フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

さまざまなピリオドについて

2008-07-31 23:55:19 | Weblog
さて、今日で前期も終了で、明日から千葉を離れます。千葉には年々、長すぎるという気持ちが募ってきます。もともと合っているとは言い難い教師生活についても然りですね。日々の糧とはもともとそのようなものかもしれません。

大学の文学部棟は8月から改修工事だそうで、その前にネストプニー先生の元研究室(現学生控え室)の荷物整理をしました。控え室も来年4月から場所が変わるので、教授の研究室もこれで見納めです。

これはどこかで聞いた逸話ですが、イギリスの社交界で華やかな生活を送っていたジェントルマンが、あるとき、自分は明日から引退する、これまでの皆さんのご厚意に感謝します、と言って、隠遁生活に入ったのだそうです。そのジェントルマンは北の海に面した城塞に住み込んで、それ以来、誰とも会わずに残りの人生を過ごしたと言うのです。そんなことが出来る経済的豊かさのことは別にして、ジェントルマンの決意と、そこに見られる人間に対する徹底した絶望には、ガツンと殴られたような気がしましたし、なにか教えられた気もしたのです。

こちらは1ヶ月しか出来ませんが、ひとまず隠遁生活に入ります。楽しかった釜山のことも忘れましょう。ブログも一休みにしようかな。ピリオド。

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異文化に入るその深さについて

2008-07-27 11:37:11 | Busan finally
大会も終了。皆、発表も終わり、あとは打ち上げとなる。

3月までの授業科研のグループの横須賀さん、田中さんも合流して、鳥料理(プルタク)に出かける。若い人向けのレストランだったが、数年前から流行っている料理だそうで、その料理を開発したお店の本店なのだ。社長自ら、テーブルの大きな丸い鉄鍋の上で唐辛子漬けの鳥のもも肉を焼き、真っ赤な唐辛子のルーを混ぜていく。暑い中で辛い鳥料理を食べて汗を流すのが流行っているのだそうで、たしかに立派な辛さ。なかなか楽しいし旨い。

ホテルに早めにもどって、ホテルの地下にあるジムジルバンに行く。これはいくつかの低温サウナに入れる休憩どころ。薄暗いところで、竹のゴザを敷いてある部屋に入って横になる。ボイラーの中を湯が通っているようなゴボンゴボンという音がときどき聞こえる。人もほとんどいないので目を閉じて静かに汗が出てくるのを待つ。韓国人の楽しみの一つなのだろうけど、ガイドの金さんも、仙人のおじいさんも、静かに竹のゴザの上に横たわるのだろうか。だとしたらこれは活力を回復させるために胎内に戻る古い方法なのかもしれない。

翌朝は、1日だけ戻るのを延ばした同僚のMさんと別れて、学生3人と金海空港に向かう。

タクシーの運転手は昨日の仙人とは対照的で、一言も話さず、静かな道中となった。おかげで昨日のプルタクを食べながら話したことを思い出した。どんなきっかけでだれが話したか思い出せないけれど、異文化に暮らすときにどこまでその文化に深く入っていくのかといったことだったと思う。

5年韓国に暮らした学生さんの様子を見ていると、韓国とそこの人々に対する共感がとても強く伝わってくる。どんなかたちでも異文化に暮らすことは出来るが、好悪を含みながらその国の人々に深い気持ちを持つことができたら、きっとその土地に足をつけたことになるにちがいない。

自分の中にその文化が思いの外、根を下ろしていることに気づいて驚くこともあるだろう。しかも、それはその国の人間になることでは全然ない。自分というものの複雑な定義の問題なのだ。

接触場面研究の質もまた、対象となる文化や人にどれだけ入っているかによってその浅い深いが決まってくるはずだ....深く強い感情を持てば持つほど、分析は深くまで届き、説明も重層的になっていく....。

ともあれ、しばらく釜山ともお別れだ。写真は慶州仏国寺のターコイズブルー。(Busan finally 了)
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釜山仙人

2008-07-26 11:05:29 | Busan finally
翌日は学生3人とタクシーで朝から学会へ。

のっけから、運転手のおじいさんの韓国語が炸裂した(通訳付)。

「朝から美人を3人も乗せられて、私は幸せ!はっ、はっ、はっ!」

「私の名前を知ってるかい?キムxxxと言うんだ!」

車はガタゴトと動き出す。

「笑おう!笑おう!笑えば寿命が伸びるぞ。はっ、はっ、はっ、はーっ!」

「悩まない。難しい顔しない。今、ちょっと考えすぎて寿命が20分縮まってしまった。笑おう!笑おう!はっ、はっ、はっ!」

横から別の車が理由なく近づくと、「あいつは美人に引き寄せられて寄ってきた!」

美人がお好きなようで、高速の入り口でも若い女性の係に「Oh, Thank you! Good Bye」

湾をまたぐブリッジの上に行くと、「ここからは天気がいいと対馬が見えるゾ。でも今日は見えない。はっ、はっ、はーっ!」

韓国語でまくしたてるだけまくしたてて、ぼくに突然日本語で「ワカリマスカ?」なんて言う。「う~ん」と言うと、「わからなくてもわからないと言わない。寿命が縮むぞ。ワカリマスカ?」たまらずこちらも「ネー!」。

ブリッジを渡りきって、信号待ち。水筒を取り出すと
「この水がいいんだ。これは体に最高だ!ぐいっと飲んで、シュバーッと出す!ぐいっとやって、シュバーッだ!ワカリマスカ?」
「ネー!」とみんな。
「これで長生きできるゾ!みんなもやるといい。ぐいっ!シュバーッ!ワカリマスカ?ワカリマス!ハイハイ!ドウモドウモ!」日本語も快調だ。

タクシーはようやく岡の頂上の学会会場に。それから30分、ぼくらの頭の中で釜山仙人の言葉が飛び回っていた...
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柔らかな殻?

2008-07-26 10:27:23 | Busan finally
ロッテ百貨店から学会に出かける。何人もの日本人の先生方にお会いして、ご挨拶。

金剛大学のKさんと合流。彼は千葉大で博士を取って新設の金剛大学で苦労している。今回、一緒にきた学生もそこで2年教師として働いていたので、彼女の上司でもある。じつはKさんは千葉大日本文化学科卒でもあり、彼女にとっては大学の先輩であり、韓国の高校の職を世話してくれた恩人であり、そして大学での上司でもある、という頭が上がらない関係というわけ。いつもは笑いの絶えない彼女が、Kさんの前に来るととたんに静かになるのが面白かった。

Kさんの車に5人乗せてもらって、夕食に出かける。途中、海の見えるレストランで韓式定食を食べさせたいと思っていたKさんと、もう韓式定食は食べたから今日は焼き肉が食べたいというこちら側とで、ホストとゲストの交渉が繰り広げられる。韓国のとくに男性には、慶州行きのガイドさんもそうだったが、自分が考えているベストなもてなしをやり遂げたいという気持ちがとても強いので、Kさんも何とか韓式定食まで連れて行きたいわけだ。これはすごい善意で、ぼく1人ならすぐゲストとしてオーケーを出すのだが、こちらは多勢に無勢というわけで交渉を熾烈を極めた(なんて)。最後に乗り出したのは同僚のMさん。韓国人同士、一歩も後に退かない。とうとうKさんも根負けして、焼き肉に軍配が上がった。

幸い、ガイドの金さんに電話をして教えてもらったところは肉も美味しく、Kさんも納得の味。野菜の葉の上に肉をのせ、お肉に甘辛いユッケジャンを塗り、他の総菜を上にのせて、それを葉で巻いて食べるのが、韓国の焼き肉。だからたくさん野菜が食べられる。

話は違うけれど、2年前に熱烈歓迎を受けた湖南でもたくさんの料理を食べさせてもらったり、案内をしてもらった。たぶん、その熱烈さは他に類を見ない。ベストなもてなしをやりとげるというより、ゲストの気持ちを忖度しながら、熱烈盛大にもてなしてくれて、恐縮するぐらいだった。そしてそこにはいつも「中国」人として、という熱意が表に出て、発揮されていたように思う。それぞれの社会の時代の推移ということもそこにはあるわけだけど。

釜山にきてガイドの金さんやKさん、そのほか街を歩く人々を見ていて思うのは、強烈なホスト意識があってもそこに「韓国」人としてという熱意が薄いように感じるのだ。かわりにその人の個性や気持ちがじかに感じられてくる。それはたとえば、オランダでもオーストラリアでも経験するような人の感覚で、香港でもそれなりに感じられる。文化の固い殻と柔らかな殻という言い方があるけれど、少なくとも釜山には柔らかな殻の人々が自分の意思で歩いている...

それは釜山が国際的な港湾都市として歩んできた結果としての身のこなしなのかもしれないし、あるいは大きく見れば日本との親和性の多さからぼくが勝手にそう反応していたに過ぎないかも知れない。

それとも、グローバリゼーションを生きる釜山人の個性ということなんだろうか。
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院ゼミ最終日

2008-07-25 23:49:32 | today's seminar
暑さに閉じこめられたような猛暑が続いていますが、今日は院ゼミも学部ゼミも今学期の最終日を迎えました。暑くて口も開けたくない気持ちですが、久々にゼミの打ち上げとなりました。

中国から2年の仕事を終えて帰国した薄井さんと庄山さんが元気いっぱいで参加してくれましたし、2月から長春に教えに行っていた前澤さんも一時帰国で仲間に加わり、総勢15名の一団でした。海外で教えて帰ってきた人がよい経験をしてもどってくれるのが一番うれしいですね。なぜといって、それぞれの場所や人とのふれあいを自分の生きる糧にしてきてくれたわけで、それが日本語教師の仕事として最もベースになるのではないかと思います。

そうそう、林さんの博論も無事合格したので、そのお祝いも兼ねていました。後輩たちからプレゼントがあったので何だろうと思ったら、どうも話によるとかなり先輩としてアドバイスをしてくれていたようです。

それにしても暑い。頭が熔けそうです。
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釜山ロッテ百貨店など

2008-07-21 23:13:37 | Busan finally
今日も暑い。朝から1人で、地下鉄の最寄りの市立美術館前駅まで。

切符はどうしようかと思い、香港の経験から、チャージ出来るカードを買うのが一番簡単だという結論となる。ところが、カード券売機はハングルだけで自力では買うことが出来ない。しかたなく、すぐ横のインフォーメーションのドアを開けて中にいた駅員にお願いする。こちらはすっかり韓国語は諦めて英語に切り替える。彼も英語は得意ではなく、券売機のところまで来てくれて一生懸命教えてくれる。カードが買えれば、勇気百倍だ。駅員に感謝。

そこからひとまず2号線で市内へ行こうと考えて乗車。地下鉄の駅名はハングルもローマ字も漢字も併記されているので、何とかなる。ハングルの良い勉強。しかし、2つだけ駅名に漢字がかかれていないものがある。つまり、漢字表記されない韓国語もあるということだ。

話はずれるが、街中はほぼ99%ハングルだけれど、ときどき看板に漢字が書かれていることがある。よく見ると、それは「辛」という文字だったり、「上海」であったりと、その漢字は特別な機能のために用いられている気がする。つまり、ある意味の情緒的な強調であったり、外来固有名の強調であったり、というわけだ。

韓国では自分の名前もハングルで表すので、ぼくは金さんがどのようなハングルで書かれるか、同僚の先生がどのように書かれるかが分かったときに、とても新鮮だった。つまり、金さんは金ではあるのだけど、じつ発音も表記もハングルのキムさんであって、Kimさんでもないのだと思った次第。

釜山外国語大学では日本語教育世界大会が開催されたわけだけど、同じ時期に韓国の複数の日本研究の学会もまた同じ大学内で開かれていていた。だから韓国語での発表はそちらで行われていたのだと思う。ぼくらは韓国の人々に会えたつもりでいるが、実は会っていないとも言ってよかったのかもしれない。

ハングルのキムさんとはそういう意味だ。

30分ほど乗って、四面(ソミョン)で降りる。地下街は人でごった返している。昨日の慶州はどこに行っても人が少なかったので、釜山に来て初めてたくさんの人を見た気分。ここはロッテデパートの釜山本店が角にあって、地下街は待ち合わせの広場になっている。そこで由緒正しい場所の由緒正しいロッテリアで食事。三越のような重いドアのところで、小さな女の子と若い女性がいて、ドアを開けてあげたりしたが、見ていると、何度も出たり入ったりしていて、これは子供の相手をしているメイドさんだったかもしれない。中国からの朝鮮族が韓国にはたくさん仕事に来ているとのこと。

しばらく外を歩く。デパートの横の道は屋台が軒を並べている。やはり暑さは半端じゃなく、もう一度、デパートに戻る。1階の休憩所のようになっているエレベーター前のスペースに腰掛けてしばし休む。少し頭痛。すっかり疲れて、座ったまましばし居眠り。ときどき目をあける。明るい緑の迷彩服の若い兵士と恋人が手をつないで歩いてきたのを覚えている。しかし、それ以上は覚えていない。ロッテデパートで居眠りをしたことだけは妙に生々しく覚えているのが不思議だ。
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慶州(キョンジュ)行 その3:グラナトゥムまで

2008-07-20 21:17:47 | Busan finally
午後も2時を過ぎてようやく昼食。太陽の下から慶州郊外に立つ茅葺きレストランの個室に逃げ込んでほっと息をつく。みんなかなり疲れて、博物館と古墳公園と、それから人間国宝のおばあさんの家、というのがガイドの金さんの計画だったが、博物館か古墳公園かどちらかにしようと話していたのに、金さんには「頑張りましょう」と励まされてしまった。

とりあえず涼しい博物館に行く。新羅時代の鐘(これは洗練の極地で、しかも哀しくも怖い逸話が残っている)、古代からの慶州、新羅時代までの遺物の展示。古墳から発掘された金の装身具や王冠。そして、古墳公園。芝生で青々としたお饅頭型の古墳がいくつも残っているところ。

さて、そこからもう一路、釜山かと思ったら、金さんが「まあ、車から出なくてもいいから人間国宝のおばあさんの家に行ってみましょう」と言う。何でも新羅時代から王に献上していたお酒をその時代と同じ作り方で造っているという。その住居は韓国で一番古い300年まえの家だとのこと。小さな川にかかる橋の手前を左に曲がってすこしゆくと韓国風の料亭があり、その横に「酒」の看板が見えた。金さんは「あ、おばあさんが縁側に出ていますよ。これはめずらしい。なかなか会えないんです。10回に1回、会えるくらいなんですよ。車を出なくてもいいですが、どうですか、ちょっと会いに行きませんか」という。

では、ということで、木造の門をくぐって蓮やオレンジ色の名前の知らない花(凌霄花ノウゼンカズラか)が咲く庭に入ると、すぐ奥の家の縁側に涼しそうな服を着たおばあさんがいて、思わず会釈をしてしまった。おばあさんの家は、隣の親戚の家とともにこのあたりの名家であり、長者の家であったそうで、そこでおばあさんは酒作りをしていたのだそうだ。92歳だと言うのに、まだまだカクシャクとしていて、にこにこ笑っている。そしておばあさんはその世代の厳粛にも当然のこととして日本語が出来るのだ。「私はまだまだ18歳だよ」などと何のこだわりもなく笑っている。ぼくらは確かに楽園でおばあさんに会っていたのだ。

ふと左手を見ると、柘榴の実が成っていた。

柘榴は、Punica granatumと言って、ぼくにとってはスペインのグラナダのことを思い出す。暑くてほこりっぽい7月のグラナダの道。あそこにもアルハンブラ宮殿が洗練さのままにあった。そして谷をまたいだ反対側にはロマのすみかと言われる横穴の住居がいくつも見えていた...円熟の美、子孫の守護というのが花言葉だが、グラナダも新羅も滅びはしたが、柘榴は権力や暴力以外のやり方で見えない心のあり方を守ってくれているのかもしれない。

夕暮れが終わった。ガイドの金さんはおもてなしの目標をすべて達成して、よれよれのぼくらを乗せ、上機嫌で釜山へとマイクロバスを走らせたのだ。
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慶州(キョンジュ)行 その2:キドウとアイス

2008-07-19 00:25:44 | Busan finally
慶州は韓国・新羅の古都。古都と言っても京都ではなく奈良の、明日香村のあたりだろうか、のどかな山並みの中に遺跡が点在している。盆地のせいか、港町の釜山よりも暑い。

司馬遼太郎はその「街道を行く」シリーズで慶州を訪れている。70年代初頭のことだ。しかし、彼は仏国寺にも石窟庵の石仏にも触れずに、仏国寺の松林の中で農民達が歌垣のような歌を歌いながら踊る姿を熱心に描いて、日本ではとうに忘れてしまった民俗が新羅の古都に残っていることに感心している。しかし、宮本常一の著作を紐解けば、つい60, 70年前の戦前の日本の農村にはまだ同様のものが残っていたことがわかるから、司馬のように日本では8世紀以降忘れられてしまったとは言えない。

森林浴の山道を歩いて、石窟庵。石仏は東の海に顔を向けて日本から新羅を守るために鎮座している。石仏については何も分からないけど、横に座っていた庵のおばあさんが「キドウxxxx」と見に来た人々に話しかけていた。看板を見ると漢字で「祈祷」とある。「祈祷」とはお祈りのことで、1年間分ならその間、お祈りの札を保管してくれるらしい。漢字をベースにした言葉はけっこう日本語とも共通なのだ。

仏国寺へ。午後1時を過ぎて暑さも最高潮。ターコイズと朱を基調にしたお寺の美しさ。もともとの寺は秀吉が燃やしてしまったもの。あの時代、比叡山も燃やされている。彼らは仏教寺院は宗教建築というより、敵の本陣としか見ていなかった。韓国では日本人が悪いことをした事跡が少なくないが、どの時代の日本人かをいちいち確かめておかなければならない。

観音像を祭るお堂でおいしそうにアイスクリームを食べるお寺のおばさん。とても涼しそうな顔をして、何と2本も食べてしまった。写真を取ってもいいかと聞くと、アンドゥエヨと断られてしまった。仏像を写してはいけないから、だって。そして相変わらず悠々とアイスを食べている。

慶州行きは続く。

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慶州(キョンジュ)行 その1:桜の話

2008-07-17 23:33:01 | Busan finally
学生に予約してもらったマイクロバス、ガイド兼運転手の金さんに乗せてもらい、世界遺産の土地、慶州に出かけることにした。車で1時間半ほどのところ。車は北へ、そして東へと高速を走っていく。途中のウルサンあたりは半導体メーカーなどのIT産業の土地。山がうねうねと続いて途切れることがない。韓国は、日本と同じように国土の多くが山で占められているとのこと。

やがて、その山間から慶州盆地の平らかな土地が次第にひらきはじめる。同時に青々とした水田が暑気の中に涼しげに見えてくる。

ガイドの金さんは道の並木を指さしながらこれはみんな桜ですよ。このへんは桜で有名で、春は素晴らしいのですとのどかに口を開いた。戦争が終わったとき、韓国人は桜は日本の象徴だと嫌って、片っ端から切っていったんですよ。ところがあるとき、ある学者が侵略した日本の象徴と言っても、桜がきれいなことにはかわりがないじゃないか。そもそもこの国にも桜があったのだからと語り、それから桜をもう一度植えはじめたのです、と言った。そして、他には何も言わず、春はみんなお花見をしますよ、それは素晴らしいんですよ、と繰り返した。

韓国で桜の話をするのは難しい。しかも私はどちらかと言うと桜が苦手だ。金さんの桜の話は、日本人をガイドして回る彼が、100の嫌悪を語るかわりに1の好感を述べたに過ぎないかも知れない。しかしその1の好感を述べるだけでも、100の嫌悪は伝わるのだし、しかもそれを感じさせながらも、1の好感に感動させてしまう。

ガイドの金さんはなかなか食えない。これをぼくは誉め言葉として言っているのです。
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ヘウンデ・ビーチ

2008-07-16 23:02:53 | Busan finally
宿泊したユースホステルから、学会御用達のホテルまではタクシーでかれこれ15分ぐらい。そこで事前登録の手続きをした後、ビーチまで降りてみることにしました。

さすが韓国有数のビーチです。砂浜はゆるやかに弧を描いていて、そこにホテルが建ち並んでいます。右に行くとしだいに岩が盛り上がっていって、そこに瀟洒なレストランやマンションが見えます。7月初旬から海水浴客が集まるそうで、100万人がごったがえすそうです。釜山国際映画祭のレッドカーペットもこの海辺に敷かれるとか。でも、その一方で、夏は海が汚れるわ、水着姿が街中まで溢れるわで、まあ、喧噪もまたビーチにはつきものということでしょうか。

ビーチに立つと、急に雲が晴れて、夕方の輝きを失う直前の空が拡がり出しました。上弦の白い月が姿を現し、海の上に浮かんでいます。それまで蒸し暑いだけだった空気が急に変わって、涼しい乾いた風が体を冷やしていきます。

ほっとする瞬間です。

余裕が出来ると、人は過去を思い返すのでしょうか。しかし青春はあまりにも遠すぎる。そこで私はこれからご馳走になる韓式定食の近未来に思いを馳せることにしたのでした。
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