フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

HiromiMS先生来訪

2007-05-31 22:03:38 | research
先日の教育学会で発表をされたオーストラリアのHiromiMS先生が千葉大を訪ねて下さいました。オーストラリアでも言語管理をされている数少ない研究者の1人です。発表は膨大なデータのうち、日本人の側がオーストラリア人と話すときにどのように規範が揺れるかという、日本人の接触経験の乏しさを指摘した刺激的な発表でした。

この点は食事をしながら、私の中国人日本語話者と日本語母語話者の会話の場合に会話を維持し、発展させようと努力するのが中国人日本語話者のほうだという研究の場合と結局は同じことなのだという点で見事に一致しました。そしてこの日本人についての指摘はじつは20年前のマリオット先生の研究の成果と変わらない、つまり、20年経っても日本人の接触場面に対する不慣れはまったく変わっていないということなのだろうと二人で話していました。

そんなこともあって、接触場面研究、言語管理研究を理解してもらうためには、じつは根本的なところから説明を試みなければならないことが今回、よくわかったというHiromiMS先生の言葉が耳に残りました。

ひさしぶりに日本人の視点を抜け出している人(もちろん、他の社会の同化しているわけでもない)に会って幸せなひとときでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに自宅でいろいろ。

2007-05-29 23:44:08 | Weblog
1日、自宅でほうっておいた税金を納めにいったり、保険を支払ったり、仕事に手をつけたり。

留学生のネットワーク調査に関する論文240頁を読む仕事があって、自分の論文も引用されているのを見るのはへんなものです。いい加減に書いちゃ行けないなあと反省ばかりですね。序論、方法論と読んで、いよいよ分析の章に入ったところで時間切れ。面白くなりそうな予感です。

あとは、3年前に書いた「接触場面における問題の類型」が英語に翻訳してもらったもののチェックをやりました。これも英語にすると、そのときはさらっと書いたつもりが結構、込み入った話を書いていたなあと少し感心したりしていました。問題を解決可能な問題、解決出来ない問題、コミュニケーション・リソースとしての問題という3つに分類して、ポストモダン社会での問題のあり方を論じています。先日の「多言語社会」論についても、解決可能な問題としてその解決のための政策を考えることがずれているのだという論旨が入っています。

その後、明日の授業のためにハイムズのモデルを論じたネウストプニーの「言語行動のモデル」(1979)を読んでいました。ハイムズのモデルがやはり言語行動の生成のモデルにはなっていないことを論じて、状況からのインプットからどのように言語行動が選択されるかについて試論を出しています。構成要素はどうしても静的でしかないというのは確かにその通りですね。だから問題は、構成要素とは何の構成要素なのかということでしょう。言語行動の構成要素なのか、それとも状況からのインプットを作っている構成要素なのか、それが大切かもしれません。

話は違いますが、学生時代、尊敬していた政治思想の先生が、大平首相が急死したときに、政治家の自覚のなさを厳しく批判していたのを覚えています。自分の健康が優れないことがわかっていたなら、首相の座からまず退陣して、次の首相を選んでもらう手続きを優先しなければならない。それが権力につく者の義務です。そんな話でした。そのときはずいぶん厳しいなあと思いましたが、今は私もそう思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本語教育学会のパネルセッション

2007-05-28 15:10:39 | research
昨日の27日は桜美林大学で開催されていた日本語教育学会春季大会で、「多言語使用者の言語管理と日本語教育ー「多言語社会」から「多言語使用者の社会」へ」というタイトルでパネルセッションを行いました。各パネルの発表者とタイトルは以下の通りです。

高民定「多言語使用者のバラエティと言語管理」
村岡英裕「多言語使用者の会話参加」
石田由美子「多言語使用者と単言語使用者の言語管理」
S.K.ファン「日本社会における多言語使用者の言語意識:ジャパン・リテラシーを中心に」

80名ほどの参加者の中から、興味深い質問や、終了後もコメントなどが続いて、こうしたテーマについての関心の高さを感じました。こちらのねらいは、学習者について非母語話者の面よりも多言語使用者の面を見ることで、当事者の問題が見えてくるだろうということだったのですが、それがどこまで伝わったかはわかりません。ただ、「第2弾も期待しています」と言われたりすると、もう少し続けていくことで伝わる人を増やしていくべきなのかもしれないですね。(B型はすぐ飽きてしまうのがたまにきずなんですが...)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多言語社会を目指すことの逆説

2007-05-19 23:01:03 | research
今日は来週の日本語教育学会春季大会ですることになっているパネルの準備で、パネリスト4人で集まりました。

「日本における多言語話者の言語管理と日本語教育ー「多言語社会」から「多言語使用者の社会」へー」というタイトルで、多言語を使用している当事者の視点からその言語管理を考えてみようという趣旨です。

準備では、日本に暮らす外国人を非母語話者と見たり、「外国人」と見たりすることが、多言語社会や多文化社会の実現を目指すことにつながっていくことの中に大きな誤解・逆説があることについて話が出ていました。

非母語話者とラベルづけることから、多くの人が、多言語サービスと日本語教育政策の拡大と母語保持・継承語保持とを唱え始めます。しかし、たとえば、多言語サービスをどれだけ充実させたら多言語社会は実現するんでしょうか。どのぐらいの言語を翻訳すればよいのでしょうか。

そして、もっと重要に思われるのは、言語が解決したとして、日本社会の日本人さえ不合理で窮屈だと思っているさまざまな慣行や制度を外国人は理解するようになるのでしょうか。

支援をすればするほど、外国人は「外国人」となり、一方、日本社会は相変わらずの日本社会のままでいることになるように思います。

ラベルづけをしないで、外国人が日本人一般ではなくて世界のふつうの人として生活しているということがわかれば、すぐに理解できるはずなんだけど、これがなかなか難しいんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スピーチコミュニティ

2007-05-16 23:37:09 | today's seminar
今週はハイムズのFoundation of Sociolinguistics (1974)の第2章のうち、スピーチコミュニティについての節です。

ここではスピーチコミュニティの定義について書いています。そのために、言語とコミュニティを混同してしまう問題点を豊富な例とともに話していきます。言語が同じだからと言って、コミュニティも同じとは限らない。そもそも言語が同じとは何を意味しているか?起源、理解可能性、そして...。どれも一致するとは限らないのです。ハイムズはそこでネウストプニーのsprechbundとsprachbundの区別を引用して、言語と話し方ways of speakingの2つが重要なことを語っていきます。

ただし、ここからハイムズの筆は難渋し始めます。これら2つの知識を持つことでコミュニティに参加することは可能になるが、それはメンバーになることと同じではない。メンバーになるということはもっと別な、説明出来ない基準があるし、だからスピーチコミュニティの考察には問題があることを認めながら定義をすると言うわけです。

そこから授業も難渋し始めました。それは複雑な政治や社会や歴史が絡まってきて、具体的に考えようとすればするほど心が揺れていくからです。今年の授業には日本人がいませんが、中国について考えても、スリランカについて考えても、やはり簡単なことではないのです。

ハイムズ、そしてネウストプニーの理論はとても明晰で合理的な印象が強いのですが、ハイムズの難渋を見ると、われわれの接触場面研究の足下にも多くの難渋があることを思い起します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

榊原さんの結婚式

2007-05-14 18:18:11 | Weblog
昨日はここの「世界の仲間」にも何回か投稿していただいたことのある2000年卒業の榊原さんの結婚式に招待され、お祝いをさせていただきました。ご主人は台湾出身の長身のハンサムな好青年ですが、ニュージーランドやアメリカで教育を受けた方です。さすがにニューヨークが長い榊原さんで、友人は世界中から集まっていました。

数日前に台湾で挙式をされ、この日は東郷神社で日本式の挙式でした。東郷神社、そう、かの日露戦争の東郷平八郎を祭った神社です。無事、式が終わり、夕方から隣の東郷記念館で披露宴です。素敵なご両親に祝福されほんとうに幸せそうな榊原さんでした。これから台湾にしばらく住むことになるそうで、その不安もあって最後のご両親への言葉は涙ながらのものとなってしまいました。

友人達のスピーチも面白かったのですが、その中で小学校の友達グループのスライドを使ったお話はうーんとうなってしまいました。それは小学校と言っても、ロサンジェルスの小学校の友達なのです。みんなでホームパーティーをしたり、ディズニーランドに通ったりした子ども時代のことを友人達が楽しそうに話してくれます。しかし、そのロサンジェルスにはもう誰も残っていないのです。そう、彼女たちは榊原さんも含めて海外で育ったお子さんたちだったんですね。

2つどころかいくつもの文化の間を歩いている人たちが集う披露の宴はゆっくりと暮れていきます。ふと思ったのは、彼らが大事に思うのはやはりネットワークなのだということです。だからどんなに遠く、ニュージーランドやオーストラリアやUSAでも苦にせずにお祝いにやってきてくれるのです。それが地域を基盤としない彼らの生活のコアにあるのでしょう。考えてみれば、私も、彼らにはほど遠いながら、少しはそんな生活をしているのだと思います。

とにかく若いお二人にご結婚おめでとう。お元気で!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杜の都の風

2007-05-12 23:11:20 | research
今日は朝の新幹線で仙台を訪れ、JALTのコロキアムで授業コーパス科研のメンバーによる研究発表に行ってきました。

天候もよく11時過ぎには仙台駅に到着。しかし、そこから会場になっている東北文化学院大学まで、ちょっとしたつむじ風の中に落ち込みました。まずは新幹線ホームから在来線のホームに行くのですが、そこで仙山線に行くのを間違って仙石線のホームに行ってまた戻り、やっと仙山線(仙台ー山形)に乗ったのですが、下車駅と思って降りたのが2つ手前の北山駅。メンバーが来るのを大学のある国見駅で待つということだったので、北山駅で何の問題も感じず、待ちながら、ノートブックを開いて発表準備をしていました。

北山というくらいなので近くにいくつもお寺があるらしく、お祭りなのか太鼓と囃子が聞こえてきます。風は心地よく春の香りがします。電車もしばらくは来ないので、祭りの音を聞きながら風に吹かれてホームのベンチに腰掛けておりました。ふっと時間が止まったようで、iPodではDon McLeanのVincentという画家ゴッホについての歌が静かに始まりました。その瞬間、私はつむじ風の真ん中で永遠を感じていたのかもしれません。

発表についてはまた改めて書くことにして、今日は杜の都仙台の風の感触を思い出しながら、寝ることにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Dell Hymesはなぜ母語話者と言わないか?

2007-05-09 22:03:14 | today's seminar
大学院では引き続きHymes (1974)を読んでいます。第2章「言語と社会生活の相互作用の研究」、ここに接触場面研究の最も重要な概念の探求があります。今週はその前半を読んでいました。

そこに「流暢な話し手fluent speaker」というチョムスキーの概念が批判される節があります。抽象的な文法能力の研究においては流暢な話し手の能力を明らかにすることが目的なのだが、エスノグラフィーにとっては使い物にならないとハイムズは述べます。なぜなら「流暢であること」が必ずしも話し手の理想的なあり方ではないようなコミュニティがいくらでもあるからです。簡単に言うと、話さないことのほうが理想的であるような社会があるし、言葉がその社会においてどのような地位を持っているかによって話し手の概念は変わってくるのです。

