フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

日本言語政策学会・緊急研究報告会「災害・震災時、情報弱者のための言語政策について考える」

2011-05-30 22:21:26 | Weblog
5月29日(日)は新宿の麗澤大サテライトキャンパスで上の研究報告会があり、満員の盛況だった。

今回の震災について言語政策や言語サービスを検討してみようという趣旨で行われたものだが、急なことでもあり、聴覚障害者と外国人についての発表となった。

ぼくも4月中動き回っていた浦安調査の報告を行った。手話で博士をとった菊地君も発表してくれた。内容についてはまた改めてご報告したい。

雨が激しく、教室も満員で、湿度はいや増す中だったが、それぞれ発表は中身が濃く、各自20分の持ち時間というのが短すぎたかなと思う。枝野官房長官の横についた手話通訳が技術的な問題で聾者の人にはほとんどわからなかったといった話や、知的障害者が避難所ではいられないといった指摘も重いものだった。発表のタイトルは以下のとおり。

第1部:これまでの活動・研究を踏まえて
1.地方自治体の言語サービス   
河原俊昭(京都光華女子大学) 
2.聴覚障がい者への情報提供のあり方   
中山慎一郎(日本手話研究所)
3.メディアと言語情報,知的障がい者と「やさしい日本語」
野沢和弘(毎日新聞論説委員)

第2部:今回の震災時,情報弱者に対する言語情報
1.地震被災時における外国人居住者の情報取得-浦安市の事例
村岡英裕(千葉大学)
2.震災以後,ろう者はどのようにして情報収集をしていたのか: その手段と伝播
菊地浩平(国立情報学研究所)
3.インターネットによる多言語情報提供
青山亨(東京外国語大学 多言語・多文化教育研究センター)

ぼくは決して言語政策の専門家ではないし、多文化共生とも距離をおいてきた人間だが、外国人との接触場面や言語管理をやってきたものとして、今やらないでいつやるのかと思って調査をしてきた。たいした調査ではないが、先鞭はつけられたかと思う。日本語教育の見知った顔も何人も来ていたので、その方々にバトンを渡せればいいのかなと思っている。

ただし、浦安でお世話になった方から、「これで終わりじゃないでしょうね」と釘を打たれたので、学会や研究者たちには先鞭をつけたと思ってほっとしているが、浦安の皆さんにはこれからまたお世話にならなければならないと思う。
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ヴォルテール、吉村正一郎訳『カンディード』岩波文庫

2011-05-26 23:57:34 | my library
自転車で大学まで行き来をしたら、今日はなぜかとても重く、疲れて何もできなくなったので、夜は『カンディード』の残りを読了した。4月末から枕元で読んでいたのだが、薄い本なのに時間がかかってしまった。

初版は1956年で、手元にあるのは1978年の25刷のもの。今は植田祐次訳で岩波文庫に収められている。

この本は買ったのは大学1年のときだろうから、林達夫の影響に間違いない。最後のカンディードの言葉、「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さなければなりません」はあまりに有名だ。

本の最初のほうに1755年のリスボン大震災の記述がある。「恩人の死を嘆きながら、市中に足を踏み入れたかと思うと、たちまち足下の大地が振動するのを感じた。港内は海水泡立ち高潮して、碇泊中の船舶は破壊された。炎々たる焔、火の粉の渦巻が通りや広場を覆うた。家は倒れ、屋根は土台の上に落ち重なり、土台はばらばらに飛び散った。老若男女三万の住民は倒壊した家屋の下に圧しつぶされた。」(p.31)

ウィキペディアではこの地震をつぎのように記述している。

「1755年リスボン地震(1755ねんリスボンじしん)は、1755年11月1日に発生した地震。午前9時40分に[1] 西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5 - 9.0。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている。」

「11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日)であった。当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある[2]。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。生き残ったリスボン市民は港のドックなどの空き地に殺到したが、やがて海水が引いてゆき(引き波)、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った[3]。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた市民を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。ポルトガルの他の町でもリスボンのような惨禍に見舞われた。」

今回の震災と酷似したものであったことがわかる。

カンディードはさまざまな悲惨な目に遭いながら、楽天主義と悲観主義の哲学的議論をしていくが、最後に手に入れた畑と家に自足の必要を見いだすわけだ。しかし、今回、読んでみて、カンディードの言葉はそれに加えて、大言壮語をいましめて、足下の現実から始めなければならないということでもあるように感じる。

いつも意識の隅にいつづけていた『カンディード』だが、思わぬことで再び手に取ることになったものだ。
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教養クラスからの提案

2011-05-23 23:49:33 | today's seminar
 ここ数年、「コミュニケーションと社会」というタイトルで、言語景観、マニュアル言葉、携帯メール、など身近な話題で楽しい授業をしているが、今年はやはり楽しいだけではだめかなと思って「震災時に自治体はどんな情報提供ができるか」と題して3週にわたって学生たちとディスカッションをした。

 1週目はぼくから浦安市の情報提供を様子の紹介。2週目はディズニーランドのキャストをして震災に遭遇した学生の話と、今回の地震でつかわれたメディアからtwitter、facebookまでの新しい情報ソースについての考察、3週目は宮城と茨城で震災に遭った二人の話。情報を求める立場からすると、テレビはまったく役に立たなかったし、必要な情報が得られないことでほとんどすべての学生たちが一致していた。必要な情報は横のネットワーク(人づて、メール、twitterなど)から得られる。

 最後に、今後の対策として望ましい情報提供のありかたを少しあげてもらった。
*インターネット表示板のようなものをいろんなところで見られるように設置する。そして太陽電池などで自家電力でうごくようにする。
*市役所など、そこにいけば情報が得られるような拠点をつくっていく。
*人づての力を再構築する。自治体から自治会、そして住民へという上から下へのネットワークも、インターネットを補強するために、重要。(ただし、本当の危機のときにはこのネットワーク自体が消滅する恐れあり。茨城で被災した学生によると、その町では地震のあと、原発をおそれて多くの人がべつなところに避難して、1週間、もぬけの殻になってしまったとのこと)
 わりと現実的な感じだが、みんなが何かしら経験したことだけに、示唆的なものだろう。

 少し時間があまったので、ぼく自身、3月の間は原発や放射能については、知りたくないことに目をつぶって、大丈夫だろうと自分を欺く心理に陥っていたという話をした。情報は固定的なものではない。送り手がさまざまに工夫するように、受け手もまた意識的・無意識的に加工してしまう。

 さて、来週からまた楽しい授業に戻ることにしよう。
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調査メモ:浦安調査終了

2011-05-11 23:54:55 | Weblog
今日は1日雨。朝、浦安市役所を訪問して、国際交流担当の方にインタビュー。
まだ若い方だが、仕事に熱心で責任感も強そう。1時間あまり質問に答えて下さり、資料もたくさんいただいた。

これで一応、浦安の外国人住民がどのように情報を得ていたかに関する調査は終了した。3月末に思い立ってから何度も足を運び、国際センターと国際交流協会の方々にお世話になりながら、外国人住民へのインタビューを行ってきた。千葉大の大学院生や同僚Mさんにもお願いしての共同調査。まだ分析まではいっていないけれど、今月29日に言語政策学会の緊急報告会で報告する予定。

引き続き、現在、千葉市で共同調査を行っているところ。

それぞれ、思うことがあるが、今日のところはメモに止める。

地震から2ヶ月、黙祷。
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