フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

兎をめぐって耳の先まで

2010-01-30 12:42:09 | Winter walk in Yanji
朝鮮半島のかたちを半島の人々は兎になぞらえるらしい。最初は納得しなかったけれど、何度も見ているうちに兎が見えてきたのは面白い。

ソウルのあたりはへこんでいて脇のあたり、その上の突き出たところが前足、遼東半島のカーブの途中、鴨緑江の河口あたりが口、そしてそこから北東に頭と耳が続く。中国の延吉はその耳先の西に位置していることになる。

仁川のアシアナ航空の機内に入りパンフレットを見ると、飛行機はまっすぐ延吉まで飛ぶように書いてある。つまり北朝鮮の真上を飛ぶわけで、これはどうなるのだろうと期待したわけだが、実際はやはりそんなことにはならなかった。写真は座席のモニターを写したものだが、遼東半島の手前まで海を飛んで大きく右旋回、兎の鼻先をかすめて行った。2時間の滞空時間は、この迂回によるものだったわけだ。

現実の東アジア共同体は、奇妙な迂回とともにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

延辺とはどこか

2010-01-26 23:28:29 | Winter walk in Yanji
延辺朝鮮族自治州と聞いてピンと来る人はまずいないだろう。朝鮮族という言葉は大学では日本語が妙に上手い留学生とほぼ同義で、英語が出来ないと付け加われば、ほぼ間違いがない。しかし、彼らがどこから来たか理解している人は少ないように思う。

私もまたちょっと前までは同じ認識しか持っていなかったわけだが、論文の共同執筆者になったおかげで、彼らが中国東北地方に散らばっており、とくに吉林省の東、長白山の北側の裾野からつづく盆地を中心とした延辺朝鮮族自治州は、朝鮮族のもっとも集住する地域であることがわかったわけだ。

朝鮮族の多言語使用については、論文執筆の過程である程度は理解したとおもっていたが、なにせ実際の多言語使用を見てはいないわけで、やはりこれは実際に行ってみるべしと思った次第。丁度、出張予算もいただけたので、韓国語がわかる学生、延辺大学出身の朝鮮族の学生、それに共同執筆者のM先生と総勢5名で18日に成田を発つことにした。私以外はみな、韓国語が出来るというわけ。

自治州の首府がある延吉市までは直行で行ける便がなく、ソウルで一泊せざるをえない。夕方、仁川空港に着く。韓国は2年ぶりの2回目。みんなにつれられて、地下鉄でソウル市内を目指す。たどりついたのは清渓川の夜の散歩道だ。ちょっと前に大雪に見舞われたソウルの街のところどころに雪が固まっている。空気が凛として、冬の札幌のよう。そこを散歩し、それから近くのレストラン街で焼き肉をいただく。

ホテルにもどる地下鉄の入り口に行く前、光化門に通じる広大な世宗路の交差点に立った。ここは戦争のときに飛行機の滑走路になりますよとM先生。右側には東亜日報社、向かい側には朝鮮日報社。ときどき日本語版の朝鮮日報を読みますよと言うと、あれはあまりよくないと言われる。もっぱらキムヨナの話だけどと言い訳をする。

世宗路(Sejongdaeno)の向こう、道の真ん中には李舜臣将軍像がライトに照らされて青く見えていた。M先生によれば、この通りはワールドカップのときに、スクリーンがたくさん設置されてみんな集まったところだと言う。赤いTシャツで通りがまっかになったところだ。もっと前には民主化運動で大学生たちによって埋められた道でもある。東亜日報社は独裁政権とたたかったが、大学生たちの時代にはガラスを割られたりしたものだ。ちょうど金大中氏の奥さんの本を読んだばかりでもあり、「韓国現代史に敬意を」とつぶやいて、ホテルにもどったのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第22回言語管理研究会

2010-01-23 21:40:22 | research
今週は中国東北部を訪ねる調査旅行を敢行し、木曜日の夜に帰国。その話はまたのちほど。

今日は言語管理研究会の定例研究会を神田外語大で開催する。当事者の語る接触場面の変容というテーマで、昨年11月末に韓国人研究者とブルガリア研究者に話をしてもらったが、今回は子供の頃に海外に渡って(あるいは、海外で生まれて)そこで育った人々の言語経験と言語使用を対象に伺うことにした。話題提供者は以下の二組。

1. 竹内 明弘氏(国際大学大学院国際関係学研究科)
2. グエン・フィン・カム・チー氏(神田外語大学の学生)、 グエン・コン・フィ氏(大東文化大学の学生)

竹内先生はメルボルンにいた頃に、大学院生だった方で家族といっしょに来豪し、娘さんお二人は当時4歳と6歳だったが、今は大学を卒業して、メルボルンに生活の基盤を作っている。英語優勢の二言語併用者というわけだ。もう一組は、一方はご両親の来日後に日本で生まれた学生さん、もう一方は8歳のときに両親とともに来日した学生さん。どちらの組の場合にも、すでに主流言語の母語話者と呼んでもよい段階に入っていて、ベトナム人の学生さんたちにとって日本語を使う場面はもはやほぼ接触場面ではない。メルボルンに住む姉妹も英語の母語話者の段階に入っていて、英語場面は何の苦もない。もしあるとすればそれは未経験の場面であるか、それとも権力が働く場面かなのだろうと思う。

言語管理が強く意識されるのは自分の母語であるはずのベトナム語使用であり、日本語使用の場面にある。それも、もっとも違和感を感じるのは(逸脱を留意する)、ベトナム語を使う日本人との場面であり、日本語を知っているオーストラリア人との場面だと言う。相手がどのくらい自分の母語を知っているのか、相手の方が自分の能力よりも高いのではないかなどの事前留意があって、おそらくは基底規範が安定しないのだろうと思われる。

相手言語接触場面のはずが、共通言語接触場面化ないしは第三者言語接触場面化しだして、そこに母語話者の不安がさらけ出されてしまうのか?

