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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

1年を経過して...

2012-03-14 22:45:24 | today's focus

3月11日の2時46分を前に、ぼくはカメラをもって外にでた。明るい日差しがまぶしく、その光とそれが照らす事物がいつもとちがったようにみえた。そこから東京湾の海岸にでた。風もなくしずかな波のない海が足もとでひたひたとうちよせていた。

1年が経過して、歴史的転回が起きているにもかかわらず、日本の社会はそれを見ないふりをしているように思えて仕方なかった。砂に頭を突っ込んだ駝鳥のように。学会に顔をだしてもそれは同じような気がした。とても大切な研究だと言ってくれるが、それはまるで「自分はしないけれど」と言い訳を言っているようにきこえた。

3月11日にいつも楽しく読ませてもらっている写真家のブログで東京が1年前に恐ろしく揺れたことについて「われわれは生存している。すなわち生存者だ」とあってはっとした。それから、たくきよしみつ氏の書物の中である人の言葉が紹介されていて、日本は変わらないだろう、もし全国の人々が自分も被災者だと思わなかったらといった意味のことが書かれていた。

前のブログで「非被災地」という言葉で被災地の内部と外部の中間地帯を表現したが、これもまだ不正確なのだと思う。被災者という言葉もきっと大きな間違いがある。なぜならそれはそう相手を呼ぶ自分自身を安全圏に止めようとする試みだから。同じように「つながろう」も「きずな」も、自他、彼我を区別することで、成立しているのではないか?

しかし、昨年3月からのぼくの経験を顧みれば、それは決して被災の外部にはいなかったし、緊張させられつづけていたとすれば被災者でもあったのだと思わなければいけない。自分を非被災者、非被災地域におきたい心理的反応は客観的に間違いとして退けなければならないのではないか?第一に放射能に安全圏はないのだ。写真家の「生存者」が一番正確なのかもしれない。生存者であればこそ、ぼくらは1年を経過してなおこの歴史的転回に関わり続ける動機をもつのではないか...

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high context cultureの終焉

2011-12-29 23:20:43 | today's focus

一日、家で論文のコメントをしたり、自分の論文を書いたりする。今年最後のブログは、数日前の出来事についての話を少し。

快晴の冷え冷えとしたクリスマスの日曜日に新聞をめくると、こんな言葉が目に入ってきた。

 

***この国ではどうも言葉について矛盾した考えが浸透しているようだ。客観的事実を示す道具としての機能を期待する一方、言葉で表明されるものについて、つねに事実との落差が容認されている。**言葉への不信が蔓延した社会では、美辞麗句が「瑕疵のない状態」として設定される。このため、少しでも傷が見つかれば、さかんに「言葉狩り」が行われる***問題はその背後で進行する「なし崩しの現実」のほうである。なるほど、美辞麗句の背後で現実が淡々とそれを裏切っていけば、言葉が信用されなくても仕方あるまい。私たちの社会はひどく「なし崩し」に弱い。多くの人が言葉を信じないがゆえに、強い言葉で異論を唱える人間にも冷淡であり、必要な討議が成立しがたい。」(東京新聞2011.12.25水無田気流)***

 

もちろん、詩人・社会学者は政府の信用されない言葉とその背後で進められるなし崩し的な動きを批判しているのだ。ぼくは2,3秒考えてみたが、ページをめくっていくと、越前高田のライトアップされた一本松の写真とか、運勢なんかが目に入ってきて、思考はすぐに途絶えてしまった。

 

2日ほど経って、朝のテレビを見ていたら、震災地域や被害者に対するキズナを語ったり、復興の遅れに声を荒げたりする、視聴者のメールが紹介されていくのが聞こえてきた。1年を振り返る12月末の番組なのだ。「日本人は怒るけど、それだけだね」「キズナを言って何の意味があるのか」と家人。ぼくはとっさに「言葉が現実を構築していくことを信じていないからね」と答えたと思う。「それがまさにhigh context cultureですよ」と家人が応えた。家人との会話はほとんど与太話ばかりだけど、これは打てば響く一瞬だった。

 

日本人は言葉を信じていない。それは今年の出来事だけでなく、あらゆるところに見つけることができる。だから、水無田の言論はとても正しいが、少し舌足らずなのだ。

 

