フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

最後の晩餐

2005-12-04 23:41:08 | visiting hunan uni
赤土の中に稲の藁を燃やす火が鮮やかな農村の道を疾駆して長沙に向かいます。ようやくわかったのですが、中国ではひっきりなしにクラクションを鳴らすのですが、これは「どけどけ!」という合図ではなく、基本的には「追い越しますよ」という合図なのですね。

さて、戻ってきたときにはすでに夜の7時、あたりはもう真っ暗です。長沙市街の有名な老舗レストランで、今回の湖南訪問でお世話になった大学の国際交流課と副学長との晩餐に赴きました。国際交流課からは湖南随一のお酒が振る舞われました。しかし、最初の挨拶の握手はにこやかな顔とは対照的に弱々しく手短かだったのです。じつは副学長と国際交流課の人たちは昨年、私の大学を訪問してがっかりして帰ってきたという話でした。私も少し頑張る覚悟を決めました。

そこからは交際術の雨あられ。日本語科の先生が通訳してくれて、ほとんど自由に私は話していました。お酒の繰り返される乾杯。こちらもいざとなれば何とか杯を乾かすしかないじゃないですか。杯を乾かした後はかならず優雅に円を描くように杯をまわして相手に杯の空になった底を見せます。湖南大学との次の20年のために努力しましょうと最後は固い握手と破顔で散会となったのでした。「あなたはいつでも来て下さい。いつでも」

一緒にいった先生の話では、私は副学長にお酒では勝ったということだそうです。副学長も国際交流課の人々もじつにユーモアのわかる、楽しい方々でした。ですからくだけた話、裏話、真面目な国際交流の話、じつに縦横無尽に会話が展開するのです。言葉の祝宴が楽しく続けられた画期的な夜でした。

ちなみに、翌朝、国際交流課からのお土産が渡されたのですが、何とというかやっぱりというか、それは乾杯を重ねたあのお酒でした(笑)。

おわりに
こうして短いながらも充実した湖南訪問が終了しました。

遠足の車の中で、私は80年代はじめに見たNHKドキュメンタリーの話をしました。それは開放政策が始まったばかりの中国の取材番組でしたが、その中で青年が<中国はこれから現代化を成し遂げていきます。私の時代が無理でも50年後にはそうなっていると思います>と言った言葉を覚えていました。「しかし、じつは20年そこそこで実現しましたね」と私が言うと、先生たちも嬉しそうに「そうですよねえ」と答えてくれました。その結果としての大いなる多様性あるいはバラエティ(湖南の先生も中国にはアフリカからアメリカまであるのですと言っていました)も現実として、あるいは問題として見えているわけですが。

湖南大の先生、学生さんの熱烈歓迎はとてもお返しなど出来ないと思うほどの熱烈さでした。3日間つきっきりで接待をしてくださった皆さんにほんとうに感謝します。
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劉少奇を想う

2005-12-04 23:34:47 | visiting hunan uni
その後、また30分余り走ったところに、元国家主席劉少奇の故居があります。こちらは開けた土地のあいだに低い丘がところどころに見られますが、そうした丘のやはりふもと、大きな溜池のような丸い池の畔に建っています。

毛沢東故居よりずっと部屋数も多く、塀もありますが、やはり家畜小屋も一緒で、脱穀機や麦や稲をたたく3連の石の槌が取り付けられていたりします。劉少奇は小地主の息子であったのです。毛沢東の故居もそうでしたが、劉少奇の家の暗い部屋を見て歩きながら窓にはガラスはもちろん紙も貼っていないので冬はどうしていたのかと不思議に思いました。冬は湿気が多く、5,6度まで下がるのだそうです。夜は板戸を立てるのですが、昼間は湿気を逃がすために風が通るままにしていたとのこと。

故居から少し丘を登ると、そこには博物館が建ち、中国の旗が風になびく、いかにも政府肝いりの施設が見えてきます。中には劉少奇の一生と活動が写真や年譜、農村調査のときに使った長靴、モスクワ留学時の革トランクなどが展示されています。現在、劉少奇は?小平を経由して現在の中国政府の方針のおおもとに位置づけられているようです。

しかし、劉少奇の写真を見ると、どの写真も穏やかな優しい顔をしています。国家主席となっても権力者の顔に変わっていないことがとても不思議です。私たちの車の運転手(大学専属)は、精悍で野性味たっぷりの人ですが、彼のことを「完璧な人」と呼んでいます。

一緒に歩いてくれた先生が2度も話してくれたのはこんな話です。文化大革命で失脚した劉少奇は開封で死去し灰となったのですが、死んだ老人が劉少奇だとは誰も知らなかったのです。しかし、弔った開封の役人が誰も灰を引き取りにこないことを不審に思い、重要人物なのかもしれないと、その遺灰を隠して保管していたそうです。80年の名誉回復の後、ようやくそれが劉少奇の遺灰であることがわかったわけです。遺灰は劉少奇夫人によって海に撒かれました。

文革の話はさておき、湖南省からは革命家が輩出しています。この言うなれば中国の中では当時貧しい田舎でしかなかった湖南になぜ毛沢東や劉少奇が出てきたのか?ある人はそれを岳麓書院の学風から説明したり、直情型と言われる湖南人の気質などに帰したりする場合もあるようです。しかし、竹内実編集による『中国はどこに行くのかー毛沢東初期詞文集』(岩波現代文庫)などを読むと、清から中華民国へと至る軍閥割拠の時代に湖南省は南と北の有力勢力がせめぎ合う戦場であり、略奪の土地だったことがわかります。中国近代史の矛盾が湖南省に集中して現れていたとも言えるようです。
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毛沢東故居

2005-12-04 23:32:25 | visiting hunan uni
朝、目を覚まして魔法瓶のお湯を飲みます。もう1日経っているのにまだ十分に熱いのはどんな魔法でしょう?

さて、2日間の授業見学と講演が終わって、翌2日は遠足となりました。
最初は洞庭湖湖畔の町、岳陽を考えていたのですが、この時季は水位が低くてあまり観光には適さないだろうということで、長沙から40キロほどの毛沢東の生まれ故郷韶山を訪ねることになったのです。

長沙を過ぎて20分もすると、もうそこは農村地帯です。このあたりは稲作が盛んで二毛作が可能なのだそうです。すでに稲刈りが終わり、稲を乾燥させる作業が行われています。時々、街道沿いに商店街のように軒を並べていますが、そこでも乾燥作業が見られるので農業従事者も住んでいることがわかります。

もやの中にかすむ遠くの山並みを見ながら、さして広くもない街道を車は疾走していきます。街道の両脇には途切れることなく街路樹が植えられて涼しげです。

1時間余りで韶山に着きました。韶山の山懐から下ってきた丘と丘の間に畑が作られ、その畑の下の丸い池の畔に毛沢東の故居があります。となりには同じ黄土色の土壁で出来た当時の小学校も残っています。生家は真ん中に玄関と土間があり、そこから右と左に母屋が延びるかたちの小さな農家です。向かって左側だけが毛沢東家族の住むところで、中にはいるといくつかの部屋があり、長男だった毛沢東には個室が与えられていました。中庭の向こう側には農具などを入れておく納屋と家畜の部屋が同じ屋根の下にあり、まさに自分たちで生きていけるだけの資産をもつ小農家だったことがわかります。

故居の地形的な配置を見ると、適度に狭く視野が限られ、近くの池や丘に抱かれるように家が建っていて、遠くには高い山が見える、というじつに理想郷的な美しさがあります。この場所が毛沢東にとってどのように目に映り、後半生にどのように影響を与えていたかのかは興味ある問題ですね。毛沢東にとって外に飛び出す誘因は遠くに望む高い山だったでしょうか。彼が作り出そうと夢見た共産とは山々に囲まれた小さな村の独立だったでしょうか、...。

家の裏には竹林から丘となっていて、その山道にはみやげものを売る屋台が何軒か並んでいます。狭いトンネルをくぐり丘の反対側に出て、少し歩いたところには金色の巨大な毛沢東像が建っている記念公園が見えてきます。じつはこのあたりはほとんどの家が毛という名字を持っています。そして記念公園の向かい側には毛一族の祠が祭られています。祠と言っても、お寺のような建物で、ここに移った当時の先祖の墓が祭壇にありますが、それだけでなく、お祭りなどで京劇をするための舞台や、夜間学校として使われた教室もあるのです。つまり、この祠は村のセンターだったわけです。夜間学校の壁には岳麓書院に書かれてあった廉の字や孝の字が同じ字体で書かれていましたが、毛沢東の最初の奥さんはこの夜間学校で学んだ最初の女子だったそうです。

さらに足を延ばして、風光明媚な滴水洞に作られた共産党幹部の会議施設(じつは毛沢東の別荘)も見て歩きました。

このあたりを歩くと、さまざまな毛沢東伝説が聞こえてきます。毛沢東はひげの生えない女性の肌を持つ特別な人であった。40歳のときにあごにいぼができて、そこから天命の仕事に邁進した。記念公園の銅像の除幕式のときには、秋だというのに春のツツジが一斉に咲き誇り、太陽と月が一緒に昇ってきた(毛家のお堂の売店で「証拠」のビデオが流されていました)。リレハンメル・オリンピックでは、直前に滴水洞に参って毛沢東のバッジを買った射撃の選手が、目が見えないほど視力が弱っていたのに見事優勝した。中国発の有人飛行を成功させた宇宙飛行士もやはりその前に適水洞を訪れていた、...。

人々の毛沢東を愛する気持ちがよくわかる伝説です。いっしょに回ってくれた先生たちはじつは私と年齢がほとんど同じです。お二人は小学生のときに紅小兵として毛沢東語録の小さな手帳を胸ポケットに入れて活動していたそうで、あのころはみな誰に対しても親切でよかったんですよと懐かしみます。

多くの古代中国の武人や王が神様として祭られたように、毛沢東もまた神格化の途上にあるように思います。

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閑話休題

2005-11-25 00:07:00 | visiting hunan uni
岳麓書院を出たときにはとうに5時になっていたのです。じつは5時から教員、大学院生のための講演を1つすることになっていました。急いで道を渡って向こうの日本語学部が入っている建物に行きたかったのですが、そこは中国。中国の交通事情についてはいろんなところで書かれていますから、ここでは繰り返さないことにします。とにかく赤信号もなんのその、ひっきりなしに車が来るので、いつ渡るかが問題なのです。そこで先生のアドバイスは、まずは真ん中まで渡る、そこからまた隙を見つけて残り半分を渡りきる、というものでした。

車のマナーの話というのは、まあ世界中どこでも驚くところはたくさんあるわけで、日本だったらやはり大阪でしょう。私も大阪に住んでいたわけですが、あそこのルールは意外に人間的で、信号よりは相手ドライバーの目をみて、相手が先に曲がるつもりかどうか判断すればいいわけです。お互いに目でものを言うので、結構、簡単なのです。そこへ行くとイタリアの街中はもうほとんど中国なわけで、一歩踏み出したほうが勝ち、と言った感じ。最後の夜、街中で夜遅くまで遊んでいる人々の群れをみながら、あちらの先生が「中国人はラテン系なんですよ」と言ったのですが、車のマナーを見てもそれは頷ける気がします。

講演は1時間遅れでしかも集中力が保てず混乱気味でしたが、そのあと、自由科目の200人の学生を相手にR先生が奮闘されていたマルチメディアを使った日本語授業、そして夜の戸外で行われている日本語を自由に話そうという集まりはとても面白かったと思います。とくに集まりのほうは、オレンジ色の明かりに照らされた石の壇上に学生たちがつどって、教室とはちがう雰囲気で日本語を試してみる姿はとても新鮮でした。
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岳麓書院探訪

2005-11-23 00:51:20 | visiting hunan uni
翌日は11月。朝から午前中いっぱい授業を見せて頂き(日本人の先生の中級の授業も見学させてもらいましたが、よく学生を掌握している良い授業でした)、それから日本語学部が入っている外国語学院(日本の大学で言う学部)の学院長や英語学の先生方との昼食会に英語で臨みました。それから先生たちに連れられて、湖南大学の中に立つ岳麓書院を訪ねました。

ここは朱子学の祖、朱熹(日本では朱子)が教鞭を取った世界最古の大学施設だそうです。1976年で創立1000年となったということで、その後に江沢民が「千年学府」と名付け、門のところのそんな看板が掲げられています。当時、朱熹ともう一人の教師が演壇の椅子に並んですわって教えたということで、椅子が二脚置かれていました。その先生二人の話を生徒たちは中庭の石の上に座って聞いていたのです。教師2名によるダイアローグが思索の基本となっていたことは面白いですね。千葉大の日本語教育学ゼミも、ネウストプニー先生がいらっしゃった時から伝統で2名の先生が入ってやっています。学生の立場からはわかりませんが、私には新しい視点が生まれることが多々あり、とても貴重な時間だと思っています。

朱熹が書いたものかわかりませんが、建物の柱には学問を励ます言葉が掲示されています。1つには、学問は十分に議論をしたあと、一人で山に登り、清浄な大気の中で内省することにより深まる、といった言葉がありました。何という励ましの言葉でしょう。朱子学のことも、朱熹のことも、私にはわかりませんが、その教えていた場所を訪ねると、彼がとてもバランスの良い大常識人であり合理的な思考の持ち主だったように思います。

なお、岳麓書院は1000年学府だと言っても、建物まで1000年前のまま残っているわけではありません。戦争のとき、岳麓山に立てこもった中国軍に対して、日本軍は砲火を浴びせ、1日で赤い山肌にしてしまったそうです。岳麓書院もそのときすべて消失しています。

門を出る前に古代楽器による演奏の部屋に入り、銅鐸、笛などの音楽を聞かせてもらいました。最後には「北国の春」まで演奏してくれたものでした。
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接触場面を語る

2005-11-20 00:03:30 | visiting hunan uni
10月31日のお昼は日本語科に関わる先生方との食事となり、湘江の向こう側に広がる中心街のホテルに行きました。日本人の先生も3名、M先生を始めたくさんの湖南大の先生などテーブルが2つありました。

私の隣の席には湖南大を引退して近くの大学にいらっしゃるという周先生です。周先生は、話を聞いていると、じつは湖南だけでなく中国の日本語教育を築いた第一人者であることがわかりました。先生は文化大革命の前から北京大学で日本語を学ぶこととなり(それも小さい頃から周囲に日本人がいたのだそうです)、文化大革命がまだ終わっていない1970年代前半に日本語の教科書を出版するなど、多くの業績をお持ちなのです。ちょっと驚いたのですが、まあいろいろ聞いておこうと上のような話を聞いていました。先生は今も漢字を共有する中国人だからもっと中国人に即した日本語教育方法があるのではないかと話されていました。そう、これは考えても良い事柄だと思います。

その後、出てきたすっぽん鍋料理をすすめられたので、どの部分をたべるべきかと聞いたところ、箸で取ってくれたのは脚でした。先にはちゃんと爪がのぞいています。私はこれまで基本的に内臓系や皮系などに関心を持つことなくミート(しかも脂肪もだめ)だけを食べる人でしたが、中国の日本語教育の第一人者のおすすめですから、これは食べなければと覚悟を決めました。どこが賞味すべき所かというと脚の皮と肉の間の半透明なジェラチン状の部分なのですね。美味というよりは栄養があるということなのかな。とにかく爪の手前までは食べたのでした。

午後はM先生とそれから学生さんのR君とで湖南省博物館に眠る貴婦人を見学しました。R君はそこのボランティアの説明員の資格を持つ人で、英語も堪能で、ほんとうによく説明をしてくれました。夕方、3人で餃子を食べ、それから湖南大に戻って7時から講演会に臨みます。

演台のうえには赤い横断幕が張られて、「熱烈歓迎 千葉大学○○教授」とあります。「熱烈歓迎」というのは私はそれまで単に慣用句であって、それほど熱烈でなくてもこういう言い方をするのだろうと思っていたのです。しかし、湖南の3日で考えを変えざるを得なくなりました。たぶん、型どおりの熱烈歓迎もあるのでしょうが、お客さんに対しては基本的に中国では本当に「熱烈」なのです。気持ちはとても熱いし、その熱さはきっと熱烈歓迎予算として具体化されているのだろうとも思います。

とにかくそこで「接触場面と日本語教育」という題目にして、いつも千葉大学でやっている授業の一部をお話ししたのでした。もしかしたらこのときが少なくとも湖南で「接触場面」という言葉が伝えられた初めての時だったかもしれません。
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1年生のコーラスの美しさ

2005-11-15 00:32:32 | visiting hunan uni
さて、10月31日は月曜日で、湖南大学では朝から授業があります。じつは授業時間は夜の9時過ぎまであるそうです。日本語の授業も通常の科目と同じく45分が2つで1セットとなっていて、間に10分の休憩を入れていきます。じつは前もってお願いして授業見学と授業録画をさせていただくことになっていました。ところが持って行った古いビデオカメラのバッテリーがまったく充電できない故障品だったようでこの日は1つも録画できませんでした。

一番録画したかった授業は最初に見せて頂いたM先生の初級クラスでした。M先生は9月まで千葉大に留学されていたので、私もよく知っている方です。生徒は女子がほとんどでだいたい25名ほど。天井の高い教室で、講義用に固定した机と備え付けの倒して使う椅子が教卓に向いてついています。M先生はてきぱきとまだ日本語を始めて2ヶ月の生徒たちを教えていきます。復習事項の確認、文法の説明、中国語から日本語への翻訳、日本語から中国語への翻訳、自由な文の作成、などじつに気持ちのよいテンポで進めていきました。しかし、何よりも感動したのは、新出語彙を先生が2回言い、そのあとに生徒たちがコーラスで繰り返したときでした。テンポの良い授業はきっとクラスに一体感をつくっていたのでしょう、コーラスは一糸乱れず、高い天井に響きます。1年生の日本語の学習をいきいきと、希望にあふれて、熱意をもってやっている気持ちが胸に伝わってくるような美しさだったのです。じつは一緒に参観していた主任の先生も「涙が出そうでした」と同じ感想を抱いていたのでした。

私はよく思うのですが、教える内容についてはいろいろ大切なことがあります。しかし、教え方については、いろいろな教授法や理論がありますけど、どんな教え方でもクラスが1つになったように楽しく、学生たちの頭の中で日本語が気持ちよく回転するような授業ならそれでよいのではないでしょうか?授業は1つ1つ、先生も学生も内容も場所も違うのですし、クラスの数だけちがう授業があるのだと思うのです。

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香港人と湖南人の違い

2005-11-08 15:12:52 | visiting hunan uni
10月30日の夕方、と言ってももうすっかり暗くなっていましたが、無事、湖南の長沙空港に到着しました。出迎えに来て下さったのは日本語の主任の先生と、9月まで千葉大に来ていたG君です。大学の国際交流課が手配してくれた車に乗って30分ほど走ると、市内に入り、そのうち、大きな石に「湖南大学」と書かれたものを指されて、「ここから湖南大学です」と教えてくれました。なんと湖南大学にははっきりとしたキャンパスという敷地がなく、あたり一帯がすべて湖南大学の敷地になっているのです。ですからバスも普通の車も自由に走り回ることができるわけで、さながら湖南大学という名前の町があるような感じでした。

