フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

授業コーパス科研研究会のお昼の話

2007-07-29 23:04:16 | Weblog
今日は朝からお茶の水で科研の研究会をしました。先日、秋の日本語教育学会のパネルに採用されたので、その打ち合わせと、科研報告書に向けての資料整理、そして某企画についての話、という感じです。この科研グループはほんとうに気持ちの良い人ばかりで、時間が経つのを忘れてしまいます。遅いお昼ご飯を食べて、結局、4時過ぎまで話が続きました。

お昼ご飯を食べながら、先週子供を連れていったキッザニアの話をしたのです。これは子供が「街」の、裁判所、パン屋、消防署、病院、FMスタジオなどで仕事を体験できるという大人気の施設なのです。仕事をするとその「街」のお金がもらえたり、それで実際に「街」のものが買えたりするんですね。だから、仕事をさせてもらう子供、子供に仕事をしてもらうのを仕事にする係の人、お金を払って子供に仕事をさせる保護者、という不思議な関係があるわけです。そしてゴミ集めの人だけがその関係から外れて仕事をしているのです。ぼくはそんな関係を眺めながら、昔のママゴトは子供だけで創造するものだったけど、ママゴトが商売になったんだなあと思ったものです。

その話を聞いた先生の1人が今年の新しくもらった科研で、セカンドライフで語学学習を考えようと言うことになっている、という話をしてくれました。例のバーチャルなのに現実世界の商売にもなりうるというウェブの世界です。どこかでキッザニアともつながっている気がします。ただ、セカンドライフはママゴトというにはかなり怖いです。

そんな話で盛り上がっていたら、もう一人が、子供がゲームで森の動物たちの世界に入って遊ぶのがあると言い出しました。あるとき、私、4時に○○ちゃんに会う約束があるの、と娘さんが言ったそうです。え?聞いてないと思って、よくよく聞いてみると、じつはそのゲームの中の1人(?)の動物との約束だったそうです。娘さんにとって約束だけは本当だったんですね。

「本当」なんて、言うまでもなく「日常の現実感」なわけで、その意味でセカンドライフもキッザニアも森の動物も現実感を持ち始めているのでしょう。しかし、現実感が現実に吹き飛ばされるときが必ず起きます。
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銀河鉄道

2007-07-28 23:22:14 | Weblog
今日は暑い中、東京の西の外れまで行って、博士論文審査をしてきました。

西に向かって電車に乗っていくと、表参道とか渋谷あたりから人の表情が微妙に違っていくのがわかるのが面白いです。これはいつも感じることですが、なにか東京の社会価値体系にすっぽりとはまった固い表情の人が多くなる気がするんです。あとはその体系を身につけながら人間らしさを保とうとする人(いわゆる教養タイプで、表情に余裕が感じられるんです)と、体系に苛立っている人、この3つのタイプが西には多いというのがぼくの観察です。しかし、夜7時に戻るとさすがにへなへなです。

昨日は大学院生たちと打ち上げをしていましたが、その中で天文学者や宇宙飛行の話が出ていました。家に戻ると、メルボルンからの電話。家族は一足早く出発して、その到着の連絡でした。彼女たちは満員の飛行機でなかなか寝られなかったそうです。進行方向で左の窓側に座っていたのですが、ふと真っ暗な外を見ると、地上にいるときには見上げるだけのオリオン座が、すぐ窓の外に飛行機と同じ高さのところに見えたそうです。星の輝きも、とても強く大きくて、すぐとなりにあるという感じ。まるでオリオン座の中を飛行しているみたいだったそうです。「じゃ、銀河鉄道だね」と言うと、そうそうそう!ほんとそう!と言葉が返ってきました。

オーストラリアでは、銀河の中心部がよく見えます。宮沢賢治が石炭袋と呼んだ黒い穴も見つけられるほど銀河はみごとです。さてぼくも銀河鉄道に乗れるかな?
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言語学者ということでよろしく

2007-07-24 23:27:06 | Weblog
梅雨明けを思わせる、完璧な快晴、乾いた風。

先日、大学事務から中期計画に必要だからあなたの専門を以下の中から1つだけ選ぶように言われました。細かい字で100以上の専門領域の名前が載っています。しかし、なぜか日本語教育学も社会言語学もないのです。いったいいつの時代に作られたものやらという感じです。

少し、考えましたが、「言語学」でよいのでは?と思うことにしました。言語の学とは、単に文法だけのことではなく、言語を使用するときのさまざまなインターアクションまでを含める必要があるとすれば、まぎれもなく私は言語学が専門となります。信頼している同僚の先生とともに、ここは少し胸を張ることにした次第です。
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授業コーパス科研のパネル決定(秋の日本語教育学会)

2007-07-22 22:13:04 | research
日本語教育学会秋季大会(龍谷大学)のパネルセッションに応募していた授業コーパス科研グループ(今回は吉野先生がパネルの代表)ですが、昨日、採択の知らせが来たそうです。

今回は、まさに科研のテーマから正面きって「日本語授業における共同構築の実際―授業コーパス研究のデータから」というタイトルで4組の発表を組みます。「共同構築」という概念には、ヴィゴツキーに端を発する教育理論からの演繹的な考察の場合によく用いられるのですが、科研グループとしては具体的なコーパスの検討から、どのような共同構築があり、どのような可能性があるのかを、帰納的に取り出していく予定です。

8月中旬までに予稿集原稿を作ることになるので、そろそろ科研に仕事を移していかなければなりません。
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そろそろメルボルンの冬が待ち遠しくなってきました

2007-07-21 11:39:51 | Weblog
昨日の金曜日でだいたいの授業が終わりです。
思い出せないくらい仕事のつまった週でしたが、そんなときに限ってべつなことにも興味を持ったりするものです。

夏休みに読もうと楽しみにしている岩波文庫からプラトンの「ソクラテスの弁明」を少し開いて息抜きをしていました。これは法廷での自己弁明なのですが、その弁明に際してソクラテスが自分の言葉遣いが法廷風ではないことを容赦してほしいと言ったり、聴衆に対して静かにするように言ったり、また原告側に質問をしてみたりと、豊富な発話行為が駆使されている、法廷劇の様子がじつに見事に表現されています。

自分が最高の知者であると言われた神託の正しくないことを探すために、賢者と呼ばれたり知者と呼ばれたりする人を訪ねてはいかにその人が無知であるかを(無知でないことを期待しながら)明かしてしまうという活動を続けていたソクラテスには、そのことが、結局、大衆の怒りを買ってしまったことがよくわかっているのですね。だからいくら弁明をうまくしてみたところで、きっと裁判には負けるだろうと思っているわけです。では、どのような意味を弁明に込めようとするか?

冬のメルボルンで続きを読むのが今から楽しみです。
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第12回言語管理研究会

2007-07-15 08:16:09 | research
昨日は、びっしょりと雨に濡れた早稲田の日本語教育研究センターで第12回の言語管理研究会となりました。そこそこの人数が集まってくれましたし、なつかしい顔もあって、中身の濃い定例研究会だったように思います。参加された方々、ありがとうございました。

昨年10月から始めた多言語話者研究の第4回目となり、今回は早稲田の宮崎さんの発案で、言語政策的な視点からEUの複言語主義を中心に、福島さん(早稲田の博士後期)、宮崎さん、そして私で、話題提供をしました。

政策としての複言語主義がEUでは開始されていて、いまや言語の大所帯となってしまったEUとしては、地域共同体の中で言語レパートリーの共有度を高めたいという思惑なのだと思います。政策としては特にめずらしいとは言えないもので、文化基盤、コミュニケーション基盤が類似している地域共同体であれば、当然、考えることだと思います。しかしやはりこれは上からのエリート主義の臭いが強いと言わざるを得ない。EUに参加してしまった国々に住む母語をもっぱら使って生活している半分の人々にとってはほとんど無関係な話でしょうし、複言語主義はそうした母語話者を地域共同体メンバーの頭の隅に追いやることでもある気がします。

ただ、興味深かったのは、個人としての言語使用者の意識について、複言語主義の主張は、言語管理研究会で展開されてきた流動的な規範の考えと、大きく異なるわけではないということでした。異なるのは、複言語主義がその理念を地域共同体に広げようとするのに対して、言語管理研究ではあくまでもそうした言語使用者が参加する場面のディスコースから言語問題を理解しようとしていることにあります。ディスコースの言語問題から政策へとビルドアップしていくことこそ大切なのだと考えるわけです。

