さて、駆け足の冬の延辺の旅も終わりである。
図們から戻った翌日、午前中時間があったので市内中心部に小さなバスに乗ってでかけ本屋をのぞいた。その日も天気はよかったが、風はやはりあって体感温度が低い。
入り口から店内に入るまで、防寒のために備えられている黒くて分厚い布のカーテンを3度もめくらないといけない。言葉のセクションには日本語も少しはあったけれど、やはり英語が圧倒的に多い。幼少時からの英語教育熱がここにも見られる。写真は英語の辞書の棚と、隣り合わせた日本語の辞書の棚の様子。それから次に多いのは韓国語学習の教科書。朝鮮語関係は2階の小中学校の教科書や参考書のセクションにいかないとない。同じ2階には延辺文学という棚があって、定期刊行物や小説類が並んでいる。どんなことが書かれているのか知りたいところだがどうにもならない。中国延辺作家協会の月刊誌「延辺文学」はすでに500号を越えていて、文学活動が(そしておそらく朝鮮語や朝鮮族文化の教育出版も含めて)この地に確固なものとしてあるようだ。ただし、料理本はほとんどの棚が韓国料理の本であって、朝鮮族料理の本は2種類しかおいていなかった。ぼくはそのうちの1冊を有り金をはたいて買うことにした。
冬の延辺の風の中を歩くと、風は顔から耳へと重い流体となって突き刺さってくるように感じる。延辺という中国の東北部にある辺境だが、その風の感触をぼくは懐かしく感じてもいた。子供の頃、ぼくの育った土地ではこんな感じの風が吹いていた。地図を見ればこのあたりと北海道札幌とほぼ同緯度である。延辺でぼくは少年時代の風を思い出していたわけだ。
日本に戻ってから延辺のことを思い出しながら辺境ということについて思うともなく思っていた。辺境として考えると、延吉について書くのは重くなる。自分の立ち位置が問題になるからだ。しかし、ふと関東の街並みを歩きながら、ここもまた十分に辺境なことに気付いた。東京も辺境だし、日本もまた立派な辺境に違いがない(そんなタイトルの本の広告を見たことがある)。大陸のへりにある島国にはさまざまなものが流れ着くから、一瞬は最新のように誤解することがあるが、すべては辺境での出来事ではなかったろうか?さらにすすんで、辺境を地理的にではなく文化の深さということで測れば、じつのところかなりの場所は文化の層と乖離してしまったようにささくれた辺境なのかもしれない。もしそうなら、延辺とぼくの間にあった距離はあっというまに消えてしまう。ぼくは延辺にあり、延辺はここにあるといわけだ。
もちろん誇張ではあるけれど、このアイデアはぼくには好ましいものに思われる。
図們から戻った翌日、午前中時間があったので市内中心部に小さなバスに乗ってでかけ本屋をのぞいた。その日も天気はよかったが、風はやはりあって体感温度が低い。
入り口から店内に入るまで、防寒のために備えられている黒くて分厚い布のカーテンを3度もめくらないといけない。言葉のセクションには日本語も少しはあったけれど、やはり英語が圧倒的に多い。幼少時からの英語教育熱がここにも見られる。写真は英語の辞書の棚と、隣り合わせた日本語の辞書の棚の様子。それから次に多いのは韓国語学習の教科書。朝鮮語関係は2階の小中学校の教科書や参考書のセクションにいかないとない。同じ2階には延辺文学という棚があって、定期刊行物や小説類が並んでいる。どんなことが書かれているのか知りたいところだがどうにもならない。中国延辺作家協会の月刊誌「延辺文学」はすでに500号を越えていて、文学活動が(そしておそらく朝鮮語や朝鮮族文化の教育出版も含めて)この地に確固なものとしてあるようだ。ただし、料理本はほとんどの棚が韓国料理の本であって、朝鮮族料理の本は2種類しかおいていなかった。ぼくはそのうちの1冊を有り金をはたいて買うことにした。
冬の延辺の風の中を歩くと、風は顔から耳へと重い流体となって突き刺さってくるように感じる。延辺という中国の東北部にある辺境だが、その風の感触をぼくは懐かしく感じてもいた。子供の頃、ぼくの育った土地ではこんな感じの風が吹いていた。地図を見ればこのあたりと北海道札幌とほぼ同緯度である。延辺でぼくは少年時代の風を思い出していたわけだ。
日本に戻ってから延辺のことを思い出しながら辺境ということについて思うともなく思っていた。辺境として考えると、延吉について書くのは重くなる。自分の立ち位置が問題になるからだ。しかし、ふと関東の街並みを歩きながら、ここもまた十分に辺境なことに気付いた。東京も辺境だし、日本もまた立派な辺境に違いがない(そんなタイトルの本の広告を見たことがある)。大陸のへりにある島国にはさまざまなものが流れ着くから、一瞬は最新のように誤解することがあるが、すべては辺境での出来事ではなかったろうか?さらにすすんで、辺境を地理的にではなく文化の深さということで測れば、じつのところかなりの場所は文化の層と乖離してしまったようにささくれた辺境なのかもしれない。もしそうなら、延辺とぼくの間にあった距離はあっというまに消えてしまう。ぼくは延辺にあり、延辺はここにあるといわけだ。
もちろん誇張ではあるけれど、このアイデアはぼくには好ましいものに思われる。