもの(http://greemthumb.cocolog-nifty.com/ento/)。トチノキの同類にはもちろんマロニエがあるけれど、ウィーンではこれをカスタニエンと呼ぶ。秋にできるカスタニエンの実を使った同名のケーキがある。ウィーンの5月もまたカスタニエンの白やピンクの花が咲く頃だ。

Nekvapil氏のlanguage biographyに関する論文を再読。人々のナラティブから彼らの置かれていた言語環境をさぐるための方法としてどの程度使えるのかが吟味されている。個人のナラティブの中からその時代の似た集団に属していたと思われる人々のtypicalな言語環境が抽出できるというところが興味深い。個別性と典型性という切り取り方。
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