フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

日録:年末整理など

2011-12-17 23:25:15 | Weblog

寒気が南に下ってきて冬らしい空気。写真は大学構内、銀杏もそろそろ落葉に向かう頃。

金曜日はぼくも名前を入れている学会発表のための相談で、千葉市の外国人調査の結果を話し合っていた。たとえば、3月の地震の際に日本のメディアと出身国のメディアとどちらを重視したのか、日本人のネットワークと出身国の家族などのネットワークとどちらを重視したのか、その二つの組合せで、帰国を選んだ人もあり、日本に留まることを選んだ人もあり、矛盾した組合せでアパシーになった人もあり、というような状況が見えてくる。

しかし、考えてみれば、政府や市が日本に住む外国人に対してきちんとした言葉をかけていたら、そのような選択に右往左往する必要もなかったはずだ。だがそのような言葉はどこからも一言もなかった。災害などにおける情報弱者の研究で忘れがちなのは、当然あるべきであったことがなかったことからすべては始まっていることにあると思う次第。(阪神大震災のときの教訓は政府に期待してはいけないということだったのだけど)

10年近く講読している東京新聞は3月以来、健闘が際立っている。現在、原発導入時期の政府、政治家、学者の動きが検証されている。その昔、学生時代の政治学のゼミで、友人がなぜ原爆を経験した日本でそんなに早く原発が導入されるに至ったのかというテーマで研究をしたいと言っていたのを思い出した。ぼくはそのときは林達夫の非政治的な人間の政治的なストラテジーについて考えていた。

年末ともなれば、なにかと今年のあれやこれやを整理したくなるもの。

年末の掃除で出来ることは、ごちゃごちゃと混乱した物や場所に足を運んで、ゴミや塵を払ってみて、ものごとの本来の姿を見つめることだろう。何となく大事に思っていたものを光に照らしてみたら、いかにもみすぼらしくつまらない姿が見える場合もあるし、役に立たない古くさいものだと思っていたものが意外に本物の輝きを持っていることに気がつくこともある。掃除もしないまま、目をつむって掃除をしたことにするなら、ゴミや塵はさらに危険なほどに積もるばかりだ。収束と言った政治家のまっすぐ人を見れないうつろな表情が気に掛かる。

最近購入した本:寒川旭(2011)『日本人はどんな大地震を経験してきたのか』平凡社新書、中川保雄(2011)『増補・放射線被曝の歴史』明石書店、金賛汀(1995)『ある病院と震災の記録』三五館、小出裕章(2011)『知りたくないけれど、知っておかねばならない原発の真実』幻冬舎。

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