フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

Amherst revisitedその6:一度も訪れなかったところ

2006-10-03 17:10:46 | NYC after 25 years
一度も訪れなかったところの中にEmily Dickinsonの邸宅があります。写真はこの町が生んだ詩人、Robert FrostとEmily Dickinsonの鉄製の像です。25年前もあったかどうか疑問ですが、なにせこのあたりはまったく足を向けていないので、何とも言えません。

当時の青年だったぼくは、何というか内発的な促しなしにはとにかくどこにも行かなかったし、何もしないという変なことを考えていたようです。その傾向はまだ幾分残っていて、3年半いた大阪で大阪城に出かける機会がなかったのです(汗)。今ではそんな傾向の害こそあれ益のないことがわかっていますが、まあ若い人間としては仕方ないなあ。

鉄製の像のところにはDickinsonの詩が刻まれています。

I held a Jewel in my fingers-
And went to sleep-
The day was warm, and the winds were prosy-
I said "Twil keep"-

I woke- and chid my honest fingers,
The Gem was gone-
And now, an Amethyst remembrance
Is all I own-

Dickinsonの邸宅には美しい庭があり、名も知らぬ花々が見事に咲いていました。短い再訪を終えてバスに乗り込みながら、やっとAmherstの絵が全部そろったような気がしたのですね。では、Amherstよ、またいつか!
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Amherst revisitedその5:忘れていたもの

2006-10-03 16:37:08 | NYC after 25 years
すっかり記憶が落ちて、忘れているものもあります。
この写真は何だと思いますか?

これはぼくが半年暮らした学生寮の1階の郵便受けです。それぞれ部屋の番号が書いてあって、もう忘れてしまいましたが、20階に住んでいたので、2008とかそんな感じだったと思います。2つのナンバーがついたボタンを回してふたを開けるわけです。

これはさすがに忘れていましたが、改めて見ると、にわかに当時のリアリティがよみがえってきます。記憶は、よく言われるように、失われるわけではなく、ただ記憶を検索できないだけなのですね。

この郵便受けを通じて友人達との通信があったんだなあと思います。みんなあの頃は将来のこともわからず毎日毎日、自分の判断を磨いていたなんて、かなりいじらしいし、よくやっていたと思いたいのですが、まあ、それは神話化でしょうね。

ちなみに20階の部屋の窓がくぼみのようになっているところに見えています。
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Amherst revisited その4:時間とともに変わったもの Part2

2006-10-03 15:36:46 | NYC after 25 years
これは町で見かけたType Writer屋さんのショーウィンドウ。お店は閉まっていましたが、中に古いタイプライターが骨董品のように置いてあります。コンピューターもありましたが、それも結構古そう。

中央にあるタイプライターはSmith Corona社のもの。当時はまだタイプライターのほうが普及していて、ぼくもこのお店で300ドルも払って1台買ったものです。電子ですからすごく速くガチャッという音とともにタイプされる、なかなか立派なものでした。タイプミスをすると、泣く泣く1字1字戻っては白のテープで消すわけです。週末は必ず宿題を課されるので、徹夜で数枚のレポートを書いていました。レポート用紙も所定のもので、縦と横の余白の長さとか、タイトルまでの距離とか、決まっていたのを覚えています。

やっぱりこんなのを見ると、時代の変化を感じてしまいますね。何しろぼくの大学時代は英語のように日本語のタイプライターで小説を書きたいものだなあと夢物語のように話していたのです。

しかし、驚くべきことに、Smith Corona社は何と今でも生き残って、ワードプロセッサーを作っているみたい。
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Amherst revisitedその3:時間とともに変わったもの

2006-10-03 14:26:27 | NYC after 25 years
四半世紀ですからもちろん何も変わらないわけがありません。この写真はドイツ語初級の授業やヨーロッパ思想史の授業を受けたHarter Hall。

行ってみると、黄色いテープで周りが囲まれていて、リノベーションの最中でした。近づいてみると、やはり外壁はずいぶん古く疲れたように見えます。こっちだって膨らんだり弛んだりしているわけだから無理もないなあ、と何となく友人を見るようにしばらく佇んでいました。

このHarter Hallでは毎朝、フランス語科の学生たちのボランティアでエスプレッソとクロワッサンが売られていたものです。周囲のコーヒーとはちがう濃い味のエスプレッソの紙コップを持って、朝のドイツ語のクラスに参加していました。君はドイツ語を英語で聞きながら日本語でノートを取っていて大変だなあ、といつも戸惑った顔の先生が言っていましたっけ。

