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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

学生飲み会のスキーマ

2011-11-12 22:30:08 | today's seminar

今週の日本語教育方法論では社会文化能力の学習項目という話。とくに書くほどのことではないが、ちょっと面白かったので紹介する。

日本語教育のシラバスでは文化にどのようにアプローチしていくかは難しいテーマだけど、授業では(1)プロダクトとしての文化(日本事情)、(2)プロセスとしての文化(米国のStandardsの考え方、自文化との比較、解釈)、(3)スキーマとしての文化(場面でのインターアクションの行動と解釈の準拠枠)という3つのアプローチがあることを紹介した。

以下のリストは、学生たちの飲み会に参加するときに必要なスキーマを考えてもらって出てきた項目。

・普段と飲み会はきりわけている(ハレとケ)

・飲み会は仲間内でリラックスする活動

・お酒が飲めなくても顔をだす

・上座もある(先輩、ゲスト)

・とりあえずビールで乾杯

・ノンアルコール、ソフトドリンクでも乾杯

・飲んでいない人には飲ませる(とくに年上から)

・先輩からのお酌は断らない

・年上におしゃくを!!!

・女の子が取り分ける(しかし女子は納得していない)

・多数のときは固い話はKY

・雰囲気になじむ

・空気を読む(前半は全体で動いているので)

・とりあえず騒いでおく

・深い話は後の機会に

・酔っぱらいはOK。結構「いい人」と思われる

・無礼講だ!!!

・コールがあるぞ!!!!

・ゲームで負けたら飲む!!!

・その場だけ楽しむ

・飲み会のあとは、忘れる

・最後はきちんと支払う、しめの挨拶のときもきちんとする

・2次会必須!!!(前提)

どうですか?かなりいい線いっていると思うのだけど。日本の飲み会が、パーティーといかに違うかがよくわかる。飲み会だけでなく、パーティーでも我々はこうしたスキーマの一部を適用してしまう気がする。そこで留学生は戸惑ってしまうわけだ。

 

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研究日々録または謝罪という相互行為

2011-11-09 00:09:53 | today's seminar

しばらくごぶさたしたので、研究指導と授業での話を2つ。

11月に入り、修士課程の学生さんは論文作成に目の色が変わりつつある頃だが、先日、謝罪について分析をしている学生さんが、韓国人同士の場面で、謝罪する側、謝罪される側の両方の謝罪のストラテジーを数えてまとめたのを聞いて、ちょっと驚いてしまった。なぜなら日本語の教科書だって、接触場面の謝罪の研究だって、あるいはさまざまな言語での謝罪研究でも、そんなことをしている論文は見たことがなかったからだ。

そうした研究の前提にあるのは、謝罪行為は、受け入れられるかどうかわからない、かなり深刻な相互行為であると考えているからなのだろう。ぼくだってそうだ。だから、謝罪のストラテジーは、謝罪をする側でしか数えない。謝罪される側の行動は謝罪に対する応答だけをみることになる。

その学生さんが考えていた韓国人同士の謝罪は、友人関係にある場合ではあるが、受け入れられることが前提になっている、やや儀礼的、やや遊びの要素も入った、謝罪の相互行為なのだ。謝罪する側がある謝罪の要素を言わなければ、謝罪される側がそれを口に出して(つまり約束の要素を言わなければそれを要求するというかたちで)、謝罪の相互行為を遂行していき、終わりまですすめていくということらしいのだ。まあ、分析のやりかたにはかなり難点があったのだが、久々に面白いポイントではある。

**

今日の大学院授業では、Monica Hellerのモントリオールにおけるコードスイッチングの短い論文を読む。そこにあった1つの例にみんなで目をとめた。

バイリンガルを求められている病院の職員のうち、英語系の職員がフランス語で患者に応対するのは、彼らにとってはひとつのfavorを与えることであって、彼らがそうすることで、英語系の人びとの優位さ(つまり権力関係)が維持されているというくだり。

ボランティアで日本語を教えている人の中に、ときどき、日本語でも通じるのに、中国語で話そうとする人がいるよね、という話になって、もしかしてそれってその人にとってはfavorのつもりだったのかなあ、とそんな話をした。

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接触場面であることを認めないという態度

2011-10-19 23:07:56 | today's seminar

今週、大学院の授業でGumperz, Cook-Gumperzの編集によるLanguage and Social Identity (1982, Cambridge: Cambridge University Press)の第1章 Introductionを読んでいた。この論文集が対象としているのは、アメリカの移民や非標準英語の話者たちが自分たちのethnicityを示す話し方を指標としてコミュニティを形成しはじめた新しいタイプのethnicity identityである。

その説明を読んでいて、言語能力ではなく社会言語能力上のクセのようなものが誤解を与えること、それだけでなくポスト産業社会のさまざまな官僚主義的な手続き(e.g.就職面接)において問題が起こることが主題になっていることはよくわかった。

ただ、ぼくはまたべつなことも考えていた。移民たちが2世、3世になり、言語問題が消えたときに現れる言語問題を考えたときに、当事者たち、研究者たちも、メインストリームのアメリカ人と移民のインターアクション場面を接触場面とみなしていたのだろうか、ということだ。おそらくそうはみなしていない。だからここには接触場面であることを認めないことによって問題の所在が潜在化されてしまう、新たな言語問題が生じているのだろうと思った。アメリカの研究者が接触場面に理解を示すことが少ないことは明らかだ。そして、先日のシンポジウムに来てくれたチェコの人々もまた接触場面について触れることが非常に少ないことも示唆的だ。

ある相手とのインターアクションの場面を特別なものとして捉えること、それは相手自身を別な態度でもって接することにつながるが、それは彼らの対人的な信念と相容れないものがあるのかもしれない。つまり、あくまでも普遍的な人間として相手を遇することが基本態度としてあり、接触場面の概念はそこから逸脱してしまうように感じられるのではないか。だから接触場面の代わりに権力概念が持ち出されると、とても受け入れやすく感じられる。普遍的な人間同士を基本にしながら、そこでの力関係で不均衡が生じると考えれば、なんの違和感もない。

日本社会では相手の姿や言葉から特別扱いすることは朝飯前のことだ。そして、接触場面研究が始まった、日本人とオーストラリア人のインターアクションにおいては、両者の相違はあまりに明らかであり、接触場面は認めざるを得ないものであった...。

写真は研究室のある建物から帰りがけにみた夕焼け。40年前のレンズをつけて写してみた。Abent Rotというほどではない。

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2nd International Language Management Symposium

2011-10-08 22:44:30 | today's seminar

第2回の言語管理国際シンポジウムが10月1日ー2日に早稲田大と言語管理研究会の共催で無事に終了した。

第2回というのは、3年前に最初の試み("Workshop")がメルボルンのモナシュ大で開かれたからだ。今回は、世界中に呼びかけたところ、日本、チェコ、オーストラリア、香港、ケニアから17人の発表者が日本に集まって行われたもので、じつは画期的なことだった。

共有テーマは「Norm Diversity and Language Management in Globalized Settings」というもので、とくに規範をめぐっての議論が活発に行われた。接触場面で基底規範が設定されるというときに、ある規範が選択される、という表現をめぐって、規範がまるで前もって存在しているかのように考えてしまうことは問題であって、相互作用のなかで構築されていくものである、ということが、少しずつ意識されるようになったことはよかったと思う。

ぼく自身は、浦安調査から地震のときの日本人から外国人にむけて言われた言葉の事例を紹介して、基底規範が構築されず、コミュニケーションも失敗する条件を考察してみた。nonlinguistic contextとindexical meaningとが双方に受け入れられなければ基底規範も設定されないというのが主旨。ぼくは英語をすらすら言える能力はもっていないので、全部、原稿を書いて発表。書くと英語は一応出てくる。

いろいろ面白い話はあるのだが、今日のところはこのへんで。

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合同合宿 in 伊東

2011-10-03 23:23:24 | today's seminar

ちょっと遅くなったが、9月23−25日に伊豆伊東で神田外語大と千葉大の合同合宿を行った。

久しぶりに2泊3日で、神田外語大は祝日も授業があるため、2泊したのは4年生だけだったが、やはり2泊するとちがう気がする。旅のなかに浸る時間ができるのだと思う。

今回は千葉大から予算をもらったので、モナシュ大学からセーラ先生にきてもらい、オーストラリアの日本語教育、オーストラリアの異文化接触と留学というテーマで2回もセッションを担当していただいた。まだ若い先生だが、とてもしっかり準備をしてくれていたので、学生たちにも参考になったものと思う。金曜日と土曜日の午前は留学生の日本語支援というテーマでチューターの役割を話し合う。

土曜日の午後には30名近くの学生が宿に到着して、もうそれは賑やかな合宿になった。さっそく恒例の散歩ということで、三浦按針の碑、川沿いを歩いて音無神社など歩く。夜はセーラさんの英語のセッション、日曜日は4年生の卒論中間発表と、散策のときに経験した初対面コミュニケーションの内省の2つのセッション。

10年前は千葉大だけで、ネウストプニー先生も参加してくれて2泊3日ののんびり合宿をしていたが、合同合宿は始めて5年くらいになる。最近は学生事情がかわってきて2泊3日をゆるす余裕がなくなっているのだけど、とにかく今年は僥倖だったのかもしれないと思いつつ、帰宅した。

 