大学の人事報告しかり、車道を走る車の速度制限しかり。謝る人間は、頭を下げながら、相手が静かになるのを待っているだけだ。自分が謝ったということが何を意味するかを考えたことがない。

 

high context cultureとは、言葉よりも文脈で相互理解を図っていく文化を述べたホールの言葉だが、日本人はこの概念をなにか優越の証明のように受け取っているのかもしれない。しかし、今やこの概念は言葉を信じない社会に対する警笛となっている。ぼくらは政府や専門家の文脈作りの作業が現実によって反古にされていくのを毎日目撃させられている。「収束」の後に汚染水が流れるし、文化の違いを理由に社長を解任した会社は、解任された社長の言葉に指示を与えたマーケットによってこっぴどく叩かれてしまった。

 

言葉が現実を構築していく…これは学生時代の留学の最中で見つけた確信でもあったし、ぼくの接触場面研究はそんなところを土台にしているのだと思う。

 

high context culture...この概念に縋っている人びとの終焉が見えてきた。

これが2011年の年末の状況だ。

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特別編:北杜夫の文学と文学サークル

2011-10-29 22:36:24 | today's focus

北杜夫が24日に亡くなった。84歳だった。斎藤家はお兄さん(94歳)もお母さん(89歳)も長生きをしたから長命の家系なのだろう。茂吉は71歳で亡くなっているから、やはり長命は斎藤家のほうなのかもしれない。

北杜夫と言えば、彼の周りにいた辻邦生、森有正、遠藤周作、なだいなだ、阿川弘之、そして別な方向から埴谷雄高、三島由紀夫、などの名前が浮かんでくる。さらに彼が愛してやまなかったマンやドストエフスキーやリルケなどがそこに加わってくる。北杜夫の文学の周囲には、戦後文学でも第三の新人(遠藤周作はここに入れられていたけれど)でもべ平連でもない、東京山の手のお坊ちゃんの文学者が集まっていたように思う。ぼくは彼らの育ちの良さ、ユーモア、ペーソスに引きつけられたのだろう。精神の偏りや強ばりがなく、しなやかとか柔軟とか、そういった心のあり方が、欧文の香りと古語の融合によってつくられる魅力的な文章を通してとどいてきたのだと思う。

北杜夫はマンボウものを省くと、作家生活の後半はほとんど寡作と言っていい。初期作品の後になっての刊行を除いて主な作品をあげてみる。

1960 幽霊、航海記、夜と霧の隅で、羽蟻のいる丘、

1964 楡家の人びと

1966 天井裏の子供たち、白きたおやかな峰

1968 黄色い船

1969 星のない街路

1972 酔いどれ船

1975 木霊

1976-7 北杜夫全集

1982-86 輝ける碧き空の下で

1991-1998 青年茂吉、壮年茂吉、茂吉彷徨、茂吉晩年

2000 消えさりゆく物語

とくに全集を出してからは、長編小説は1本に過ぎない。幽霊は最初、4部作のつもりでいたものだが、結局、第2部にあたる木霊で終わってしまった。北杜夫には彼の心の旅としてのそれらの作品、その外形を社会史の中に描いた楡家の人びとがあるが、それとともに海外に出た日本人の姿をさぐるもう1つの流れがあった。なぜこの流れがあったのか、北杜夫を考える一つのカギがここにある気がする。そういえば、北杜夫の文学をどのように位置づけるのか、その作業はこれからようやく始まることなのだと思う。

韜晦の人だった北杜夫とは本当は誰だったのか、改めて考えてみたい。

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番外編:Steve 1955-2011

2011-10-06 22:40:00 | today's focus

 

コンピュータはぼくにとってはやはり書くための道具だ。

マサチューセッツ州アマーストに留学したときに、初めてSmith Colonaの電子タイプライターを買ったところからぼくの手書き生活からの離陸は始まったのだろう。

そのあと、日本でワープロが出現して、ぼくはたった40字のモノクロ液晶画面のサンヨー・ワープロをもってウィーン大の仕事にむかった。メルボルンに向かうときはやはりサンヨーのSanward340という400字が画面にみえるワープロを持って行った。文豪とかRupoとかなぜか買わないんですね。

メルボルンではしばらくそのSanward340を使っていたが、研究論文を書く作業がそれではうまく出来ず、同僚からNECのPC-9801UXを安く分けて貰ったところから、コンピュータとのつきあいが始まる。