それにしても、建物はさすがに時間とともに変わっていく、古びていくわけですが、意外に残って使われていくものでもあります。樹木の時間ということをぼくは信じていて、忙しく動き回る人間も、じつは生命のあるものとしては樹木と同じように目に見えないくらいゆっくりと時間を使っているのだと思っています。ゆっくりと古びていくものたちもまた同じように時間を使っている気がします。


写真の左下には、遠くに22階建の学生寮が見えています。
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Amherst revisited その2:変わらないもの Part2

2006-10-03 13:03:44 | NYC after 25 years
町はその明るい雰囲気はそのままでした。

着いた日は本当に暑い日で、大学が夏休みということもあって、静かな田舎町といった感じです。

大学もまた昔と変わらず、中央に聳える26階建ての図書館とか、その横に立つOld Churchとか、いろんなものが変わらずにぼくを迎えてくれました。

中央の池の近くで、リスがやってきてくれたのはちょっと出来すぎ。リスは7年ほどの寿命だそうですから、ぼくがその当時見て驚いたのは3、4世代前になるのかな。リスもまたキャンパスを自分の縄張りとして変わらず暮らしているのです。
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Amherst revisited その1:変わらぬもの

2006-10-03 02:02:51 | NYC after 25 years
1日だけ足を伸ばしてマサチューセッツ州のアマーストに行ってきました。25年前、ぼくはここのUniversity of Massachusettsに交換留学をしていたのです。

そのときはNYCのラ・ガーディア空港からボストンに入り、そこからバスに乗ったのでしたが、今回は直接バスで5時間をかけての再訪となりました。

ここは風光明媚な田舎の大学町で、地元のひとたちはHappy ValleyとかPioneer Valleyなどと愛情を表現します。

写真は寮の外れに拡がる芝生の運動グラウンドとその向こうに見えるたおやかな丘の風情。よくここでフットボールで活躍するチアーガールたちが練習をしてましたっけ。丘のふもとあたりではその昔、タバコが栽培されていたのですが、さすがに今はないだろうなあ。
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国際大会でのパネルセッション

2006-10-01 11:24:36 | NYC after 25 years
さて肝心の国際大会についてかんたんにご報告。

コロンビア大学はニューヨークのセントラルパークが終わったあたり、116 streetの地下鉄駅を出た真ん前にあります。ちょうど小高い丘のようになっていて、キャンパス自体も谷を挟んで南の丘に図書館、北の丘にシンボルにもなっている円屋根の法学講堂というようにマンハッタン島には珍しい起伏のある地形が見られます。

国際大会はForeign Affairs関連の建物で行われましたが、朝から行って機器の確認などに手間取りました。仲間が持参したノートブックに、備え付けの機器のコードが短すぎて良い位置で接続できないために、そこにあったデスクトップでファイルを示し、ノートブックでは動画を再生する、みたいな先進的なのか原始的なのかわからない方法を考えるしかなかったんです。しかし幸い、手伝ってくれたコンピュータ科学専攻の学生さん(韓国からの移民の人で、ご両親は韓国語、その人は韓国語と英語、少しだけ日本語も勉強しているらしい)に助けてもらって事なきを得ました。

パネルは2時間で以下のような内容でした。

「教室参加者の共同構築的情報を付した日本語授業コーパス」
まとめ役・司会/Organizer & chair:村岡英裕(千葉大学)
P5-1. 「文字化の規則をどう教室談話の分析に適用するか:一提案」横須賀柳子(国士舘大学)、村岡英裕(千葉大学)
P5-2. 「第2言語としての日本語教育教室活動の共同構築プロセス」山下早代子(東京医科歯科大学)、吉野 文(千葉大学)
P5-3. 「世界の日本語教育-ブダペストの教室から」齋藤真美(ミュンヘン大学)、大場美和子(千葉大学)
P5-4. 「教室参加者の共同構築作業過程に関する事例研究:教師の行動に着目して」西村よしみ(筑波大学)、田中亜子(国士舘大学)

あまり人が集まらなかったのですが、まあいくつも同時間にパネルが開いていたので、しょうがないですね。国研の野山さんや金田さん、東外大の宇佐見さん、米加の松本さんなどが来てくれて、有意義な時間を過ごせたと思います。ただ、これなら日本でやるのと変わりがない、とも言えますが(笑)。