私の発表は、多言語使用者の管理から(1)日本の相手言語接触場面の特徴を再検討し、(2)言語管理モデルの「逸脱」のオルタナティブを検討するというものでしたが、そちらにはついてはべつなところでお話することにします。

話は別になりますが、早稲田では言語管理理論が習得理論の調整として理解されていることが、福島さんや出席した早稲田の学生さんの発言からわかったのは面白い発見でした。ご存じのように、第2言語習得理論における調整は言語管理モデルの調整とは似て非なるものです。もちろん、言語管理は言語問題に対する体系的なアプローチなので、習得についても扱う範囲に入りますが、習得理論に矮小化されるようなものではありません。言語管理がなかなか理解されないことの実例、という印象でしたが、正しいかな。

雨がいよいよ激しくなる中、急いで地下鉄までの帰路を歩きました。雨量の多い雨は悪いものではないです。いろんなものを洗い流してくれますし、雨の中に閉じこめられる感覚もたまになら面白い。モンスーン地帯に特有の気候を味わうことが出来ます。そうそう、発表の準備に疲れて少しだけテレビで見たアジアカップ、ベトナムのスタジアムの湿気と暑さとも、昨日の雨はつながっていたのだと思います。


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Neustupny (1985)を読み終わる

2007-07-11 23:51:50 | today's seminar
今日の大学院授業でようやくNeustupny(1985)の村岡訳を読み終わりました。やはり印象は圧倒的です。もちろん、この論文では訂正理論correction theoryが全面に出ており、調整と訂正がほぼ同じ意味で使われていたりしますが、Masumi-Soさんの借用語の研究、Marriottさんの日本人女性の英語場面研究、Asaokaさんのパーティー場面の研究を縦横に駆使しながら、新しい接触場面の理論を構築していきます。とくに次のような文は、昔から目から鱗が落ちる思いをしたところです。

「このフォリナー・トークという概念は確かに極端なほど役立つ道具である。しかしながら、もし私たちが一つ一つ段階を進んでいき、フォリナー・トークを単に簡略化以外の訂正過程を含むように拡げ、さらに語の狭い意味での言語以外の行動にも拡げていくなら、結局、フォリナー・トークは単純に「接触場面における母語話者による訂正」と同義になるのではないだろうか?」

読み終わってから、さらに借用語について話題が出ました。メルボルンに住む日本人同士が日本語で話しても英語からの借用がたくさんあるという話から、日本でも中国人同士、ベトナム人同士では、やはり日本語が借用されるという話です。それも「あいさつ」がよく日本語で行われるという話が盛り上がりました。スリランカ人同士ではそんなことはないと学生が言うのですが、じつはシンハラ語母語話者同士での挨拶は英語からの借用で行われるのです。さらに日本語を借りる必要はないのでしょうね。こんな例外からも、どうやらあいさつは借用されやすいことがわかります。
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おしゃべり自動機械

2007-07-10 23:17:02 | today's focus
気がついたらもう7月も中旬ですね。

今日のおしゃべり自動機械。

どんな話題にも話が出来るってすごいことだなあと思います。しかも、どんな反論、疑惑、たしなめ、追求にも、たちどころに自分の正しさを立て板に水でおしゃべりできるって、どんなコミュニケーション能力なんだろうと考えてしまう。ことばの極大化した生成能力って感じでしょうか。きっとあのおしゃべり自動機械には、footing(足場)だけはいつも1つにする、っていう生成の秘訣があるんではなかろうか。だからあんなに自動機械のように感じてしまうのかな?

いやほんと、すごい能力です。

しかし、いつも同じようにおしゃべりしていいわけではないです。
得意のおしゃべりばかりやってると、この人には何を言っても無駄なんだと思われるんじゃないかなぁ。ちょうどサポートセンターの録音アナウンスを聞くときのように。あるいはブッシュの政策説明を聞いたときのように。

え?いや誰のことかは、この文章を作っている画面には「公職選挙法に関するご注意」というのも入ってますので、ま、このへんで。
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