とりあえず外国人教師用の宿舎に荷物をおき(大学の中にある三つ星のホテルは全国会議のためにふさがって泊まれませんでした)、軽く食事をしようということになりました。

大学の先生が経営をしているという若者向けのレストランに入って、腰を落ち着けると、先生が「さて、飲み物は?」と言います。ここが考えどころと私が頭を巡らしたのは香港の規範です。香港の人はほとんどアルコールをのまず、お茶を頼むことがふつうなので、「じゃお茶を頼みましょうか」と言ったわけです。一瞬間があいたのですが、じゃ何がいいですか、菊茶がいいかですかね、と話は進んでいきます。

やれやれよかったと思って、お茶を飲みながら食事をつついていると、先生が「でもビールくらいは...」とおっしゃいます。こちらもすかさず「そうですね、じゃビール頼みましょう」。そこでドイツの技術協力が入っているという地元のビールで乾杯!

それから、一口二口と飲んだ後、先生はさらに「でもビールは薄いですね~」。やっと私にも湖南は香港とは違うぞと悟った次第。

湖南ではアルコールはどうやら食事に欠かせないものらしい...後で書くように最後の日の食事では蒸留酒の派手な乾杯合戦が副学長との間で繰り広げられたのでした。

写真は、宿泊していた外国人教師寮からの湖南大学。早朝です。写真の日付が1日ずれています。
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日本人と見られない?

2005-11-08 07:34:00 | visiting hunan uni
さて、10月30日から11月3日まで大学協定を結んでいる中国の湖南大学を訪問してきました。応募していた学長裁量経費もいただいて、かなり仕事の気分ではありましたが、湖南大学の日本語関係の先生方や学生さんたちに「熱烈歓迎」され、充実した訪問となりました。

今回、ほとんど初めての中国行きでしたが、久しぶりに中国人から一貫して自分が日本人として認知してもらえないことを再経験してきました。

まず北京空港のトランジットで飛行機を待っていると、となりの女の人が北京語で話しかけてきます。私がえーっという顔をしてI don't speak Chineseと言いますと、英語に切り替えて「あそう、どこから来ましたか」と聞いてきます。そこで「日本です」と答えましたが、しかしその人はさらに「お国はどちらですか」と聞くわけです。そこで「だから日本ですよ」と答えると目が大きくなります。「え?日本人に見えませんか?」とこちらが逆に聞くと、「だって背も高いし...」

つぎは仕事がほぼ終わって先生がたに観光につれていってもらったのですが、お店で買い物をしているときはお店の人が「中国語が話せないみたいだけどどこのひとですかね」と先生に聞いたそうです。そこで先生は「新彊から来た人ですよ」と答えたそうです。これはその夜、教えてもらったのですが、やっぱり私は「日本人というよりちょっと外国人っぽいのでそう言ったのです」とのこと。他の先生たちも賛同して、「そうそうわたしもそう思っていたわ」ときます。「先生みたいな日本人に会うのは初めてです」<先生みたいな日本人>っていったいどんな意味なのか、よくわかりませんが。

帰りに乗り継いだ成田行きの飛行機で、隣りに座る若い女の人が英語で荷物を上の載せてくれませんかと頼んできたので、Oh, sure!と手伝ったのですが、やはりそのあと「どこに行きますか」と聞いてきました。そこで「東京ですよ」と言うと、「お国はどちらですか?」。そこで日本人ですよと答えるとまた目が大きくなって信じられないという顔になります。

そんなわけで、オーストラリアにいたときも中国人の人々からは日本人らしくないと言われていましたが、10年以上経ってもやっぱりそう言われるようなのです。
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