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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

CHILDESに読む被調査者の権利保護

2006-11-28 00:23:31 | research
授業コーパス科研のメモです。

CHILDESは子供の第1言語習得研究から始まったコーパス・システムです。そこでは多くの研究者がメンバーになって自分の収集したデータを提供したり、他の研究者の公開したデータを利用したりといった合理的な研究が行われています。

しかし、データが公開されたり、共有されたり、ということには必然的に多くの問題が予期されます。そのへんのことを今、調べているところですが、以下は、調査者が被調査者に収集したデータをどの程度まで使用してもよいのかを問う(あるレベルまでの使用許可をお願いする)、そのレベルを記述したものです。CHILDESのほとんどのデータは(2)までで実施されているそうですが、データの種類によっては厳しい使用制限も仕方がないのですね。

被調査者に許可を得るデータ・アクセスの制限分類(http://talkbank.org/share/levels.html)

(1)無制限:匿名化の処理をすることなしにウェブを通して文字化資料とメディアにアクセスすることを許可する。
(2)文字化資料における名字と住所の匿名化を要求出来るレベル:これにより、最少の作業で相互作用のほとんどを保持することが可能。
(3)文字化資料における十全の匿名化:名字、住所(地域)に加えて、名前も匿名化することを要求出来るレベル。プライバシーを守る上ではそれほど重要ではないが、ある場合には必要になるだろう。(訳者注:英語の場合)
(4)音声の匿名化audio bleeping:匿名部分を部分的または全体的に信号音に置き換えることを要求することが出来るレベル。
(5)映像の不明瞭化video blurring:ある場合には映像を不明瞭化する処理を施すことを要求出来るレベル。これは技術的に実行が困難であり、実際的とは言えない。むしろ、パスワードを設定するなどの別の方法が望ましい。
(6)パスワードの設定:実行が容易だが、アクセスを制限することになる。
(7)非公開宣誓書:極端に保護を要求する場合には、パスワードの設置に加えて、非公開の宣誓書に署名を要求出来るレベル。非公開宣誓書では、個人を特定するいかなる言及についても出版を禁止し、データのコピーは禁止される。
(8)管理された視聴:直接のオンラインでの監視下の管理された条件でのみ視聴が可能であることを要求出来るレベル。このレベルは非常に個人的あるいは自己開示的な性質を持ったデータの場合(e.g.精神治療インタビュー)に用いられる。
?(9)アーカイブ(保管)のみ:データは視聴可能ではなく、もともとの調査者だけが使用する一般的なシステムのフォーマットで保管される。調査者は、分析システムの道具を用いることを許されるが、データには実質的には貢献しない。(訳者注:ここの意味はよくわからないです。どなたかご教示を!)
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夏目漱石『文鳥・夢十夜』新潮文庫版

2006-11-25 23:19:26 | my library
娘のピアノのお稽古につきあって先生のお宅を訪ねることがあります。たまに何も仕事を持っていかないときには、息抜きに本を持っていきます。

上の新潮文庫版もその1冊ですが、印刷は1976年7月の第1刷です。夏目漱石は高校時代に集中して読んでいたんですね。

先日、関川夏央氏の『「坊ちゃんの」時代』を紹介しましたが、夏目漱石自身の言葉を読んでみようということで、本棚からこの本を手にしたのでした。文庫本には、上の二作品の他に「永日小品」「ケーベル先生」「変な音」「手紙」、そして「思い出す事など」の全部で7品が含まれています。三好行雄氏による「解説」によると、例の修善寺の大患の前後が書かれている「思い出す事など」は朝日新聞に1910年(明治43年10月29日)から1911年(44年4月13日)にかけて掲載されたそうです。すでに述べたように、執筆時期には大逆事件の裁判から死刑執行までの時間が含まれています。

大量の血を吐いた後、30分の「死」の後に意識を取り戻した漱石は、肉体の苦しみから解放された狭くとも明瞭な意識が残されていて、客観的には朝まで持たないだろうと思われていながら、本人はいたって平静に床に横たわっていたことが、異常なまでに明晰な散文で書き込まれています。これはやはりすごい散文の力です。

その仮死状態に陥る直前まで、雨に降り込められながら胃の苦しみに悩まされていたことが書かれている中に、牛乳を飲むところがあります。吐き気のために飲みたくない牛乳は「吸飲(すいのみ)」の細い硝子の口から飲むことになるのですが、その「吸飲」は遠い昔を思い出させました。

子供のころ、病気になったり入院したりすると、枕の傍らにきまってこの硝子製の器があり、お茶の急須よりもっと細く長く伸びた口から、水を飲ませてもらったりしていたものです。振り返って、今、ぼくは近くのコーヒー専門店で見つけた硝子製のコーヒーポッドを使ってコーヒーを煎れているのですが、ぼくの深いところにあったその「吸飲」の記憶が硝子製のコーヒーポッドを買わせたのかもしれないと思ったりします。薄い硝子のコップも買ったことがあるし、ポーランドで見かけた薄い薄い硝子のコップも思い出します。まわりの空気をしんと止めるような不思議な硝子の透明感が記憶から浮かび上がってくるようです。

漱石が口をつけた吸飲もきっとぼくの子供時代と同じようなものだったのだと思います。
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第9回言語管理研究会終わる

2006-11-19 12:59:43 | research
昨日は千葉大で言語管理研究会、第9回定例研究会を開催しました。ご参加頂いた方々に御礼申し上げます。

9月からの今年度は多言語話者の言語管理を考えていきながら、接触場面・母語話者ー非母語話者といった基本概念の再検討の可能性を見ていきたいと思っています。そのとっかかりとして日本語母語話者の管理の諸問題を話し合いました。母語話者に期待されているはずのことを日本語母語話者は果たしていない、言い換えると、非母語話者が期待されていることと、日本語母語話者が期待されていると考えていることとは、合っていない。たとえば、会話維持に対する期待、初級の非母語話者の勧誘に対する不理解や意図しない応答などに日本語母語話者は応えられないのです。軽々には結論を出さずに1年間、考えていきたいものだと思います。

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日本にあるピカソの話

2006-11-15 00:03:07 | Weblog
千葉に住んでいるのになぜか東京新聞を購入している私ですが、先週、池内了氏がピカソで日本を守れと書いていました。つまり、京都が第2次大戦で被害を免れたのは文化の力に他ならない。日本の遺産や、バブル期に買いあさった世界の名画(その象徴がピカソ)などの文化で、この国を守ることが最も正しいという主張だったのです。

今週は、そのピカソ論に応えて美術批評家が書いています。ピカソ論には大いに賛成なのだが、とその批評家は言います。じつはバブル期に買いあさった名画という名画はもう日本にはないのだそうです。赤字を出しながら海外の金持ちに売っててしまい、ピカソで残っているのは「ひまわり」だけなのだと言うのです(「ひまわり」はどうやら損保ジャパンの東郷青児美術館に残っているよう)。そこから、批評家は高松塚古墳のカビにも表れているように、日本の文化はいまや惨憺たるもの、守ろうとする意識すら薄くなっているのだ、論を展開していきます。

そうでしょうね。教育にさえお金を掛けたくない日本の政府が文化にお金を使うわけがないのです。

注と訂正:上の文中、「ひまわり」がゴッホ作です。ご指摘いただいた方に感謝します。私のうっかりです。美術批評家が「世界の名画の象徴」として書いた可能性もありますが、まあ、99%ないでしょうね。
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香港のハローウィン

2006-11-07 00:18:03 | Weblog
さて、先日、ハローウィンと多言語話者の話をしたばかりですが、自分が香港でハローウィンに巻き込まれるとは思いもよりませんでした。グローバリゼーション侮り難し!

香港では連れ合いの一番下の妹夫婦の家にやっかいになっていたのです。山の中腹のずいぶん環境の良いところにあるマンションですが、そこでハローウィンがあるというわけです。妹夫婦の子供は2歳と4歳で、まあ、そんな年齢なんですね。

いろいろハローウィンの衣装を身につけて子どもたちが集まってきます。私も「ヒロ、あなたのはこれ」と黒いマントを着せられました。24階建てのマンションの一番上から1段ずつ階を降りてTrick or Treat!と叫びながら、各戸を訪ね、キャンディをもらいます。用意している家、Sorry No Candyと紙を貼っている家、留守宅、といろいろですが、まあ、みんな覚悟しているんですね。

外国人の人も住んでいて、イギリス系なのでしょうか、そこはやはり本場の人たちです。まったく態度がちがっていて、写真のように、子どもたちを待ちかまえていました。かなり楽しんでいるようです。

私はその夜、いささかあわてて、娘に「七夕のときに日本でも同じような行事があるけど知っている?」と確かめました。彼女はまったく知らないのです。そこで「ローソクだーせだーせーよー、出ーさーないと、ひっかくぞ、おーまーけーにーくいつくぞ」という脅し文句を教えた次第です(注:北海道では「ひっかくぞ」の替わりに「かっちゃくぞ」になります)。

なんとも迫力のないアンチ・グローバリゼーションではありますが。
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香港中文大学シンポジウム

2006-11-07 00:07:00 | research
10月29日~30日は香港中文大学で開かれた国際シンポジウムに行っていました。ただし、29日は私は参加できず、30日だけの参加でした。それでも朝の基調講演では現龍谷大学教授(東大名誉教授)の濱下武志氏による「グローバリゼーションの中の日本のアジア・アイデンティティ」という興味深い話が聞けたのは収穫でした。

アジアと日本というと、とかく政治的軋轢や戦後処理の問題だけがクローズアップされがちですが、濱下氏は海の歴史から都市と都市の関係としてアジアや日本を捉える視点を提出しており、ある種の知的な力業を見せていたと思います。東洋史が専門ということがあるからか、脂ぎったところもなく、その点も親近感を覚えました。

さて、写真は数日後に再訪した中文大学の中国文化研究所の博物館。そこで見つけた甲骨文字の実物です。実際の骨に刻まれた漢字を見たのは初めてでこれもまた感動ものです。感動のあまり、ややぶれてしまいましたね。
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