なるほど!とみんな納得したのですが、しかしちょっと不思議なのはなぜハイムズはこの本の中で母語話者とか非母語話者という概念を使わないのかということでした。

じつはハイムズはこの本のさまざまなところで、1つの言語システムしか使わない人間はいないとして、バイリンガルはもちろんのこと、方言と標準語、丁寧体と普通体、先日述べたfootingなどさまざまな変種をわれわれは使うことができることを指摘しています。つまり、母語という概念は、こうしたさまざまな変種の知識を表現するためにはもっともふさわしくないということになるでしょう。言い換えると、母語という概念には、逆説的ですが、1つの言語システム(つまり標準語のことが前提になっているのかな)という前提が含まれているのだと思います。

ではどういえばよいか?

ー「中国語の話し手」ではどうですか?
ーでもそうすると、中国人ではなくても「中国語の話し手」になれますよね。
ーもちろん。それでいいんじゃない?
ー「中国語の話し手」というのは能力ですか、それとも状態?
ー状態です。

この議論から、多言語使用者の概念までは、目と鼻の先なわけです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウトナイ湖サンクチュアリのふきのとう

2007-05-07 21:57:16 | Weblog
ゴールデンウィーク、2泊3日で実家の北海道に遊んで来ました。短い滞在だったのでとくにどこに行くということもなかったのですが、娘が「絶対に行く!」と言うので、今回もウトナイ湖サンクチュアリを訪ねました。

北海道の春はまだまだで、やっと木々の若葉が1センチほど芽吹いているといった感じで、桜もこれからです。木々は枝ばかりで、明るい林を散策しました。昨年は小さな池にカエルの卵がいたのですが、今年はもうおたまじゃくしが生まれて泳いでいます。モノキュラーと三脚を担いだおじさんが親切にいろんな解説をしてくれました。ほら、ここに黄色い花が満開でしょう。これはナニワズと言って、高い木が葉で覆われる前に花を咲かせて花粉を運んでもらうタイプなんです。夏はもう花も葉もなくなるので夏ボウズとも言うんです。香りがとてもいいんですよ。そんな話をしてくれます。何者?と思っていましたが、じつはサンクチュアリのボランティア解説員の方でした。

その人がふきのとうを指して話をしてくれます。このふきのとうから蕗(ふき)が出てくるんじゃないんですね。横から蕗が出てくるんですよ。この言葉を聞いて、私はほんとうにびっくりしました。ふきのとうは昔からよく名前を聞く野草です。とくに北国ではふきのとうは春の到来を感じさせる愛着ある野草です。でも、まさかあの蕗と同じものだとは!う~ん、迂闊だった。

さっそく食材辞典で確かめるとこんなふうに書かれています。
「キク科フキ属の多年草。日本原産で近縁種の少ない独特の野菜です。 サハリン、朝鮮半島、中国の一部にも自生しています。名前の由来は「冬葱(ふゆき)または冬黄(ふゆき)」で、 冬にでる浅葱色の植物(または冬に黄色い花が咲く)という意味です。 寒さに強い地下茎を持ち、地上に出るのは葉とその柄(え)の部分、 そしてフキノトウとして有名な花の部分です。」
(『食材辞典』http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/Fuki.htm)

娘もボランティアのおじさんの博覧強記に魅了されて、エゾリスやアカゲラなど教えてもらい、すっかり自然派です。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙台パネル準備

2007-05-06 22:13:26 | research
授業科研のメモです。

ゴールデンウィークは12日の科研パネル発表の準備もしていました。それで戻ってきた今日は雨の中、パネリスト4人で集まって、わがマンションの19階のラウンジで勉強会をしました。東京湾でも眺めながらやりましょうと言ったのに、雨でな~んにも見えなかったのは残念。

4人ともあと1週間あるということで、何とかなると思っているところが、発表慣れというべきか発表ずれというべきか...

いやいや私はそんな余裕もなく苦しんでいます。いまだにコツのようなものがわからないので、むきになって最初からデータをさわったりするんです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする