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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

教養科目も今日で終了

2009-01-26 23:48:06 | Weblog
新しい教養科目が今日で終了。

扱ったトピックは、言語サービス、挨拶、マニュアル言葉、広告、携帯メール、(会話分析)という今流行というか表層の現象。だから知識を伝えることもあまり意味がないので、かなり出たとこ勝負というか、素材を持ってきて教室で検討するという感じだった。おまけにこちらで1時間すると、次週は学生が数人そのテーマで調べてきたことを発表して、ディスカッションという作業を繰り返した。結論もなく、深さも、体系もない、そんなふうにして終了。

最後なので、いろいろな学部から集まってきた日本人学生や留学生に授業の感想を聞くことにする。最初の授業のときに、この授業では発表したりディスカッションをしたりするからのんびりしたい人はやめたほうがいいよと伝えて、ざーっと消えていった後に残った学生たちだったからか、上のようなやり方は気に入ってくれたようだ。ポーランドからの学生は日本に来て教師がずーっと話すばかりで学生に話させてくれない授業ばかりだったけれど、ポーランドでは先生は少しだけ話をして、あとはディスカッションになる。大切なことは自分で考えることと言って、ディスカッションがたくさん起きる授業は日本で初めてだったとリップ・サービスをしてくれた。

そうだなあ、自分で考えること、自分で感じること以外、大切なことはないんだけど、自分でも日常的に触れている言語現象に向かおうとすると、いかに自分で考えることが難しいかがわかる。しかし、いくら稚拙でもそうやってしかほんとうは進めない。

あ、これは哲学者森有正の炯眼だったかもしれない...
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銀座の夜の科研グループ打ち上げ

2009-01-24 23:30:01 | research
金曜日はゼミのあと、銀座のキハチ本店で授業コーパス科研の打ち上げ。1日だけ寒気がゆるむ。

9月末に報告書が完成してから、なかなか全員で集まる日がなかったが、ようやく打ち上げとなる。新年感謝コースで金目鯛やパイ包みのシチューや3種類のデザートなどおいしい料理をゆっくりいただくという贅沢な時間だった。

5年近くの時間が流れて、科研代表としてはデータ整理に追われてしまい力のなさを恥じ入るばかりだが、グループの方々はそれぞれ新しい仕事や研究を開拓している。

これまでは環境を変えて自分を更新してきたけれど、そろそろウィトゲンシュタインの真似でもしなければならないのかもしれない。彼は、教え子には大学に残らないで職につくように言うのが常だった。大学にいたら窒息してしまうというのがその理由だ。そして、彼自身は、自分で酸素を作り出しているから窒息しないと言ったという。酸素の作り方を練習しよう。

10時にレストランを出るが、銀座の小径はまだまだ人でいっぱいだった。われわれもそうだけど、ジョブレスの話はいったいどこにいったのだ?と思う次第。
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クルム伊達公子、あるいは接触場面の対し方

2009-01-20 23:30:51 | today's seminar
今日でちょっと早めに大学院講義を終了。

ぎりぎりまで講義内容を考えていたのに、最後の瞬間に、講義より学生達の感想を聞こうと思い直して、1時間、感想をみんなに話してもらった。今学期は11人いて、日本人が1人、中国人留学生が10人という恐ろしいことになっていたけれど、各人各様、それなりに受けとってくれるものはあったようだ。残りの時間、しばし接触場面の分類と接触性の話をファン(2006)を使って話そうとしたけれど、なにせ時間がなく、ただ叫んだだけに終わったのは少し心残り。思い切って講義をやめたほうがよかった。

ファン(2006)では、相手言語接触場面の言語ホストと言語ゲストによる管理という、かならず誤解される言語管理の類型が紹介されたあと、第3者言語接触場面、共通言語接触場面の言語管理の類型もあるはずだと予言している。実際の研究のほうは、そのような接触場面の類型ごとの管理を明らかにするのではなく、多言語使用者が対面する相手によってその場面を異なる接触場面としてとらえようとする管理が働いていることを見ているところだ。つまり、中国朝鮮族のコードスイッチングでは、韓国人とは共通言語接触場面になる可能性を避けて第3者言語接触場面を作り出したり(つまり、韓国語・朝鮮語を使わず、日本語を使う)、第3者言語接触場面が可能になるのに相手言語接触場面しか作り出そうとしない中国漢民族に対して否定的な評価をしたりする(つまり中国語しか使わない)、といったように。こうした研究の方向が正しいかどうかはこれからよく考えなければならない気がする。

ところで昨日はクルム伊達公子がオーストラリア・オープンの本戦で3時間の熱戦の末敗れた。伊達公子はぼくがメルボルンにいた頃、コートをうつむいて悔しそうな顔で歩く姿をテレビで見て、こんな日本人選手がいるんだなあと思った頃からのファンだ。昨日、ちらとテレビに映った試合の様子に歯を食いしばって闘っている姿があって、ああ伊達公子だと思った。昔、フレンチ・オープンでアランチャ・サンチェスとセミファイナルをたたかったときも、同じように歯を食いしばっていた。パリの友人に「キミコは子供のように疲れたね」と言われた、そんな戦いかただ。彼女の戦い方には素の接触場面があるし、彼女は正面から接触場面で相手と対している...。なんて、まあ、おふざけに聞こえてしまうかな。

