フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

久しぶりの浦安で

2011-11-27 23:58:35 | Weblog

久しぶりに浦安に出かけた。国際交流協会創立25周年の催しがあるとお知らせをいただいたので、朝から足を向けたのだ。新浦安の駅前広場はずいぶん落ち着いた感じがする。駅前のエレベーターも使えるようになっていた。しかし、よく見ると、まだまだアスファルトで穴ぼこをふさいだだけで、本格補修ではない。

記念講演は北脇保之氏の「多文化共生再考」。北脇氏は、つい最近まで東外大の多言語・多文化教育センター長だった人だが、自治省、国会議員、浜松市長を歴任された優秀な政治家でもある。

講演は、私も勉強になる内容でとてもinformativeだったし、その考え方にもバランスのあるものだった。たとえば、国連などの定義では1年外国に滞在すればもう「移民」と言えるのに対して、日本ではそうした意味がないために「定住外国人」と呼ばれていることなど、言われればそのとおりで、無自覚に「定住外国人」と呼ぶことの危うさに気がつく。そういえば、浦安の調査をしているときに、最初は外国人居住者と呼んでいたのに、インタビューをしていくうちに外国人住民でいいじゃないかと変わっていったことに、この問題は繋がっているのだと思う。

また、多文化共生と多文化主義を比較して、多文化主義にはマイノリティの権利主張と擁護が中核にあるが、日本での用語である多文化共生には外国人の適応の意味しかないという指摘は、とても分かりやすい区別になっている。

氏はヨーロッパの政策にも詳しいらしく、多文化主義を含めた社会統合の政策が現在、すすめられているが、外国人コミュニティがホスト社会と分離しないような、外国人移民の社会参加と、彼らの多様性をわれわれの社会のチャンスと捉えてホスト社会自身から変容をすすめていくような、統合モデルを考えたいと話していた。

外国人の逸脱は否定的なだけでなくコミュニケーション・リソースにもなることはぼくも指摘したが、それは単に異文化理解や異文化適応に役立つというにとどまらず、社会参加が可能で自立した外国人住民をとりこんだ社会統合にとって重要な要素なのだと考えることができるだろう。われわれの接触場面研究も、変容する接触場面の諸相をとらえようとここ数年やってきたが、マクロな視点からそれがどのような意味を持つのかを議論していけたらよいのかもしれない。

それにしてもわれわれは外国人住民を歓迎していけるだろうか。理論や欧米追随ではなく、腹の底で正しいと感じること、そこから議論は始めなければならない。

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学生飲み会のスキーマ

2011-11-12 22:30:08 | today's seminar

今週の日本語教育方法論では社会文化能力の学習項目という話。とくに書くほどのことではないが、ちょっと面白かったので紹介する。

日本語教育のシラバスでは文化にどのようにアプローチしていくかは難しいテーマだけど、授業では(1)プロダクトとしての文化(日本事情)、(2)プロセスとしての文化(米国のStandardsの考え方、自文化との比較、解釈)、(3)スキーマとしての文化(場面でのインターアクションの行動と解釈の準拠枠)という3つのアプローチがあることを紹介した。

以下のリストは、学生たちの飲み会に参加するときに必要なスキーマを考えてもらって出てきた項目。

・普段と飲み会はきりわけている(ハレとケ)

・飲み会は仲間内でリラックスする活動

・お酒が飲めなくても顔をだす

・上座もある(先輩、ゲスト)

・とりあえずビールで乾杯

・ノンアルコール、ソフトドリンクでも乾杯

・飲んでいない人には飲ませる(とくに年上から)

・先輩からのお酌は断らない

・年上におしゃくを!!!

・女の子が取り分ける(しかし女子は納得していない)

・多数のときは固い話はKY

・雰囲気になじむ

・空気を読む(前半は全体で動いているので)

・とりあえず騒いでおく

・深い話は後の機会に

・酔っぱらいはOK。結構「いい人」と思われる

・無礼講だ!!!

・コールがあるぞ!!!!

・ゲームで負けたら飲む!!!

・その場だけ楽しむ

・飲み会のあとは、忘れる

・最後はきちんと支払う、しめの挨拶のときもきちんとする

・2次会必須!!!(前提)

どうですか?かなりいい線いっていると思うのだけど。日本の飲み会が、パーティーといかに違うかがよくわかる。飲み会だけでなく、パーティーでも我々はこうしたスキーマの一部を適用してしまう気がする。そこで留学生は戸惑ってしまうわけだ。

 

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研究日々録または謝罪という相互行為

2011-11-09 00:09:53 | today's seminar

しばらくごぶさたしたので、研究指導と授業での話を2つ。

11月に入り、修士課程の学生さんは論文作成に目の色が変わりつつある頃だが、先日、謝罪について分析をしている学生さんが、韓国人同士の場面で、謝罪する側、謝罪される側の両方の謝罪のストラテジーを数えてまとめたのを聞いて、ちょっと驚いてしまった。なぜなら日本語の教科書だって、接触場面の謝罪の研究だって、あるいはさまざまな言語での謝罪研究でも、そんなことをしている論文は見たことがなかったからだ。

そうした研究の前提にあるのは、謝罪行為は、受け入れられるかどうかわからない、かなり深刻な相互行為であると考えているからなのだろう。ぼくだってそうだ。だから、謝罪のストラテジーは、謝罪をする側でしか数えない。謝罪される側の行動は謝罪に対する応答だけをみることになる。

その学生さんが考えていた韓国人同士の謝罪は、友人関係にある場合ではあるが、受け入れられることが前提になっている、やや儀礼的、やや遊びの要素も入った、謝罪の相互行為なのだ。謝罪する側がある謝罪の要素を言わなければ、謝罪される側がそれを口に出して(つまり約束の要素を言わなければそれを要求するというかたちで)、謝罪の相互行為を遂行していき、終わりまですすめていくということらしいのだ。まあ、分析のやりかたにはかなり難点があったのだが、久々に面白いポイントではある。

**

今日の大学院授業では、Monica Hellerのモントリオールにおけるコードスイッチングの短い論文を読む。そこにあった1つの例にみんなで目をとめた。

バイリンガルを求められている病院の職員のうち、英語系の職員がフランス語で患者に応対するのは、彼らにとってはひとつのfavorを与えることであって、彼らがそうすることで、英語系の人びとの優位さ(つまり権力関係)が維持されているというくだり。

ボランティアで日本語を教えている人の中に、ときどき、日本語でも通じるのに、中国語で話そうとする人がいるよね、という話になって、もしかしてそれってその人にとってはfavorのつもりだったのかなあ、とそんな話をした。

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