ともあれ、話題提供をしてくださった二組の方々にお礼を申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

複言語主義の不安

2010-01-11 23:29:17 | today's seminar
久しぶりに寒く暗い日。来週行くことになっている中国の延吉の気温を調べると、どうもモスクワよりも寒いみたいだ。メルボルンからは40度を越えたとメールあり。

何年ぶりかで譜面台を購入。ついでに楽譜も買ってきてへたくそなヴァイオリンと娘のピアノとでデュオをやってみる。

今日は授業準備に欧州評議会のヨーロッパ言語共通参照枠Common European Framework of Reference of languagesのお勉強。

慶応の外国語教育研究センターのホームページにはCEFRを土台にした行動中心複言語学習(AOP)プロジェクトの説明があってわかりやすい。平高先生などいらっしゃるところ。この説明を読んでいると、多言語使用という点を除けば、「(人間は)生活の中で主体的に何らかの「課題」を解決することを求められる社会の成員なのです。そしてそのような社会の成員としての個人は、具体的な行動を通して種々の課題と取り組みながら、言語能力を獲得していく」とか、「それは学習者自身にとって意味のあるコミュニケーション活動によってこそ言語知が獲得されるということ」とか、「人生の限られた時間を過ごす学舎で学ぶべきことは、客体化された知識(のみ)ではなく、むしろ学習の技術やストラテジーである」とか、ほとんど1990年代に実践されたネウストプニー先生のインターアクションのための日本語教育と変わりがないことに驚いてしまった。もっとも、上の言葉それぞれは、ネウストプニーも含めて、さまざまな人々がさまざまな言い方で70年代から繰り返し言い続けてきたことの要約なのだから、驚くには当たらない、とは言えるけれども。

複言語主義の最も貢献していると思われる点は、母語話者をモデルにした外国語教育を放棄した点にある。ただ、複言語主義による外国語教育で不安なのは、これが拡大EUの現実に合わせた域内の「ヨーロッパ市民」のための言語政策という面が強調されすぎているように思われるところだろう。

van EkのThreshold Level(1975)の時は、外国人労働者に対する言語教育という面があったけれど、CEFRでは域外からの人々に対する政策はどのように考えられているのだろうか?

母語プラス2外国語を習得すべきというのは、もちろん英語の圧力に対して域内の言語の使用を守ろうとするものだけれども、英語以外の外国語は当然ながら域内の強い言語あるいは域内の当該国で話される主流言語になるだろう。少数言語や方言はこの枠組には入りきらないように思うが、間違いだろうか?(すみません、浅学でこんな基本的な疑問を提出してしまいます)

移民の青少年たちが母語と在住社会の言語を交ぜながら使用している現実をCEFRが見ているかどうかも気になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の誓いもないままに

2010-01-06 00:11:24 | Weblog
2010年が始まった。

21世紀もone decadeが終わったことになる。雑誌のTimeが、One decade from hellと名付けていたのが印象的。この年数には戸惑いがあって、昨年までは08とか09と書いて問題がなかったのに、10では何となく年の雰囲気が出ない。英語でもそのようで、two thousand and tenは伝統的だけど、若い人たちはtwenty tenと言うらしい、なんて話題が出ている。

冬休みに読もうと思って購入したのは、ヘルタ・ミューラーの『狙われたキツネ』(原題は、Der Fuchs war damals schon der Jaerger、三修社、2009年11月)、それと李姫鎬『夫・金大中とともに』(原題はトンヘン(同行)、朝日新聞社、2009年11月)。前者は今年のノーベル文学賞作家の翻訳小説、後者はもちろんノーベル平和賞を受賞した金大中元大統領のファーストレディが書いたもの。今日でようやくこちらを読み終わった。ファーストレディの書いたものと安易に考えてはいけない。これは筋金入りの社会改革家による韓国現代史だ。シンガポールのリ・クワンユーがかつて文化は運命であり、民主主義はアジアに合わないと言ったことに金大中が論争を挑み、文化は運命ではない、民主主義がわれわれの運命なのだと言い切ったことばなどが散りばめられている。そして庭の草木や動物を愛した姿もまた描かれていて、金大中が天才的な普通人でありつづけたことがよくわかる。

そういえば、なだいなだ氏の年頭のインタビューには、彼が日本人の閉塞感や不幸の源は1951年のサンフランシスコ条約と1960年の日米安保条約にあることが最近はっきりとわかったと言っているのにはどきりとした。

帰省先はめずらしく雪が多かった。おかげで玄関先の雪かきを娘といっしょにやった。雪かきをしながら、娘はついでに雪だるまづくりを始めて、ぼくは雪だるま作りの指南役となる栄誉を与えられた。娘はこれが生まれて2度目の雪だるまだと言ったので、彼女は小学校低学年のときにオーストラリアの雪山で作った雪だるまのことをちゃんと覚えていたのだと感心した。

今年の誓いもまだ立てていないのだが、雪だるま作りとともに今年は明けたわけだ。

新年に皆様のご多幸をお祈り申し上げます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする