フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

しばしのお別れを

2012-03-30 22:46:16 | Weblog

さてこのブログをはじめたのが2005年7月だから、それから6年半が経った。さして面白くもないブログにお付き合いいただいた方には心から感謝を申し上げたい。

4月から国立大学(独立行政法人なんたら)の教員としてはおそらく最初で最後のサバティカルをいただき、1年の研究期間をオーストラリアですごすことになった。海外のサバティカルから帰ってきた人をみると、やけに年老いたり、病をえたりする人がすくなくないので、戦々恐々なのだが、持ち前のちゃらんぽらんでせめて少しは好き勝手に時間を使わせてもらおうと思っている。

このブログからもしばし戦線離脱する予定です。ブログ自体は閉じないので、たまに思い出したら過去投稿で楽しんでいただければと思います。

ではおたがいサバイバルしていきましょう。

孫悟空よろしく「道はまだ途中なり」です。

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久しぶりのお台場で菊地君の結婚式

2012-02-12 22:56:31 | Weblog

年も改まっても冬眠が続いていたみたいで、その間にたくさんの夢を見ていた気がする。

さて、今日は久しぶりに台場にいき、元大学院生の菊地君の結婚式に出席。レインボーブリッジが見渡せるちいさなレストランをかりての人前結婚だった。

お隣は若く美し菊地君の現在の上司。披露宴が始まってほとんど最初のところでぼくのスピーチとなったので、かなり逆上してしまう。どうも内的場面は苦手である。

披露宴はなごやかな雰囲気ですすみ、最後は菊地君がチェロ、奥さんがピアノでエルガ—の「愛の挨拶」を合奏してお開きとなった。二人とも千葉大卒業生なので、友人の中には10年前の卒業生の顔もみれてとてもよい結婚披露宴になったと思う。

とにかくおめでとう。個人的にはつきあいはじめて7年は長いと思うなあ。

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遅まきながら

2011-12-24 21:30:28 | Weblog

今年は年末の意識がなくて何もしていないに等しい。

10年くらい続けていたアドベントカレンダーも購入しなかった。日本ではずいぶん流行ってきたというのに。

先日はここ1,2年、行き来のない旭川の聖人からお蕎麦のお歳暮がとどく。おいしく戴いています。

木曜日は王さんの博士論文審査。人称表現の研究。2月末から本国の大学に戻って教鞭を取りながら執筆を続けていたものだが、10月に戻ってきて1ヶ月余り、さらに書き直しを行ってもらった。やはり詳しく中国人学習者の日本語人称表現の使い方を見ていくと、教科書の規範が強く消えずに残っていて、中間言語のまま習得が止まってしまう傾向があるようだ。敬語規範が過剰に一般化されて、どのような場合にも失礼にならないことを意識してしまうし、上下関係に強く縛られてしまう。3月の学位伝達式までさらに論文をきれいにしてもらうことをお願いして、これで修了である。

では、遅まきながらの聖夜を。

夏にいったフィンランドのロバニエミは意外にまだそれほど寒くはないようだ。北海道のほうがよほど寒気団に影響を受けている。サンタクロースとキリスト教の関係を少し娘にレクチャー。それから聖夜に起きた出来事なども。彼女はまだ聖書を読んだことがないらしい。

誰にもくる最後が北の孤独な将軍にもやってきて、今年は彼の地も寒さに凍えているだろう。国境は前にも増して厳しく閉ざされているらしい。

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日録:年末整理など

2011-12-17 23:25:15 | Weblog

寒気が南に下ってきて冬らしい空気。写真は大学構内、銀杏もそろそろ落葉に向かう頃。

金曜日はぼくも名前を入れている学会発表のための相談で、千葉市の外国人調査の結果を話し合っていた。たとえば、3月の地震の際に日本のメディアと出身国のメディアとどちらを重視したのか、日本人のネットワークと出身国の家族などのネットワークとどちらを重視したのか、その二つの組合せで、帰国を選んだ人もあり、日本に留まることを選んだ人もあり、矛盾した組合せでアパシーになった人もあり、というような状況が見えてくる。

