フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

延辺という辺境、日本という辺境

2010-02-17 23:44:33 | Winter walk in Yanji
さて、駆け足の冬の延辺の旅も終わりである。

図們から戻った翌日、午前中時間があったので市内中心部に小さなバスに乗ってでかけ本屋をのぞいた。その日も天気はよかったが、風はやはりあって体感温度が低い。

入り口から店内に入るまで、防寒のために備えられている黒くて分厚い布のカーテンを3度もめくらないといけない。言葉のセクションには日本語も少しはあったけれど、やはり英語が圧倒的に多い。幼少時からの英語教育熱がここにも見られる。写真は英語の辞書の棚と、隣り合わせた日本語の辞書の棚の様子。それから次に多いのは韓国語学習の教科書。朝鮮語関係は2階の小中学校の教科書や参考書のセクションにいかないとない。同じ2階には延辺文学という棚があって、定期刊行物や小説類が並んでいる。どんなことが書かれているのか知りたいところだがどうにもならない。中国延辺作家協会の月刊誌「延辺文学」はすでに500号を越えていて、文学活動が(そしておそらく朝鮮語や朝鮮族文化の教育出版も含めて)この地に確固なものとしてあるようだ。ただし、料理本はほとんどの棚が韓国料理の本であって、朝鮮族料理の本は2種類しかおいていなかった。ぼくはそのうちの1冊を有り金をはたいて買うことにした。

冬の延辺の風の中を歩くと、風は顔から耳へと重い流体となって突き刺さってくるように感じる。延辺という中国の東北部にある辺境だが、その風の感触をぼくは懐かしく感じてもいた。子供の頃、ぼくの育った土地ではこんな感じの風が吹いていた。地図を見ればこのあたりと北海道札幌とほぼ同緯度である。延辺でぼくは少年時代の風を思い出していたわけだ。

日本に戻ってから延辺のことを思い出しながら辺境ということについて思うともなく思っていた。辺境として考えると、延吉について書くのは重くなる。自分の立ち位置が問題になるからだ。しかし、ふと関東の街並みを歩きながら、ここもまた十分に辺境なことに気付いた。東京も辺境だし、日本もまた立派な辺境に違いがない(そんなタイトルの本の広告を見たことがある)。大陸のへりにある島国にはさまざまなものが流れ着くから、一瞬は最新のように誤解することがあるが、すべては辺境での出来事ではなかったろうか?さらにすすんで、辺境を地理的にではなく文化の深さということで測れば、じつのところかなりの場所は文化の層と乖離してしまったようにささくれた辺境なのかもしれない。もしそうなら、延辺とぼくの間にあった距離はあっというまに消えてしまう。ぼくは延辺にあり、延辺はここにあるといわけだ。

もちろん誇張ではあるけれど、このアイデアはぼくには好ましいものに思われる。
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煙突の下で

2010-02-14 23:24:29 | Winter walk in Yanji
橋のこちら側には大きな石の門があって、仰ぎ見たところに江沢民の名前が刻まれている。橋を渡る車はすべてこの門の下をくぐることになる。じつはこの門は上ることができて、途中には土産物店が入っている。急な階段をのぼって上に出ると、そこからさらに向こう側が見晴らせるようになっていた。ビスが外れそうなぐらぐらしている双眼鏡が2台備え付けられて、あちらを観察できるわけだが、のぞいてみると数人の子供が遊んでいたり、老人らしい人影が薪か何かを辛抱強く割っている様子も見えた。

しかし、目に不思議な圧迫感で迫ってきたのは低い民家の屋根が重なった中に何本も何本も黒い棒のようなものが突き出ている様子だった。

写真は、iPhoneのカメラ・レンズのところに持参した4倍の単眼鏡をくっつけて撮った南陽市の様子。低い家の屋根が折り重なって並んでいるのが見える。山のすそ野にも同じような家が集住しているのも見える。低い家並には太い棒のようなものが何本も突っ立っている。太さも途中でちがったり傾きもまちまちだが、屋根からさらに数メートルも高いのが異様な気がする原因なのだと思う。よくよく見ると、棒は屋根からつき出しているのではなく、ほとんどは屋根と屋根の間から出ているように思われる。

煙突なのだろうか?屋根はふるびて崩れかけているようだし、横に見える鉄筋のビルにもほとんど生活の灯やにおいが感じられない。ただその黒い棒だけが、煙突とは思えない存在感を示しているように感じられるわけだ。