写真は、その発表のうち、最初に私が枕詞をくだくだと述べているところ。千葉大の吉野さんと東京医科歯科大の山下さんが写っています。二人とも予定時間をうるさく行っていた司会が最初から時間をオーバーして話しているのにヤキモキしていた様子が見えています(汗)。(写真を撮って下さったのは楽しい時間をすごさせていただいた実践女子大の高木さんです。多謝!)
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zeroへの道3

2006-09-24 11:12:20 | NYC after 25 years
Trinity Churchから1ブロックもいかないところが広場のようになっていて、その向こうにぽっかりと青空が見えていました。そこがGround Zeroだったのです。

ここがWorld Trade Center Site、というわけで世界各国からの観光客が物珍しげに歩いています。一人の壮年のアメリカ人がボランティアでグループをひきつけ、その日のことをしっかりとした大きな声で話していました。

写真の青空はじつに高く、そしてきれいです。横の道はLiberty street、そして縦の広く写っている道はTrinity Streetとあります。Trinityとはさきほどの教会と関係した名前でしょう。三位一体とは、このLibertyに、教会を象徴とするChristianity、そしてWall streetのFree Economyとでもいうことになるでしょうか。

ぼくはかなりの時間、この跡地にいましたが、そこで作ったのは以下のような下手くそな詩らしきものでした。英語もめちゃくちゃですが、記念に載せておきます。

I was crying
At the site of Ground Zero
I was crying
In the high summer after five years
I was crying
Not for the United States of America
Not for the victims falling down with concret blocks, but
For unimaginable anger
For inevitable fights and unnecessary sequence of causualties
Followed;
How can one insist this is our history?
After 9.11
(In the memorial day of Hiroshima)
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zeroへの道2

2006-09-24 10:55:05 | NYC after 25 years
子ども達が噴水広場で水遊びをし、アフリカ系の若者グループが器械体操のような大道芸を湧かせているバッテリーパークの日曜日を後にします。バスでやってきた道はBroadwayです。この道を歩いて戻ります。

舗道には5メートルおきに記念の日付と人の名前が帯のようにして刻まれています。これは何かパレードをしたときの記念でしょうか?イギリスの女王とか、アメリカ海軍の総督とか、インドの首相とか、そんな名前があります。船でニューヨークに来た人々はこの南端にまず降り立ったのだとすれば、お祝いとしてここからパレードをしたのは不思議ではないでしょうね。なにせBroadway、この道は、碁盤の目状に走るマンハッタンの道の中で、珍しく、斜めに南北に通る荷馬車の道、つまり、物資を船に運んだり荷出しをした物資を運ぶ道でもあったのでしょうから。

そのうち、左手にネオゴシックのTrinity Churchが見えてきました。写真の赤褐色の教会は、マンハッタンのランドマークの一つになっている有名な教会です。最初の創立は17世紀末。25年前もやはりこの教会を写真に撮った記憶があります。さして大きいわけでもないのですが、写真を撮ろうとするとビルの谷間では結構たいへんです。

今回、驚いたのは、この教会の所から東にWall streetが始まっていることでした。証券取引場がWall streetの下っていく下の方にあるはずです。アメリカの心臓とも言えるWall streetで働く人々は、昼休みには近くのファーストフードでサンドイッチを食べ、それから時間があるときはこの教会を仰ぎ見、あるいは中に入って静かな時間を持つかもしれません。教会はきっと昔も今も商業を営む人々の守り神だったに違いないのです。
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zeroへの道1

2006-09-24 00:18:45 | NYC after 25 years
よく乗っていた地下鉄の1番はマンハッタン島最南端のSouth Ferryまで行けるはずなのですが、この路線はちょうどWorld Trade Centerの下を通っているため、その手前までしかいけません。

手前の駅で地下鉄が止まりました。アナウンスを聞くとどうやらシャトルバスがあるらしい。そこで他の乗客の後について地上に出てバスに乗り込みました。まわりはみんな観光客っぽくてじつはぼくと同じ程度の知識のようです。10分ほど乗って視界が開けたところでバスは止まります。

South Ferry Terminalとは、ここからStaten Islandへの船が出ているところ。通勤の人々のためのフェリーです。25年前にはこのフェリーに乗って自由の女神のすぐ横を通ったことがあります。写真もold storiesにありますね。今回はそこまで行く時間もなく、ターミナルの横にひろがるバッテリーパークのデッキを歩きました。

写真はそのときのもの。大きなラベンダーが咲いていました。遠くに青銅色の自由の女神像が見えます。空は明るく、日差しは強く、この写真の右のほうには遊覧船が止まっていました。甲板にはたくさんの観光客が出帆を待っていました。
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