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そば屋で録画

2011-07-09 23:13:11 | today's seminar

千葉に来て早くも13年になるが、もう10年は通っている行きつけのそば屋がある。味ももちろんだけれど、家族でやっているところで、おばあちゃんがとにかく元気がよく、その声を聞きたくて、たまに出かけるわけだ。おばあちゃんも我々家族のことは覚えていてくれるので、「おやもう中3になったの!」とか、「もう薬味も食べられるようになりましたよ」とか話すのがじつに楽しい。

さて、昨日の学部ゼミでは3年生が取り組んできた共同調査の発表があった。そば屋さんに入ったことがない留学生をさがして、二人1組で蕎麦を注文して食べるところを横からビデオ録画するという、怖い物知らずの調査である。

最初の1組はドイツ人とフィンランド人の中級の男性ペアで、写真をみてようやく注文をするが、食べ方がわからず、ちょっとはズルズル音をさせて食べようとやってみるのだが、音は出ず、仕方ないので出してくれたレンゲにのせて食べたりしていた。食べ終わってからも、では箸をどう置くかが問題になって、フォークとナイフのように斜めにそろえるとか、いろいろ考えたみたい。一人はどんぶりの下におき、もう一人はどんぶりにかけて、とりあえず終了。

2組目は、エジプト人女性とアメリカ人男性の中上級ペア。エジプト人女性はとにかく肉の入っていないそばで、食べるときは手をあわせつつ、心のなかではエジプト風の挨拶をするという二重規範の適用が見られた。アメリカ人男性は前にも日本に少しだけ滞在したことがあるので少し感があるのだけど、横においてあった梅干しの缶から梅干しを食べ続けたり、かなり可笑しい。

そんなこんなで結論はうまくつけられなかったのだが、なにはともあれそば屋の録画という蛮勇には拍手を送りたい。同僚のMさんや博士課程のY君も言っていたけれど、そば屋は日本の麺関係のお店の中で、一番、外来性の高い場所であって、スキーマを作るのが難しい場所なのだ。外からめったに中は見えないし、メニューも字ばかりのことが多いし、その蕎麦の名前も南蛮とかおかめとか予想がつかないのだ。

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教養クラスからの提案

2011-05-23 23:49:33 | today's seminar
 ここ数年、「コミュニケーションと社会」というタイトルで、言語景観、マニュアル言葉、携帯メール、など身近な話題で楽しい授業をしているが、今年はやはり楽しいだけではだめかなと思って「震災時に自治体はどんな情報提供ができるか」と題して3週にわたって学生たちとディスカッションをした。

 1週目はぼくから浦安市の情報提供を様子の紹介。2週目はディズニーランドのキャストをして震災に遭遇した学生の話と、今回の地震でつかわれたメディアからtwitter、facebookまでの新しい情報ソースについての考察、3週目は宮城と茨城で震災に遭った二人の話。情報を求める立場からすると、テレビはまったく役に立たなかったし、必要な情報が得られないことでほとんどすべての学生たちが一致していた。必要な情報は横のネットワーク(人づて、メール、twitterなど)から得られる。

 最後に、今後の対策として望ましい情報提供のありかたを少しあげてもらった。
*インターネット表示板のようなものをいろんなところで見られるように設置する。そして太陽電池などで自家電力でうごくようにする。
*市役所など、そこにいけば情報が得られるような拠点をつくっていく。
*人づての力を再構築する。自治体から自治会、そして住民へという上から下へのネットワークも、インターネットを補強するために、重要。(ただし、本当の危機のときにはこのネットワーク自体が消滅する恐れあり。茨城で被災した学生によると、その町では地震のあと、原発をおそれて多くの人がべつなところに避難して、1週間、もぬけの殻になってしまったとのこと)
 わりと現実的な感じだが、みんなが何かしら経験したことだけに、示唆的なものだろう。

 少し時間があまったので、ぼく自身、3月の間は原発や放射能については、知りたくないことに目をつぶって、大丈夫だろうと自分を欺く心理に陥っていたという話をした。情報は固定的なものではない。送り手がさまざまに工夫するように、受け手もまた意識的・無意識的に加工してしまう。

 さて、来週からまた楽しい授業に戻ることにしよう。
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基底規範と「モデル」

2011-01-19 12:41:39 | today's seminar
外部から委託されていたやっかいな仕事がようやく片付いて、やっと水面から顔をだした気持。自転車で走ると海岸沿いから富士山がみごとに白く東京湾の向こうに見える。

大学院では東海大の加藤さんの著書をもとに、いろいろ議論に花が咲いた。以下、わかりずらい話で恐縮ですが、覚え書きとして残しておくことにする。

接触場面の研究において、規範は文法規則のようなものではない。ACTFLなどの日本語の会話能力評価では、母語話者の持っている規範意識を分類して、それらをもとに学習者の逸脱を指摘していく手法をとるが、接触場面における規範はその実際の場面で、そこに参加する当事者同士によって設定される規範(基底規範basic norm)を意味している。つまり、母語話者がもっている(と信じられている)規範や規則の固定的なイメージではなく、その場の情報(あらたまった場面、くだけた場面など)や相手に対する認知(日本語が上手そう、こわい顔をしている、外国人っぽい、話をしやすそう、専門知識がないかもしれない)などをもとに相互承認のもとで設定される動的な性格をもっているわけだ。

日本での接触場面で日本語が基底規範として設定されることが多いとしても、その基底規範は場面ごとに異なるし、相手との相互作用によっても変化する。逸脱の留意というのは、こうして構築され、流動する基底規範から逸脱した外来性に気づくことを意味する。正確に言うなら、決して固定的な母語規範から逸脱を留意するわけではない。

もう1つ議論したのは、はたして言語管理モデルは有効なのかというもの。フォローアップ・インタビューなどでデータ収集をしても、5つの段階(規範からの逸脱、逸脱の留意、評価、調整、調整実施)がかならずしも跡づけられるわけではなく、さて本当にこのプロセスがあるのかと思ってしまうことになる。このあたりの疑問もよく言語管理に対する批判として出てくるものだ。

しかし、ぼくらは「モデル」とはどのようなものなのかを忘れないようにしなければならない。モデルはすべての現象がそのモデルに当てはまらなければならないわけではない。ある現象がモデルに反していると言っても、それによってモデルを否定することはできない。モデルを採用して研究を行う場合には、もし現象がモデルに適さないとか観察されないときはその不適、不在の理由をモデルとの関係でさらに追求していくことになる。もしも現象の説明にモデルが本当に適さないことがわかれば、そのモデルを放棄して、別のモデルをつくるしかない。

だから、じつはモデルを批判することはたんに非生産的で意味がない活動なのだと思う。
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ゼミは生き返ったか?

2010-12-05 12:25:40 | today's seminar
金曜日は大学院の合同ゼミと学部ゼミ。

大学院のほうは、大学祭の中国留学生ブースと韓国留学生ブースを共同調査した内容の報告。

今回は、ブースの外からビデオで、ブースの中からは参与観察で、ブースでの売り買いの様子を観察してみたもの。韓国ブースでは韓国語でお礼を言ったりして韓国っぽさをアピールするのに対して中国ブースは日本語の敬語が意識して対応するところが面白い。日本語でしっかり対応しているのに、お金の支払いで迷ってブースの中で中国語でやりとりが続いたために、日本人のお客が不安になって「これ、how much?」とコードスイッチングしてしまう、なんてことが起きてしまう。

大学院生のほとんどはこうした実際場面の調査が初めてだったらしく、面食らっていたけれど、じつはまさにこれが調査の基本なわけで、少しはこうしたタイプの調査を経験した方がいいのかもしれない。

学部ゼミのほうは、こちらも同僚のM先生との合同ゼミをしはじめて3年目だが、いろいろ工夫して、ようやく研究らしいゼミが出現。学生たちはなかなか分析と言うことがわからない様子だったのが、今回は、先行研究通りに真似させたところで、みちがえる発表が出来たのだ。

データを分析するということの楽しさも感じてくれていたらよいのだけど。そうすると、ゼミも生き返ったと言えるのだが。
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携帯メールあれこれ

2010-11-29 23:48:47 | today's seminar
今学期は1,2年生用の教養授業で「コミュニケーションと社会」という科目を開いている。

2年ぶりの授業なのだけど、これがめずらしく当たりの授業で、こちらは何もしないのに学生たちが次から次へと発言する。
これまでやったのは言語景観、マニュアル言葉、モバイル・コミュニケーションの話題で、こちらがまず話題提供でいろんなところから持ってきた素材を紹介して、翌週は学生たちに素材をもってこさせて紹介してもらう。あとはどちらのときもディスカッション、という形式。

大学の授業というと教えることが中心なのだが、教えないで考える授業という逆の方向でやっている。

今日は学生の発表で、携帯メールについて三人の発表があって、なぜ絵文字や顔文字を使うのか、道具的コミュニケーションを重視する人間は簡潔なコミュニケーションになってしまうのか、そしてネットスラングとは何か、といった興味深い発表が続いて、思わずぼくも身を乗り出してしまう。

絵文字や顔文字は密接に話し言葉のコミュニケーションと関連している。ぼくらが対面コミュニケーションにいかに非言語や表情や相手の反応を頼りに自分の足場を示していくかは日々の生活で実証済みだ。そして携帯メールはその話し言葉のコミュニケーション要素を文字に取り込むことが必須になっているのだと思う。だから相手や話題が変わると、書き言葉モードになって、顔文字や絵文字は姿を隠してしまう...そんなことを考えながら、でもそんなまとめはせずに議論は続いていく、というのがこの授業での鉄則なわけだ。
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