接触場面研究もそんな場所から出発すると、ずっと遠くまで、そしてずっと深くまで進めると思うのだが、どうだろう。
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冬の日曜日を歩く

2009-01-11 23:55:01 | Weblog
今週は新年最初の授業がいくつかあって、久しぶりで筋肉痛になる。やはり力が入ってしまった。

連休土曜日はものすごい風が吹いて寒かったが、日曜日は一転して雲一つ無い晴天。

最低気温1度でも風がないと日射しは暖かい。そこで午後から家族で散歩に出かける。まず駅まで行ってそこでスペイン料理のレストランで食事。年末に銀座で寄ったスペイン・レストランに引き続いてスペイン料理だった。スペイン・レストランは壁に闘牛のポスターが貼ってあったり、模様の綺麗なお皿が掛かっていたりするし、ウェイターも白いブラウスと黒いチョッキなどきていかにもスペイン風なのが面白い。

しかし、ランチを食べながら、あ、これは中間言語ならぬ中間文化なんだと思い至った。レストランを開くオーナーはスペインにきっと造形があるだろうし、銀座の場合のようにものすごく固い規範を持っていて1つの方式しか認めないような感じの場合もあるけれど、それもこれも、日本人が理解した限りでのスペイン料理でしかない。じつは日本社会にはいたるところに中間文化が花開いている。1つの外国文化を極めようとして極めきれない場合もあるし、自分なりにアレンジして勝手に作ってしまった場合もあるわけだ。

そう言えば、金曜日に学生と相談をしているときに、外国人居住者のネットワークを考えていた。そのとき、同じ出身国同士のネットワークと、日本人とのネットワークという2つのはっきりと異なる世界があるわけではないということを話していた。接触場面と母語場面、母語話者と非母語話者といった二項対立はわかりやすいけれど本当ではない。

外国人居住者も、同じ時期に日本にやってきた同国人のネットワークと最近日本に住むようになった同国人のネットワークとでは関係が異なるし、日本人と言っても、共有する知識や経験のある日本人(たとえばその国の俳優のことをよく知っているとか)から共有するもののほとんどない日本人まで、やはりちがった付き合いがそこには見られる。共有できるレパートリーが最大から最小へと連続していく中にネットワークが作られていくわけだ。こうしたネットワークのあり方もある種の中間性を示しているのではないか?

電車に乗って2駅行き、そこからバスに乗って海岸沿いへ。花の美術館。そこからマンションまでおよそ3キロの海岸通りを歩いて帰ってくる。花の美術館を出たのが4時、太陽も傾いていく。途中から防風林を横切って海岸に出てみる。

海は凪いで、そこに黄金色の太陽の帯が反射している。ラジコンのヒコーキを飛ばしている人が、二人、三人。両翼1メートルもあるグライダー型のヒコーキの翼をもってぐいっと勢いをつけるとヒコーキは空に舞い上がっていくが、あとは空気の流れにのって静かに空を飛び続けるのだ。

かれらのヒコーキを感心して眺めながら歩いていくと、大きな扇風機みたいなものを背負ったおじさんを見つける。そのうち、手助けの人が後ろからパラグライダー用のふかふかした翼(キャノビーと言うらしい)を持ち上げたので、どうもこのおじさんは空を飛ぼうとしているのかなと思いはじめた。でもあんな扇風機で飛べるのか?

ところが扇風機のエンジンを吹かしてゆっくり海に向かって歩いていくと、驚いたことに体が浮き出したのだ。そして少しずつ空に昇りはじめ。10メートル以上も浮かんで快適そうに、われわれの頭の上をいったりきたりしたあと、エンジンを切って自然滑走に切り替え、みごとに波打ち際にランディングした。おもわず拍手。マンションまでかえりながら「いいもの見せてもらったね」と感心しきり。何がよかったかって、1人の力でエンジンと風を操って空を飛ぶなんて、考えられますか?すごい独創ですよ。研究もこう行きたいもの。

ぼくにとっては今年初めての啓示のようなものだったのかもしれない。
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新年の挨拶

2009-01-07 23:39:26 | Weblog
2009年を迎えました。未曾有の時代なのかもしれず、新しい海に出るのは古い水夫じゃないだろうというのも確かに正しいという気がします。今年は心機一転、少し長めのスパンで研究のほうも進めていこうと思いますので、よろしくお願いします。毎年、年賀状に載せることばを探すのが習慣になっていますが、今年はまさにそんな気持で、次のような悟空の言葉でした。

「なんの、まだまだ。魔多くして道遠しってことさ。まだ、やっとこさ半分なんだ。」(中野美代子訳『西遊記』6)

写真は旭山動物園のフクロウ。ブログのタイトルとの縁で1枚パチリ。よく見ないと雪と見分けがつかないくらい真っ白です!


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