しかし、考えてみれば、政府や市が日本に住む外国人に対してきちんとした言葉をかけていたら、そのような選択に右往左往する必要もなかったはずだ。だがそのような言葉はどこからも一言もなかった。災害などにおける情報弱者の研究で忘れがちなのは、当然あるべきであったことがなかったことからすべては始まっていることにあると思う次第。(阪神大震災のときの教訓は政府に期待してはいけないということだったのだけど)

10年近く講読している東京新聞は3月以来、健闘が際立っている。現在、原発導入時期の政府、政治家、学者の動きが検証されている。その昔、学生時代の政治学のゼミで、友人がなぜ原爆を経験した日本でそんなに早く原発が導入されるに至ったのかというテーマで研究をしたいと言っていたのを思い出した。ぼくはそのときは林達夫の非政治的な人間の政治的なストラテジーについて考えていた。

年末ともなれば、なにかと今年のあれやこれやを整理したくなるもの。

年末の掃除で出来ることは、ごちゃごちゃと混乱した物や場所に足を運んで、ゴミや塵を払ってみて、ものごとの本来の姿を見つめることだろう。何となく大事に思っていたものを光に照らしてみたら、いかにもみすぼらしくつまらない姿が見える場合もあるし、役に立たない古くさいものだと思っていたものが意外に本物の輝きを持っていることに気がつくこともある。掃除もしないまま、目をつむって掃除をしたことにするなら、ゴミや塵はさらに危険なほどに積もるばかりだ。収束と言った政治家のまっすぐ人を見れないうつろな表情が気に掛かる。

最近購入した本:寒川旭(2011)『日本人はどんな大地震を経験してきたのか』平凡社新書、中川保雄(2011)『増補・放射線被曝の歴史』明石書店、金賛汀(1995)『ある病院と震災の記録』三五館、小出裕章(2011)『知りたくないけれど、知っておかねばならない原発の真実』幻冬舎。

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久しぶりの浦安で

2011-11-27 23:58:35 | Weblog

久しぶりに浦安に出かけた。国際交流協会創立25周年の催しがあるとお知らせをいただいたので、朝から足を向けたのだ。新浦安の駅前広場はずいぶん落ち着いた感じがする。駅前のエレベーターも使えるようになっていた。しかし、よく見ると、まだまだアスファルトで穴ぼこをふさいだだけで、本格補修ではない。

記念講演は北脇保之氏の「多文化共生再考」。北脇氏は、つい最近まで東外大の多言語・多文化教育センター長だった人だが、自治省、国会議員、浜松市長を歴任された優秀な政治家でもある。

講演は、私も勉強になる内容でとてもinformativeだったし、その考え方にもバランスのあるものだった。たとえば、国連などの定義では1年外国に滞在すればもう「移民」と言えるのに対して、日本ではそうした意味がないために「定住外国人」と呼ばれていることなど、言われればそのとおりで、無自覚に「定住外国人」と呼ぶことの危うさに気がつく。そういえば、浦安の調査をしているときに、最初は外国人居住者と呼んでいたのに、インタビューをしていくうちに外国人住民でいいじゃないかと変わっていったことに、この問題は繋がっているのだと思う。

また、多文化共生と多文化主義を比較して、多文化主義にはマイノリティの権利主張と擁護が中核にあるが、日本での用語である多文化共生には外国人の適応の意味しかないという指摘は、とても分かりやすい区別になっている。

氏はヨーロッパの政策にも詳しいらしく、多文化主義を含めた社会統合の政策が現在、すすめられているが、外国人コミュニティがホスト社会と分離しないような、外国人移民の社会参加と、彼らの多様性をわれわれの社会のチャンスと捉えてホスト社会自身から変容をすすめていくような、統合モデルを考えたいと話していた。

外国人の逸脱は否定的なだけでなくコミュニケーション・リソースにもなることはぼくも指摘したが、それは単に異文化理解や異文化適応に役立つというにとどまらず、社会参加が可能で自立した外国人住民をとりこんだ社会統合にとって重要な要素なのだと考えることができるだろう。われわれの接触場面研究も、変容する接触場面の諸相をとらえようとここ数年やってきたが、マクロな視点からそれがどのような意味を持つのかを議論していけたらよいのかもしれない。

それにしてもわれわれは外国人住民を歓迎していけるだろうか。理論や欧米追随ではなく、腹の底で正しいと感じること、そこから議論は始めなければならない。

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金子亨先生を送る

2011-09-15 22:58:44 | Weblog

ここ1年半ほど病に伏せっていた千葉大名誉教授金子先生が11日にご逝去され、ぼくは今日はご自宅のある山武郡成東の元倡寺で告別式に参列。汗のにじむなかで久しぶりにお寺でのお葬式だった。ネウストプニー先生と金子先生の退官の送別会からもう11年になるのだ。千葉大に赴任した最初の年にご一緒させていただいただけだったが、その後も千葉大でお会いすることがあったので、何となく長く知っていたように感じていた。気さくな破顔が忘れられない。ご冥福をお祈り申し上げます。

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フィンランドに遊ぶ

2011-08-31 22:21:35 | Weblog

8月も今日で終わりである。8月は初めてのフィンランドに遊んだ。

ウィーン経由だったので、2年ぶりのウィーンで3泊。その後、ヘルシンキ、ユヴァスキュラに滞在。

とりあえず、写真の説明だけしておく。1枚目はウィーン、楽友協会の横を歩くモーツァルト。8月はウィーンは観光客のための仕事しかない。植物園を歩けたのがよかった。

2枚目はヘルシンキの港のマーケット。Poroとはトナカイのこと。食べてみたが、羊肉のような臭みがちょっとある。

3枚目はユヴァスキュラの博物館の写真。中央フィンランドの民俗や歴史が展示されているが、この写真は50年代の冬の生活を写したもの。

ヘルシンキから北へ進めば進むほど、様子は北海道に似てくる。こんな冬の遊びは私の小さい頃にもいくらでもあった。フィンランドはじつにふつうの国です。ヨーロッパの北の外れ、ヨーロッパ文明の周辺に位置することを、北海道が日本の意識のへりにしかないことと同じようなものだとすれば、ということだけど。ただし、歴史を知れば知るほど、強国に挟まれた民族の傷跡が見えてくるところがこの国を色づけている。冬戦争しかり、継続戦争しかり。しかもスカンディナビアと呼んだときにはフィンランドは入ってこない。

ある日、電車の乗り継ぎで寄ったタンペレのデパートの地下でフィンランド音楽のCDを探していた。フィンランド語がわからないので、同じようにCDを物色していた体格の良い男性に聞いてみたところ、1枚のCDを探してくれた。お礼を言って別れたのだが、1階に戻ったところ、しばらくして同じ男性に後ろから肩をたたかれた。「もう一枚、見つけたから、戻ろう」地下にもどって、今度はシベリウスの次に有名な作曲家Toivo KuulaのCDを教えてくれた。フィンランド南部の民謡を採り入れて作曲したものだと言う。さっきのよりもっと洗練されていると思うよ、とのこと。長身の彼のオセッカイに、つい胸が熱くなって握手をして別れようと思ったが、それもなんだか変だと思って、感謝をして、手を振って別れた。

これが出遇ったフィンランド人の話だ。

 

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オオカミ少年

2011-07-19 22:44:33 | Weblog

台風が不穏な雲と雨を寄せてくる祝日。

久しぶりに何もする気がしないので、小出裕章『隠される原子力・核の真実』(創史社 2010.12)と広瀬隆『福島原発メルトダウン』(朝日選書 2011.7)を読む。小出氏は原発反対を生涯すすめてきた原子力の研究者。広瀬氏は反原発のライター。広瀬氏の著書はかなり反原発に偏ってやや冗漫な印象だが、日本にある原発の地震による危険性についての情報が有益。小出氏の著書は後半で二酸化炭素だけが温暖化の原因ではないことを明確に述べている。

オオカミ少年というのは、イソップ童話にあるもので、wikiでは次のようにあらすじをまとめている。

 羊飼いの少年が、退屈しのぎに「が出た!」とをついて騒ぎを起こす。大人たちは騙されて武器を持って来るが、徒労に終わる。少年が繰り返し嘘をついたので、本当に狼が現れた時は大人たちは信用せず、誰も救援に行かなかった。そのため、村のは全て狼に食べられてしまう。オリジナルでは嘘をつきつづけた少年自身が襲われて狼に食べられてしまう懲罰的な結末だが、近年は残酷さゆえ羊が食べられてしまう話になっているものが多い。また、実際にオオカミが人里で人を襲う事はほとんどない。

 二人ともこれまで何度も原発は危ないと言い続けてきたわけで、どこかオオカミ少年に類似したものを感じてしまった。ただし、童話ではオオカミ少年が悪いことになっているが、もしかしたらまったく悪くなかったのではないか、オオカミ少年は退屈しのぎにウソをついたのではなくて、彼にはオオカミが見えていたのではないかと思ってしまう。

 ちなみに、wikiの続きでは、教訓を以下のようにまとめている。

人は嘘をつき続けると、たまに真実を言っても信じて貰えなくなる。常日頃から正直に生活する事で、必要な時に他人から信頼と助けを得ることが出来る。嘘をつく意図はなくても、結果的に誤ったものとなる場合も同様に扱われることがある。

 だとすれば、教訓の対象は小出氏や広瀬氏ではない。それがだれなのか、どのような村の住人なのかは、もはや言うまでもない。


 それでも、どちらが嘘つきなのかは、多くの場合、ことが起きてからじゃないとわからない。ぼくら、普通の人々はそうやって一日一日を生きている。


 

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twitterでフォローしている人

2011-07-02 23:55:56 | Weblog

日録。

7月1日は電気の使用制限令の開始日。

今週後半は夕立が降って、その後のサウナに入ったような蒸し暑さにへこたれた。でも夕立と蒸し暑さの関係はすっかり忘れていたので、昔、東京で住み始めた頃の感覚を思い出すことが出来たのは収穫だった。写真は総武線の小さな駅から降りて少し歩いたところの家並みの奥にある雑草の森に見つけた夕立の名残の滴(しずく)。

金曜日の学部ゼミは2年生には大学の留学生たちとの接触経験、3年生は共同研究のまとめ。

2年生は最初、調査だと思って企画を立ててくれたが、まだまだそれは早すぎるということで、接触場面を経験するというかたちに変更してもらった。ここ数年、ビジターセッションをしていたが、今回は留学生たちが待っているセンターにこちらから出向いて話をさせてもらうことにした。どうやら楽しく終わったみたい。

3年生のほうは、そば屋に行ったことがない留学生同士でそば屋に行ってもらい、社会文化的な能力がどのように発揮されるかを観察する調査をしたので、その結果から何が言えそうかを考える。来週発表してもらう予定なので、結果については来週のお楽しみである。

日常が回復してくると、震災や放射能さえ遠のいた気になる。ぼくにとってはtwitterの情報がそんな気分を諫めてくれる元になっている。たとえば、次のような人たちをフォローすることで:

  • CNICJapan
  • hayano
  • iwakamiyasumi
  • konotatogomame
  • masason
  • chiba_city_PR
昨日はとくにNPO「気候ネットワーク」が出した「追加試算(1)全ての原発が停止する場合の影響について」がためになった。

 

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梅雨の晴れ間にドライブ

2011-06-05 11:38:11 | Weblog

 

天気が良かったので朝から久しぶりにドライブに出かける。

最初は、常磐道でいわき市まで行こうと思ったのだけど、千葉からゆっくり北上することにした。

いつもは成田空港へいく東関東自動車道をまっすぐすすんで利根川を越える。利根川を越えた当たりから青いビニールシートを屋根にかけた家が増えだした。北浦の水郷にかけられた橋を渡って田園の中をしばらく走ると、エンジのユニフォームをきた人たちが歩いているのを見かけるようになる。鹿島アントラーズのホームスタジアムだ。国道はスタジアムの横を通り過ぎる。

鹿島灘の海が右に見え始めた。大洗に近づいたとき、大きな建屋のようなものが見えたなと思ったら、二重の鉄条網が延々と左に続いた。これは原子力研究開発機構の大洗研究開発センターで、高速実験炉があるみたい。さすがに厳重だ。

そこから橋をわたって那珂川河口の民家が密集する那珂湊。那珂川は氾濫で有名。岸壁が崩れたままの状態だが、土曜日で釣りを楽しむ家族連れもいる。船が岡の上に見えたのでびっくりしたが、それは水産高校の記念の固定した船だった。

さらに北上して、阿字ヶ浦の海水浴場あたりまでくると何となく雰囲気が違う。砂浜から北のほうを見ると埠頭の巨大クレーンが霞んで見えているし、走っていくと災害工事なのか迂回路になる。そこから国道245号に入ると広々として横のグリーンベルトもきれいに刈り込まれた道ができていて、そのうちに日立や東海村とかがあらわれるのだ。大きな税収のあるところは合併される恐れがない。大洗町しかり、東海村さらにしかり。アトムワールドの横の原子力研究開発機構の門のところには「警備強化中」の立て札あり。そうだろうなあ。東海村のHPで村長さんが、ここの日本原電第2発電所の非常用発電機用海水ポンプ3台のうち、1台は津波で動かなくなったとある。「この件まずはご安心下さいますよう。」と締めくくっている。

このあたりはきれいな砂丘が続いているらしいが、原子力研究と日立製作所がおさえているので、どうなっているか見ることは出来ない。なにより国の権力が鉄条網や「警備強化中」にあらわになっていて、走っているだけで緊張してしまう。国会では菅首相の言った言わないでもめているが、もし彼がこの大きな原発の権力に負けまいとしているなら、たいへんな力を必要とする。それが実感できる。「ずっとウソだった」原発村が「ペテン師」呼ばわりしても説得力はないが、彼は本当にペテンにかけようとしているのかもしれない。

東海村をはなれると日立市に入る。すっかり忘れてしまったが、常磐と言えば明治の時代から炭鉱や鉱山で近代化を支えてきたところなのだ。日立製作所の由来はこの近くの鉱山採掘の機械を修理する工場を立ち上げたことにあるらしい。海岸から山側に10キロほど上ったところには日鉱記念館がある。映画「フラガール」もそんな近代化の役目を終えた炭鉱の起死回生の物語なわけだ。そして今を支えているのが日立市から100キロ北の福島浜通りなのだろう。

もう12時をすぎておなかもすいてきた。しかし、なかなかレストランも決められず、高萩から北茨城市に入って、高台の磯原でラーメンをいただく。食べ終わったのが3時。このあたりの海岸を走る国道6号線沿いは崩壊した古い家屋が散見し始める。

北茨城市の大津港にたどり着き、ここを今日の到着地とすることにする。ここの岸壁は那珂湊が比べものにならないほど崩壊している。港に面した漁業組合も窓が割れた状態で、そのあたりの家も建物は建っているが中は津波が通って使い物にならない。津波にのみ込まれた日常生活品が集められて横に山積みになっている。ようやく家の修復が始まったところらしく、作業の人に聞くと1階は全部水につかったとのこと。

岸壁からまっすぐ岡にのぼる石段があってその上に鳥居が立っている。佐波波地祇神社(さわわちぎ・じんじゃ)の鳥居で、創立はどうやら600年代らしい。荒波に立ち往生していた日本武尊がこの神社の神様に助けられたといういわれがあるらしい。というわけで船を守る神社としてはうってつけだ。写真はその石段の横に生えていたミントのような葉。緑がとても新鮮だ。

岸壁にもどると写真のような白い山が見えた。製氷会社が復活している。もちろん船の魚を冷やすためのものだ。漁が成り立つのかとても心配だが、とにかく動き出している。漁師も網の補修にかかっていた。ゆっくりとだが、人の傷は樹木のスピードでしかなおらない。急いていいことはないのかもしれない。

これが北茨城までの海岸線のドライブの報告だ。

 

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