フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

10月末日録

2010-10-30 23:55:58 | Weblog
昨日の学部ゼミではフォローアップ・インタビューの実習をする。

昔同じようなことをしたときにはほぼすべて学生たちが自分でビデオや質問を用意したものだが、今回はお膳立ては全部こちらがやって質問を考えるのも手伝ったりしている。インタビューにもぼくも少し参加してみる。だんだん聞かれるタイ人の留学生も、質問する学生も真剣になってくる様子が少しだけ面白い。インタビューはデータを取るというより、その人の本当の気持ちに触れて共鳴するところに醍醐味があるとぼくは思っているけど、学生たちはどう感じただろう。おしゃべりはそつがないけど、深く入り込めない、なんて言われる世代なのだ。

今日は台風が近づいて1日中雨。午前中は娘の中学が全校生徒参加で行う合唱発表会。この学校はふつうの学校なのに合唱発表会は体育館でなくて、県立文化会館の大ホールを1日借りて開催する。今時はこれが普通なのかな。文化会館は県立中央図書館の後ろにあって、図書館のいかにも古いというか崩れそうな60年代から70年代の疲れたコンクリートが雨に濡れているのを脇に見ながら階段を上っていく。

娘のピアノ伴奏が終わるのを待って退場。大学で入学試験の面接。例年よりも志願者が少なくて助かる。雨脚が繁くなってきた中を、黄色く色づいた落ち葉がぬれて舗道に張り付いているをみながら、早々に家にもどる。

朝鮮族調査を少し考えてみるが、データを集めれば集めるほど言語運用の不思議、ではなくて、当たり前なところが見えてくる。3言語を使用する彼らには何も変わったところはないという感じだ。言語運用に不思議はない。しかし、接触場面が日常化している人びとに共通する、言語選択や言語習慣についての意識があって、それに則って言語運用を管理しているように思われる。そこが今のところ注目したいところか。

ようやく秋が深まりつつあるが、もう11月である。
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言葉を中心的なアイデンティティとしないことの意味

2010-10-17 23:10:07 | research
朝鮮族の調査をまた少ししているが、会話データを録ろうとすると、それはなかなかうまくいかない。韓国人となら韓国語と日本語を切り替えるかと思うと、日本語だけになるし、中国人とは中国語と日本語を切り替えるかと期待すると、日本語ばかりかになるか中国語ばかりになるというように、多言語話者としての秘密を簡単には出してくれない。

ちょっと困ったので、朝鮮族の研究者ご夫婦に話を聞くことにしたのが先週金曜日の夕方。失敗と思ったビデオを見せたところ、これは普通ですよ、とくにビデオがあれば日本語だけで話すでしょう、と言われる。確かに接触場面での彼らの管理は、出会ったときの言語選択にあるのであって、会話が始まればほとんど一言語で進めていく。

では朝鮮族同士ではどうなるのかというと、朝鮮語であるとは言ってくれるのだが、ぼくらはふつうどのような言語を話しているかは意識できないものだ。ぼくが聞かれれば、そりゃ日本語ですと答えるにちがいない。コードスイッチングも同じような特徴があって、コードスイッチングをしていることにも意識がない場合が少なくない。

朝鮮族の朝鮮語には、周囲の言語との接触によって、多くの借用語が入っていることは当然だろう。借用語の中には句レベルや文レベルのコードスイッチングが混じってくることも多いにあるに違いない。そこに管理はないにしても、朝鮮族の朝鮮語データを録っておきたいという気持は残る。

お二人の話を聞いていると、朝鮮族というまとまりは朝鮮語を中心には意識されていないことは忘れてはならない点だろうと思う。延辺から離れた吉林省や黒竜江省であれば、朝鮮語のバラエティが違うし、中国語の能力も格段に強くなる。延辺の朝鮮族であっても漢族の学校に通った人は朝鮮語が弱い。だから朝鮮族と言っても標準的な母語話者能力を想定することができないし、朝鮮語ができないからと言って朝鮮族ではないということは言えないわけだ。

日本に暮らし始めると、少数民族と言われ続けていた中国での時以上に朝鮮族であることを意識し始める。それはとくに韓国人と出会ったとき。そして、自分の名前を書くと、韓国人ですかと聞かれるとき。日本では民族と出身の国をナイーブにいっしょに見るものだから、そんな質問に苦労することになる。ヨーロッパではそんな質問はまず回避される。

日本にいるのは一番楽です。中国でも出世の道はとざされているし、韓国ではどうしても馬鹿にされる対象だし、ここがいいんです、とうのがお二人の話だったが、それは学生という身分のために過ぎないのか、それとも事実であるのか?

日が暮れていき、話は終わったが、どのように言語を使い分けるかよりどのように自分を見せるかのほうが、彼らにとってずっと重要なことなのだろうと思いながら、家路についた。
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29年経っての感慨

2010-10-14 23:43:41 | Weblog
今日は大学の会議である報告を聞いて、感慨をもった。

というのも、ぼくの職場先でもようやくInternational Support Deskという名の、大学全体の留学生を対象とした支援組織が出来たというのを聞いたからだ。私立大ではとっくにやっていることだけれど、国立大は学部ごとの「縦割り」があって、留学生は所属する学部や学科の事務が対応することが多い。だから学部や学科で対応がバラバラだし、留学生の質問に対する応答もまちまちになってしまっている。もし会う人ごとに応答が違ったら留学生はどうしたらいいだろう?

29年前にアメリカの大学に行ったとき、まずその学期開始のときに、大学のInternational Centerがほやほやの留学生たちを集めてガイダンスを行い、必要なパンフレットを配布してくれた。そして何でもいいから質問や困ったことがあったらCenterを訪ねてほしいと言われ、とても心強く感じたものだ。しかし、日本に戻ってみると、そんな組織は何もなかった。

そんな経験があるから、留学生サポートの一元化は当たり前のことだと思っていたのだけど、日本の国立大学ではむりなのかなと思っていたわけだ。それがなぜ出来るようになったのか経緯はしらないけれど、ようやく実現するという。

願わくばちゃんと魂を入れるのを忘れないように。

じつは組織はいくらでも出来るわけで、大切なのはサポートにまわる人間なのだ。アメリカのCenterだって、留学生の話を真剣に聞いてくれる人とそうでもない人の違いはあって、英語のわからない留学生にもその違いははっきりわかるものだったから。
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合同合宿 in 山中湖

2010-10-03 22:42:01 | today's seminar
土日をつかって千葉大学と神田外語大学の合同合宿。
合同合宿は総勢30人弱で、毎年よく福島のBritish Hillsで行ってたが、今回は後期授業もすでに始まったため、近場の山中湖となった。

ここでの合宿は2001年にネウストプニー先生などと一緒にやって以来。山登りの思い出が強いが、今回も少しだけ土曜日の午後、着いてすぐ、石割神社に続く急な石段を登った。しかしあまりに急で長々と続くので、学生はいざ知らず、こちらは途中で諦めてしまった。

土曜日の夜は4年生の卒論ポスター発表と、異文化経験のディスカッション。

天気が続くか心配していたが、日曜日、翌朝はよく晴れて、合宿のホテルの目の前に富士が見えた。

午前は、いっしょに来てくれたインドネシアとアメリカの留学生との会話の分析(院生たち)、そして「多文化社会がすすんだ10年後の私たち」というタイトルで、どんな異文化状況が生来しそうかをグループディスカッションしてもらった。

十分に議論をする時間がもてなかったのは残念だったが、現在の韓国のように日本より少し進んだ状況になった場合と、オーストラリアのようにものすごくすすんでしまった場合の2つの可能性を国際結婚家族がすごす1日ということで考えてもらったわけだ。このテーマは前日の夜、先生たちでひねりだしものだったのですが、意外に面白いかもしれない。

良い空気を吸って心機一転、後期授業に向かうことになる。さて、今学期はどんなことが待っているか、また始めることにしよう。
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