いろいろインターネットで探してみると、似た写真も数枚見つかり、どうやらそれは地面のところから突き出た木製の煙突で、床下で燃やされるオンドルの煙を逃がすためのものらしいということがわかってきた。しかし、オンドルの煙突については、富裕層のものなら装飾を施した石作りの煙突になるし、普通の家々では、古いものは蟻塚のように家の壁から少しだけ離れた地面から突き出していたり、あるいは外壁にブロック作りでしっかりと屋根の上まで伸びていたりする煙突がよく言われていて、こうした木製の高い煙突について語っているものはほとんど1件だけだった。ニューヨークタイムズの記者はその光景をimpressiveとだけ述べて、描写はしていない。

話は違うが、北海道の家には必ず煙突がある。それは冬を規準として家を造っているからにほかならない。本州の、たとえばここ関東圏の家は煙突はなく、夏を規準にしているから千年以上もの間、隙間風を我慢し続けているわけだ。北海道の家の煙突と言っても、最近は屋根から直接、ブロックやセメントで固められた四角い煙突が突き出ていることが多いが、ちょっと前までの家ではストーブから上に伸ばした煙突が壁の丸い穴からつき出ていて、そこから90度曲がって上に延びていくものが少なくなかったように思う。その場合はほとんどがブリキの煙突だった。そこから煙がゆらゆらと立ちのぼって、厳寒の中でも人の気配が感じられるわけだ。もう少し調べると、じつはその昔、陸軍第7師団が駐屯していた旭川では、軍関係の建物にはペチカを、一般住宅にはオンドルを広めようとしていたなんていう記事が見つかった。驚いたことに、実は今でも北海道の市町村の火災防止条例にはペチカやオンドルについての規準が書かれている。

向こう側のその異様なほど長い煙突からは煙が見えない。いや、写真を拡大してよく見ると、数軒だけ煙が出ていた。煙突の下で何が起きているのか、ぼくは無責任に想像してみるべきだろうか。

2年前に町を歩いた加藤紘一議員は町に生活のにおいがないと言ったそうだ。国境なき医師団の報告は悲惨としかいいようがない。ナショナル・ジオグラフィックには脱北者たちの証言が特集されている。Crossingという映画が日本でもようやく4月に上映が決まったらしい。

想像力はしばしば感傷の別名でしかない。煙突の下には限りないぼくの無知が拡がっている。
(今回は真面目すぎ。これも感傷的な調子の別名ですね。反省してます)
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図們江(豆満江)まで

2010-02-12 23:39:51 | Winter walk in Yanji
時間は前後するが、午前中は延吉から車で1時間ほどの図們まで5人も乗れる大型のバンで走った。曇り空で天気予報では雪模様との話。延吉市を北上して高速にのって東に進む。すぐに山が近づいてきてその間に凍った川が蛇行してついてくる。川は延吉市を南北に隔てる川などが合流して図們まで流れているらしい。ようやく町並みが見え出すと同時に雪が零れ落ち始める。運転手は図們江にかかる図們大橋の手前、国境の検問所前で車を停めた。

図們市は対岸の南陽労働者地区と呼ばれる北朝鮮との国境で有名な町だ。国境は観光地でもあり、江沢民の名前が彫られた碑や土産物屋が並んでいる。ぼくは物見高いただの観光客だから、すぐに国境の向こうを眺めたくなる。

国境は橋の上に書かれていて、それがいかに人為的なものでしかないかがわかる代物だ。橋自体は1941年につくられていて、おそらく関東軍がつくったものだろう。そういえば、対岸の南陽市のすぐ背後にせまる山並みにはロシア軍の進軍をふせぐための砲台建設が試みられたらしい。ここは、38度線とはちがって、中国と北朝鮮の国境だから、けっして緊迫した雰囲気ではない。むしろ友好の碑が建てられていて、計画通りいったなら両市は自由経済区が実現するはずだった。しかし、現実には改善の兆しは見られない。図們江だけでなく、すべてが冬の寒さの中に灰色に凍結してしまったようだ。

ぼくらが行ったつい5日後にはアメリカ人がこの橋を単独で北朝鮮まで渡り切り北朝鮮側に逮捕されたらしい。これはなんのことだろう?あるいは2年前には自民党の加藤紘一議員らがこの橋を歩いて渡って南陽市を回って歩いたという記事もみかけた。昨日の朝日新聞にはこの図們江を渡ってくる脱北者の女性たちがブローカーを介して売られているという記事も掲載されていた。外の人々はそのようにこの一帯を眺めている。ぼくもまたそのようなまなざしで対岸を見ようとしているわけだ。

検問の監視員に見守られながら、線引きされた橋の途中まで歩いた。川べりには北朝鮮の監視員が二人ゆっくりと巡回している。そのとき、ぼくの横を一人の男が通りすぎて、国境線を越えて歩き出した。監視員が鋭い声で「おいっ!」「止まれ!」と言うのだが、まったく聞こえないように男はどんどん橋を渡っていく。そして向こう側に消えていった。そのときはいつ男が射撃されるかとかたずを飲んで見守るだけだったが、そのようなことは起きなかった。案外、観光客用のアトラクションだったのでは?とあとでみんなで笑ったのだったが。
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西市場のフィールドワーク

2010-02-10 22:54:59 | Winter walk in Yanji
中心街から1本中に入った横路に広がる西市場でICレコーダーとビデオカメラを持ち歩きながら店の人たちと韓国語と朝鮮語で交渉する様子をフィールドワークする。多くが朝鮮族のようだったが、漢族の人は中国語を朝鮮語の語順で話しかけたりしていたらしい。つまり、延吉市では漢族でも朝鮮語の知識のある人がいるわけだ。複言語は何もEUの十八番なのではない。

しかし、風も吹き始めると、とにかく耳も頬も痛くなる凍りついた横路だ。15分もいるともう体の芯が冷え冷えとしてしまう。早々に切り上げて、室内の服飾中心の市場、百貨店などに方向転換した。

写真はその横路の風景。横路の看板は二言語併用は守られていない。商売の場所の言語景観は利益とともにある。中国語のほうがずっと多いということは、看板は漢族の客のためにあるということで、朝鮮族の客には看板などなくても何があるかわかっているということなのだろうか?漬け物、魚、ご飯物、肉の煮物、黄色い焼き芋、ぶら下げられたキジ、寒い中で店を構えている人はまだ余裕があるが、店を持たない商売人は立って漬け物などを売っている。頭はフードと帽子、顔はマスクで完全防備である。

もちろん、その日は極寒だったわけではない。比較的に穏やかな冬の日だった。
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佐藤文夫 『詩集 津田沼』(作品社)

2010-02-09 23:38:29 | my library
延吉の話は1回休み。

10年以上も前、年の終わりにその年に刊行された詩集を何冊も買っていたことがある。つまり詩人たちがその年に言葉を通じて戦ったその戦績を拝読するという儀式だった。もうすっかりそんなことをやめてしまったけれど、この1月に久しぶりに買ったのが上の詩集だ。2009年4月の初版。

購入したのは残念ながら津田沼ではなくて、稲毛海岸だった。ぼくはごくふつうの本屋に行ってあまり普通とは思えない本を見つけて買ってくるのが楽しみなのだが、そのときも特にこの本を買おうと思って本屋の棚を物色していたわけではなかった。「津田沼」と目に入ってくるまで、何も知らなかったのだ。

最初の詩は表題になっている「津田沼」で、こんなふうに始まる。

津田沼
という沼は
どこだ

きみはいま
津田沼という
ない沼の上に
立っている

津田沼よ
かつて津であり
田であり
沼であった
津田沼よ

もう誰も言わなくなったことを敢えて言葉にする、まったく流行らないそのやり方は、意識的にユーモラスでもあり、かなり姿勢を正される。反骨精神だけなのかというとそうでもなく、たとえば次のような美しい言葉が紡がれる。

日和山にて風をまつ
風が吹いたら船をだす

学生時代の同人誌に、「風待ち」という小説のようなエッセーのようなすがすがしい鬱屈を書いた先輩のことを思い出す。

しかし、やはりユーモアが良い。次の詩は「動物園」の連作。

「ヒト喰い虎」

ちかごろのトマトときたら ほんとうの
トマトの味が しなくなってきたという
そういえばちかごろ人間だってさっぱり
人間の味がしなくなってきたではないか
と どこかでヒト喰い虎がはなしている

もはや詩を気取ることのない詩人の言葉は滋味深い。
ちなみに津田沼駅の周辺はむかし陸軍の鉄道連隊の敷地だったそうです。陸軍がそのあたりでレールの敷方を練習していたので、そのでき上がったレールを買った京成線は練習通りにカーブがやけに多いのだとか。
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延吉市の言語景観

2010-02-08 23:31:39 | Winter walk in Yanji
初日、歓迎会の後、夜の散歩に出かけた。延辺朝鮮族自治州では朝鮮語を使用する権利が認められていて、街の看板はすべて中国語と朝鮮語が併記されることが義務づけられている。順番も決まっていて、上に朝鮮語ハングル、下に中国語漢語となる。ただし、経済活動はやはり中国語ベースなようで、この写真の看板も、中国語のほうが主で、それの翻訳調の朝鮮語が併記されているのだそうだ。もちろん、朝鮮族としてはそれは面白くないわけで、出来るだけ朝鮮語の表現で書きたいわけだが、実態はなかなかそうは行かないというのがこの写真にもよく出ている。

左下の写真は朝鮮族の民族衣装のお店のようだが、1階はピザ屋みたい。それもPizzanalaというところがよい。nalaはもちろん、landとかcountryのこと。それから右上にあるのは「男子医院」とあってずっと謎だったが、これはどうやら日本の産婦人科医の反対、男性の病気専門の医院らしい。でもいろんなところで目に付くのでちょっとあやしい感じがする。
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延吉市初日

2010-02-03 22:57:11 | Winter walk in Yanji
延吉市の空港に着いたのは予定通り午前11時。薄曇り。入国管理、税関を通って到着と出発が同じ1階のロビーに出る。ビニールのすだれがかかった出口から外にでる。空気が引き締まって、北海道のよう。タクシーに分乗してホテルに向かった。川沿いを走るが川はすっかり凍りついている。

北の大地はどこでも似た印象があるが、建物が大地にしっかりと根付いていない気がするのは不思議だ。何となく開拓の香り、借住まいといった風情が北海道にも、カナダの東海岸にも、あるいはタスマニアですら(こちらは南の大地)、感じる。逆に言うと、自然がじかに迫ってくると言っても良いかもしれない。

それだけではなく、中国の北東の端に位置する国境までも数十キロのこのあたりは、やはり中国の周縁の1つなのだと思う。中央文化の層が薄いので、自然もすぐに顔を出してしまうという感じもする。このへんはつねに多くの民族と国が通りすぎていったが、それは小さなひとかたまりの部族や亡命者や難民の群れでもあっただろう。あるいは強力な偽満州国が悪夢のように立ち上がったときもあった。歴史的感興をつぶやく柄ではないが、さまざまな人や権力が通りすぎっていった後に、朝鮮族自治州がここに存立していることの不思議さを思う。

ホテルに到着してから部屋に入るまでたっぷり2時間かかったのだが、それは共産主義国シンドロームがこの中国の北東の端にたっぷりと残っていたことの証でしかないので、言わないことにする。まだチェコがチェコスロバキアだった時代、夏のプラハの旅行会社にホテルを予約に行ってもすべて満室と言われて埒が明かなかった経験があるが、まあこのシンドロームはどこの国でも同じような症状を呈する。同行してくれた朝鮮族の学生さんがよく機転をきかせてくれて何とか部屋までたどりつくことが出来た。

写真はそのホテルの部屋の窓から眺めた延吉市の西側の眺め。中心街は東側にある。写真ではまっすぐ西に伸びた道路の右側が丘の傾斜面になっている。そのあたり、延辺大学の中心キャンパスとなっている。歩いても5分ほどのところ。延辺大の金先生がホテルまで来てくれて、いっしょに大学まで歩いてもらう。外語学院の日本語科を表敬訪問。さらに冬休みにもかかわらず呼んでもらった学生さん6人に協力いただいて会話録音もさせてもらえた。その後、ホテルのレストランの一室を借りて歓迎会を開いてもらった。延辺大学は日本語研究、韓国語研究のセンターでもあって、日本語を見事にあやつられる10名ほどの先生が歓迎会を開いてくださったことに、ある種の感動があったことを記しておきたい。そしてその歓迎の仕方が決して緊張を強いるようなものではなく、ゆったりと時間を楽しむようなものであったことも付け加えておく。

かくして延吉初日は更けていったわけだ。
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