フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

日本に国際報道はあるのか?

2007-08-23 23:23:42 | Weblog
メルボルンはだいぶ暖かくなってきました。春の桜やこぶしが咲き始めています。

 今日はちょっと偉そうに分野外のことを。

 メルボルンに来て毎回感心するのは、マスメディアの国際報道とドキュメンタリーです。

 ここのテレビではイラクのニュースが現地で弾丸と爆弾の間を歩き回っているジャーナリストによって、戦いの炎だけでなくイラクの人々の表情まで伝えられています。かと思えば、ブッシュ政権の中枢人物へのインタビューを交えたブッシュのイラク政策の検証番組が組まれます。

 いったい日本に国際報道はあるのでしょうか?ほとんどは支局長のオフィスからの報道でしかないのです。支局長がやっているのは首都のマスメディアと自国の大使館を回るのが常という話をいつかどこかで聞いたことがあります。だから日本の国際報道には借り物の映像以外、「現場」の報道はないのでしょう。そして「現場」のない報道は、当事者の身になることからほど遠い、物見遊山と同様の他人事でしかなくなります。自爆テロも祭りも同じスタンスで報じられるしかないでしょう。日本の報道各社は、いったい何人の人間をこうした「現場」を歩くスタッフとして海外に送り出しているか?人件費のせいにして報道の根幹を忘却しているのかな?

 しかし、こうした根幹の忘却は何も報道の領域だけではないのですね。ちょうど自動車免許が切れていたので延長を申請に役所に行くと、小さな支所でも窓口に20名近くの係が我々を待っていてくれます。だから少し待てば用事は片づくわけです。大切なことは1人1人の生身の人間がやることだとわかっていればこそなのだと思います。そこが忘れられると、すぐに建物と組織だけが残されて、仕事は動いていかない、そんな社会が現れてしまうわけです。
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オーストラリアの日本語教育とは

2007-08-12 23:02:10 | Weblog
メルボルンに来て2回目の日曜日です。

金曜日はモナシュ大の日本語教育研究会に午前中だけでしたが出席しました。
会場は、Japanese Studies Centreで、私が最初にモナシュでもらった研究室がそのセンターにあったので、本当に久しぶりに中に入ることが出来ました。マオアー先生、マリオット先生を始め、懐かしい顔にお会いすることもできました。

研究会ではバーチャル・ネットワーク(メール、チャット)、社会文化アプローチなどの教育研究の発表を聞いてきました。また、ヨーロッパ、アメリカの外国語教育の標準化に対してオーストラリアは何をすべきか、といった話もありました。

ただ、私は私でそれらの研究とは別なことを考えていました。<<英語を母語とするオーストラリア人にとってはじつは外国語を学ぶ必要は実際上はない。グローバリズムの中で英語の力を発揮すればよいのだから。しかし、それでも外国語を学ぶとすれば、その理由づけの第1は、外来のものに対する感受性をつくる多文化主義の一貫として、ということ。そこからオーストラリアの日本語教育の論理は組み立てられていくのが真っ当な方策だろうと思う。そして、第2の理由があるとすれば、それはグローバリズムの中で、異文化に対するディスパワーメントとして外国語を学ぶということがあるかもしれない。それはパワーを持つ側の知恵のようなもの。...ただし、現実にはオーストラリアの大学で学ぶ初中級の日本語学習者のほとんどはアジアからの留学生である。ここでは英語教育と同じように、留学生に対するビジネスとしての日本語教育をせざるをえなくなっていて、だからこそIT技術の利用ということが出てくることになる...。つまり、オーストラリアらしい日本語教育は高校までの日本語教育にあることになる。>>

たぶん、そうですね。このように語学教育はどうしても政治経済的な条件に左右されることがとても多いのですが、翻って、日本の社会にふさわしい日本語教育はどこにあると言うべきなのでしょう。これは少し考える価値のある課題かもしれません。
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小田実の姿

2007-08-04 21:23:29 | Weblog
1日からメルボルンに来ています。着いた日は快晴で穏やかでしたが、翌日からはめまぐるしく変わるこの土地の天気です。日中の気温は15度、体のほうがまだびっくりして納得していません。

少しずつ仕事を開始していますが、疲れると、この夏の一番の楽しみにしているプラトンの岩波文庫を開いたり、成田空港で見つけた小田実の著書『中流の復興』(中公新書)を読みふけったりしています。

小田実は30日になくなりましたが、この本は今年6月の出版です。私がまだモナシュにいた頃、講演に訪れた氏の姿を思い出します。背が低く、猫背の肩に巨大な頭が埋まっている、ちょっとインカ帝国の末裔のような風情の人でした。目がやぶにらみというか、すべての嘘を見抜かずには置かない怖さがありました。

この本の中で市民グループと作った教育宣言があって、その中に「人間は競争のためにこの世に生まれたのではなく、健康で幸福な生活を送るために生まれた」という意味の言葉が胸を衝きます。今、教育にたずさわる人間にとって、痛切な言葉、ではないでしょうか。

氏は大学でギリシャ哲学を学んだ人ですが、『ソクラテスの弁明』の中でソクラテスが「大切なことはただ生きることではなく、よりよく生きることだ」と言うのを読んだりすると、氏自身の姿に古代哲人の姿を重ねたくなります。
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