日本に戻ってからのおおまかなコンピュータ歴を記録しておく:

IBM ThinkPad 700C(国内ではPS/55note)

IBM Aptiva 720

このAptivaが突然、ブラウン管のモニターが死んでしまったこと、そして当時の大学でApple Performaを購入してくれたことから、ぼくのApple歴が始まる。

Apple Performa 5400

Powerbook 2400c/180(Appleとの感情的結びつきが決定的になった)

Powerbook 2400c/240

iMac

iMac DV SE

Power Macintosh G4 (Quicksilver)

iMac (Flat Panel)

eMac

Powerbook G4 (Titanium)(チタニウムの手触り!)

Power Macintosh G5

Powerbook G4 (Alminum)

iMac G5

iMac (Late 2009)(デスクトップの完成形)

Macbook air

Macbook

Macbook pro

iPod 第3世代

iPod第4世代

iPod nano

iPhone 3GS

Steve, I have used so many Apple devices. Thank you for your staying hungry and foolish...

 

 

 

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中秋の月を眺める

2011-09-12 22:41:49 | today's focus

さやかに晴れた空に浮かぶ中秋の月を眺めた。

満月は地上のどこにものぼっているだろう。9.11の跡地にも、その後の10年の戦地にも、3.11の後に忽然とつくられた死の町の上にも、草の生えはじめた南三陸の鉄骨だけが残った防災対策庁舎の上にも、まだ見つけられずどこにもいけない亡骸の上にも、餓死してしまった生き物たちの上にも月はのぼっているのだろう。

しかしコオロギの鳴き声が聞こえる。窓の内からは笑い声も咲いている。原発は白兵戦のさなかだ。

ぼくらはすでに新しい世界をつくりはじめているのだ。

 

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岩手・宮城行き(5)

2011-07-31 22:18:21 | today's focus

陸前戸倉から海岸沿いを北上して間もなく、南三陸町の志津川地区が見えてきた。

南三陸町は2月末で17666人が生活をしてきた町だった。町村合併で南三陸町が出来たのは2005年、それまでは歌津町と志津川町だった。町制施行で志津川町が生まれたのが1895年(明治28年)で、翌年、三陸大津波に遭っている。1933年(昭和8年)に再び三陸大津波で22名が亡くなり、1937年(昭和12年)には大火がおきて1500人以上が罹災、そして1960年(昭和35年)にはチリ地震津波で死者41名を数えた。今回の津波で亡くなった方々は500名を遙かに越えて今もご遺体が見つかっている。避難者は2522名と発表されている。(南三陸町ホームページより)

数字だけあげてもこの土地が大災害の記憶を重ねてきたところなことがわかるが、町の中心にたつ5階建の志津川病院とその向かいの結婚式場などいくつかのビルのほかには一戸建ての家が並ぶ、きっと穏やかなところだっただろう。鉄骨だけになってしまった防災対策庁舎の前には祭壇が設けられて、そこに線香、ろうそく、マッチなど置かれていた。それをお借りして手を合わせた。

この庁舎については避難アナウンスを続けた遠藤さんや、屋上の避雷針にすがりつきながら部下が流されるのをなすすべもなく見送った市長の話など、多くの悲しい物語がある。祭壇の下にここで息子さんを亡くされた家族が、この建物を記念に残そうという考えに反対の言葉を書いた紙が置かれていた。この庁舎がもっとしっかりとしたものであったら息子は死ななくてすんだのだとあった。それはその通りだろう。

庁舎は3階建てだから10メートルほどの高さがある。宮城県が残された病院などの調査から明らかにしている津波の高さは15メートルだから、庁舎の屋上で助かった人はやってくる波に完全に沈みながらも、柱にしがみついて、波のうねりに息をつぐ時間をつかって生き残ったのだと思う。波に沈んだときに手を離して水面に向かって顔を出そうとした人もいただろう。ぼくでもそうするはずだが、その方々はきっと帰ってこなかった。

庁舎の横には奇跡的に残った看板がある。それはチリ地震のときの津波の高さを示したものだ。2.4メートルとある。

 

避難所は小高い山のほうに立っているらしい。志津川地区の平地には作業や調査の人以外には人の姿がない。あるのは瓦礫だけだ。

元サッカー日本代表監督のオシムさんは「出来る限り生活を立て直して、続けて下さい」と言っていたらしい。3.11前の生活を痛切に思い出すことが大切なのかもしれない。

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岩手・宮城行き(4)

2011-07-30 09:35:45 | today's focus

翌日、予定を変えて南三陸町に向かった。最初の予定では気仙沼から北に陸前高田と大船渡をまわることにしていたが、昨日のボランティア・センターで南三陸町ではまだ瓦礫撤去の仕事をしていると話してくれたのが頭に残っていたことと、来る前に見直していたYoutubeの映像で最も怖いものの1つが南三陸町の志津川高校からの映像だったことで、考えを変えたのだ。

レンタカーのナビに従っていくと、東北自動車道で南下、若柳金成の出口から出て、水田地帯を通る細い本吉街道を東に走っていく。346号線を横切ってまもなく北上川が現れる。川は畑や民家のある地面よりずっと下にあって、長い間に川が削っていったことがわかるような地形だ。そこからすぐに川を渡って本吉街道をすすめばよかったのだが、何本も道が交差している要所で、川沿いに車を走らせてしまった。このナビの悪いところは、運転手がナビ通りに進まないと、つい黙ってしまうことにある。標識に「石巻市」が見えだして、これはおかしいと思った次第。

しかし、このあたりの風景も、じつに穏やかでうつくしい。ゆったりと流れる北上川で魚釣りや川遊び、横では捕虫網でトンボを捕ったりする、そんな絵が目に浮かぶ。いわば里帰りの夏休みが思い浮かぶようなところだ。結局、車は川が二分するところまで南下して、45号線(東浜街道)に入ることができた。北上川はじつは登米市のところで、新北上川と旧北上川に分かれる。明治の洪水対策事業とのこと。

津波がなかったら、原発の放射能がなかったら、快適なドライブだっただろう。空も晴れ、緑はさらに輝いている。

山間の道をゆっくりと下り始めると、家並みが途絶え、まだ海の気配もないのに、道の両側に粗大ゴミのようなものが転がりはじめた。いつのまにか気仙沼線の線路もなくなった。そして森の木も道に近いところが黒くなって枯れていた。なんだろうと思っている間に何もない平地と海が見えてきた。陸前戸倉。本当になにもない。わずかにコンクリートのかたまりが傾いているのと、遠くに小学校か中学校が残っているのみだ。あたりの森もすべて津波に浸食されたところが黒く枯れている。海の護岸のコンクリートもみごとに破壊され、瓦礫のような木材が波に揺れていた。

志津川湾はわずかにエメラルド色を帯びて、つらいほどに風光明媚だった。

 

 

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岩手・宮城行き(3)

2011-07-26 23:40:34 | today's focus

 

鹿折地区を車でぐるっと走った後、湾の左手の道を進んだ。地盤沈下と岸壁の崩壊で海面がとても近い。右に海、左はすぐ山というせまい道をゆっくり走るが、そのわずかな土地に立つ家屋も津波で破壊されている。海のほうには小さな造船所があったりするがそのあたりにも燃え残った黒こげの船が水面に傾いていた。鹿折地区とちがってまだまだ片付いていない様子だ。

左に山道に入ると景色は一変する。山道の上にはごく普通の生活が見える。そこに浦島小学校の標識があり、細い道がさらに山に続いていていた。夏休みの土曜日だったせいか、門もしまり人もだれもいなかった。ここはしばらく避難所にも使われていたところだ。当時は20数名の児童が通う小さな小学校だったが、今は他地域に移らざるをえない子供たちが多く、13名に減ってしまったと誰かのブログで読んだ。神戸でよくみかけた仮設住宅がグランド一杯に出来上がっていた。

蝉は夕方近くなって鳴くのをやめていたが、かわりにウグイスが鳴いていた。写真を撮らなかったので小学校のHPから写真を拝借する。グランドの向こうにわずかに海が見える。子供たちはもしかしたら津波を見ていたかもしれないが、小学校からはきっと町が津波に襲われるのは見えなかっただろう。見えなかったと思いたい。

 

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岩手・宮城行き(2)

2011-07-26 23:19:37 | today's focus

 

岩手はじつにきれいなところだ。一関から国道284号線を走ると、ゆるくカーブを繰り返す山道の両側にひろがる森の豊かさについ見惚れてしまう。そして空気は関東の高温多湿に比べたらずっと乾いている。

1時間半で岩手から宮城に入り、気仙沼市に到着。町の入り口にあるボランティア・センターを覗いた。ちょうとボランティアの方々が戻ってきたところで、長靴の泥を落としたり、テントの下で作業の報告をしたりしている。しかし、事務局の大阪から来ている方の話ではがれき撤去作業などはもうほとんど終わって、大島に少し残っている程度だという。今は生活支援に重点が置かれる端境期にあるらしい。

ボランティア・センターを辞して町に向かった。古い商店や旅館、会社などが軒を並べる、田舎の小都市によくあるような街道を走る。大正風のモダンな市役所を過ぎてから少し経って、いきなり家の1階が破壊された通りに変わった。そこから知らないうちにたどり着いたのが鹿折地区だった。

鹿折地区がどのようなところだったのか、ほとんど手がかりがないくらい、そこには何もなかった。後でインターネットを探すと4月5月は瓦礫だらけだったことがわかったが、今はもうほとんど整地されたようになっていた。わずかに崩壊を免れた家屋と、焼け焦げて錆びた車の残骸がそこここに放置されているだけだ。そんな焼け跡に巨大な漁船が堂々とあるのをみつけて、近くに車を止めた。ここはどんなところだったのだろう?ぐるりと見回してもほんとに見当がつかない。何となく残された建物から工場があったのではと思えただけだ。

どこかからおじさんが自転車でやってきたので、引き留めて話を伺った。自分もこの近くで会社を持っていたがすべて流されてしまったという。どうやら毎日、このあたりが片付いていくのを見に来ているようだ。やはり魚の倉庫や漁業関連の会社があったらしい。あそこはマツダの会社だった、と漁船の横の敷地をさしてくれた。

漁船はこれからどうしたものか。倒れないように両側から鉄の柱で支えている。写真には見えないが船の前方は宇宙戦艦ヤマトのようにかっこのよい舳先がある。海に戻すとすぐにでも使えそうな気がするが、さてどうするのか。

漁船の横の舗道をふさいでいるのは、電柱が鉄筋だけになって無残にのたうっているもの。写真に見える電柱はすべて地震後に復旧を急いで新たに付けられたものだ。電柱の立て替えはどの細い道でも行われたようだ。

その先に焼き海苔をつくっていた工場が焼けて歪んでいる。この地区で唯一見た花束がその前に手向けられていた。722日現在、死者993人、行方不明者419人とのことだが、ここでどれほどの方々が命の失われたのかと思うと、胸がつまった。でもなぜか手を合わせなかった。ぼくはその横を通り過ぎて工場の中に入り、散らばった茶碗やお皿、よくわからない布のかたまりを見ていた。

 

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岩手・宮城行き(1)

2011-07-26 23:00:48 | today's focus

*長すぎるエントリーとなったので、3つに分けてみます。(内容はほとんど変わっていません)

先週の週末は東北に出かけた。いろんな人がいろんなことでこれまでも出かけている。こちらは何の役にも立たない、見るだけの旅である。なので、結構、後ろめたいのだが、やはりインターネットやテレビで伝えられたことだけに縛られるわけにはいかない。

16年前、大阪に住んでいたぼくは倒壊家屋が延々と続く神戸の町をあるきながら、自分で見ることの大切さを感じていた。

きっとテレビの横長の映像はそのさらに左右、上下に何があるのかを考える想像力を失わせてしまうのだろう。あるいは想像することを必要と思う倫理をだめにしてしまうと言ったほうがいいかもしれない。

だから何も出来ないから行けないと思うのなら、手を合わせに行くと思って出かけたほうがいいのだ。

というわけで、23日の午前の新幹線に乗り込んだ。途中、郡山や福島を通っていく。田んぼに稲が青々と育っているが、それを見る心境は複雑だ。京大の小出さんによれば、われわれには安全という世界はもうなくなったのだ。どこまでなら我慢できるかを考えるしかないという。

お昼過ぎに一関に到着。熱帯低気圧になったマーオン(マーゴンと書かれているのは大きな間違い)のせいで雲が厚い。駅前でおそばをいただき、レンタカーを借りる。車にのってさてエンジンをかけようとしたところで地震(震度4)。風の音かと思ったのは、地震でレンタカー会社の屋根が揺れて音を立てているのだった。歓迎の地震である。

 

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