フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

130年間で一番暑い年だが、二番は?

2010-09-13 23:52:38 | old stories
千葉に戻っても猛暑が続いている。先日は東京新聞に気象情報を取り始めてから今年が一番暑い年だったとあり、130年間のグラフが載っていた。

そんなことを言われると、自分の生きてきた年の暑さを振り返りたくなる。

グラフによると2番目に暑かったのは1994年だと言う。この年の8月末にぼくはオーストラリアの大学をやめて大阪に入ったのだが、確かに猛暑が続いていた。気象庁の統計記録をみると、大阪では8月8日に39.9度を記録している。ぼくが冬のメルボルンから大阪に着いた30日は36.0度だ。9月から宿舎に入ったのだけど、まだ何もそろっていなくて、エアコンもない部屋でへこたれていた記憶がある。

では、3番目はどうかというと、これはぐっと下って、1978年になる。なんと札幌の大学1年生である。じつはその頃の記憶でとても暑い日に近くの公園の山のようにもりあがった芝生のところで寝ころんでいたのを覚えている。札幌では1978年8月2日に34.0度、3日に35.2度まで上がっている。今の状態からみるとそれほど驚かないけれど、当時の記録をみれば8月のほかの日はせいぜい25,6度にしかなっていないから、35度は本当に異常としか言えない。ただ、こんなことをここで書いても仕方ないのだが、気になるのは当時は美香保公園の近くには住んでいなかったから、芝生に寝ころんだのはこの年ではなかったのだと思う。

そこでもう少し統計を探すと、1983年の8月5日に34.8度まで上がった日が見つかった。たぶんこの日、ぼくは札幌の東区の美香保公園で芝生に横になって太陽にじりじり焼き付けられていたのだ。82年7月にアメリカ留学から帰ってから1年が経ち、進路変更を画策していた頃だから、そんな暑い日のことも覚えているのに違いない。

130年間のグラフをみると、1960年代から1977年までは平均気温よりも低い時代が続いている。そういえば、地球は氷河期に入りつつあるなんて話がまことしやかにされていたっけ。暑い記憶はほとんどない。冬の吹雪が顔にあたる冷たさ、痛さは覚えているけれど(これは今年1月の延辺で思い出したこと)。

気象情報は面白い。自分の記憶を確かめてもたいしたことはないけど、1995年1月17日の神戸の最低気温は1.4度だったと知れば、少しはそこにいた人びとに触れる気がする。
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人は変わるものだ

2010-07-12 23:07:14 | old stories
先日、大学入学クラスの同窓会が札幌であり、ぼくは行けなかったのだが、幹事のY氏が参加者のスナップ写真と欠席した人に頼んだ自分の写真とをCDに焼いて送ってくれた。

かれこれ30年余りの時が流れて、誰が誰やらさっぱりだ。このところ毎日、眺めて、顔と名前を確認しているが、50人もいるクラス(教養のクラスなので便宜的にフランス語受講者でまとめた)なので、もともとはっきりと覚えている人が少なかったのも事実だ。

写真は当時の入学記念写真だけど、ここから現在地点の顔までは、どうやったらこうなるのだろうと思うくらい変わっている!(きっと自分の顔もそう言われているかな)でも、きっと写真に固定されているからわからないので、生身の顔が動いてくれればきっと表情とかで昔の顔が表れてくるんだろうな。

ところで、30年余り経っても変わらないのは何か?今回の写真の限りでは、男性は眉毛である。(女性は形を整えるし、眉墨も付けるのでこれは判別不可能に近い)それから、口の踏ん張り方。

とにかく、みんな無事でよかった。
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ハンガリーの山野を歩いて

2009-11-11 20:44:30 | old stories
朝、石畳の道を自転車を走らせた。初日だと言うのにちょっと遅れてしまった。
昇ったばかりの陽の陰に霜がうっすらと残っていた。息が白い。

倉庫や機械が眠っているような古い建物の並びから中庭のほうへ入っていくと、小さな看板が見える。その横の鉄の階段から2階に上がり、扉を開けた。ひっそりとしているが奥のほうからざわざわと声が聞こえている。

受け付け係に目を合わせてから、奥の教室に向かった。緊張。知り合いも一人もいない。静かに待っている人もいれば、すでに話に華が咲いているところもある。人数は10名くらい。

すぐに女性の先生が来て挨拶が始まる。ドイツ語で。教科書が渡された。A4のイラストや写真が多いDeutch Activeという教科書。それに同じ体裁の練習帳。

アルゼンチンから遊学中の少年が一人、黒いスカーフ(ヘジャブ)をつけたイラン人の中年女性が数人、ヒゲを生やしてドイツ語ができるトルコ人、そしてポーランド人の青年が二人、そんな感じだ。

この学校は政府から援助があって、移民がドイツ語習得しやすいように安い学費で学べる。ドイツ・インスティチュートの学費はとても個人で払えるものではなかった。あれは外交官や企業派遣のための学校だと言われていた。

先生はぼくから見るとやや学生がドイツ語で話すのは当たり前だという考えが強かったように思う。コメントも少しきつかった。そのせいかどうか知らないが、イラン人の女性たちは一人、また一人と学校に来なくなっていき、3ヶ月後には誰もいなくなった。文化の違いがあったと思う。アルゼンチンの少年はとくにまじめでもなく楽しみながら授業を受けていた。しかし自分はヨーロッパ文明の申し子だと思っているようで、とてもプライドが高そうだった。ヨーロッパ優越主義は、当のヨーロッパよりも南米に生き残っているという話を聞いたことがある。一番話が出来たのはトルコ人の男で、彼は誰ともよく付き合うことができた。彼の話によれば、トルコで新聞の編集をしていたが、逮捕されそうになって亡命してきたのだと言う。今も国際警察に手配されていると言っていた。

そんな中にポーランドの青年が二人いて、一人は背が高くブロンドの髪の持ち主、もう一人は眼鏡をかけて中肉中背でややうつむき加減。どちらも工場労働者だったと言う。それ以上はあまり話さない。東欧の無口な工場労働者が何者かはじつはだれにもわからないことだ。医者だったかもしれない。二人は今年の春先、まだ雪の残っていたハンガリーの山野を歩いて、オーストリアとの国境を越えてきたのだと話していた。なにも知らないぼくはただそんなこともあるだろうとしか思わなかった。

これが、以前に紹介したことのある藤村信の遺作を昨日読んでいて思い出したベルリンの壁崩壊1年前の話だ。

ポーランドからの脱出者は、彼ら二人のように前年から増加していた。しかしまわりにはそんな気配はなく、ただ日常が続いていた。東欧に行くときだけはビザを取ったり、銃を持った国境警備兵の検問に緊張したりしたが、壁(国境)のこちら側では落ち着いた生活が続いていた。
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パロディについて新しく学んだこと

2009-11-04 23:32:34 | old stories
古い頃からつながる最近の話を1つ。

たぶん中学3年生のときに合唱大会でクラスで選んだのが「あの素晴らしい愛をもう一度」だったと思う。

まだ、フォークソングを合唱曲に選ぶのはちょっとした勇気のいる時代で、まさかその後、教科書に載ることになろうとは思わなかった。当時、もっともかっこよかったのは北山修で、若者の代弁者としてラジオのパーソナリティをしたり著作を発表したりして、ぼくは遠い北海道で彼から時代の香りを嗅いでいたところもあったのだろう。

その後、札幌の高校では北山修が札幌医科大の研修医だから、健康診断に来るかもしれないなんてまことしやかなうわさが周囲に流れていた。ウィキなどでは1972年医大卒業後、札幌医科大で2年間研修医となるとあるから、ぼくが高校に入った頃には、まだ札幌にいたかそれともロンドンに留学したかの微妙なところだったようだ。

それから北山修の名前にもフォーククルセイダースの名前にもほとんど遭遇せずにいたけれど、2002年に突然、アルバム『戦争と平和』が発売されて、どういう経緯でそうなったかもう思い出せないが、そのCDを買ったのだ。パロディとジョークと皮肉ときまじめさが、古い唄(e.g.「ヨイトマケの唄」、文化大革命の中国を思わせる「あわて床屋」)もフォークソングの古典(「花はどこへ行った」)も、そして捕鯨禁止を理路整然と茶化した「今日の料理テーマ~鯨のステーキ・グリーン・ピース添え」もごちゃまぜにして、ものすごい選曲センスと知性で並べられていることに驚嘆した。もちろん、このCDが9.11とアフガン戦争に対して制作されたことは知っていたけれど。

最近、そのCDと同じ時期に公演された2002年の『新結成記念解散音楽會』の放送を見た。ずっとそのコンサートがあったことは知っていたけれど、見るのは初めてだった。(関係ないけれど、その昔、Simon and Garfunkelの再結成コンサートがあったときはぼくはわけも知らずマサシューセッツの家の古い白黒テレビでコンサートを観ていた。再結成ということも知らずに)加藤和彦が一人で歌った曲は「11月3日 (雨ニモマケズ)」だったり、「感謝」であったりと、そしてその歌いっぷりも含めて、彼がとてもきまじめだったことを理解した。彼の音楽的なパロディ精神(この言葉はモーツアルトを思い出す)はこのきまじめさと表裏一体だと言うこと、あるいはきまじめさのないパロディはただの悪い冗談でしかないことに気がついた。もしかしたらパロディ精神が音楽の中で発揮されていれば幸せだったのに、バランスが崩れて、音楽を越えてしまったのかもしれない。
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コソヴォの指揮者

2009-06-25 00:23:59 | old stories
コソヴォという名前に関わったことはない。

ぼくが訪れたのはまだユーゴスラビアという国があった頃のサラエボやドブロブニクだけだ。ウィーンの南駅の横のバスターミナルから、コーヒー豆の密輸団といっしょに、深夜バスでユーゴスラビアに向かった。国境、検問と、何度も止まるたびに、密輸団はごそっごそっと、警察に連行されていき、朝、サラエボに着いたときにはほんの一握りの外国人しか残っていなかった。しかし、サラエボは魅力のある街だった。まだ多文化が崖の断層にみごとに堆積するような、艶のある雰囲気を醸し出していた記憶がある。海岸の城塞都市を作り上げている大理石のドブロブニクについては言うまでもない。

だが、その後、5年も経たないうちに、そこは敵意の充満する土地に変わる。コソヴォの名前は、そのユーゴスラビアが崩壊した後に、世界に知られることになる。そして今も不安定な政情は変わっていない。じつはコソヴォのその土地は何百年も同じことが繰り返されてきた。Wikkiを調べると、暗澹とする歴史が延々と書きつづられている。

もう先週になるが、BSで「戦場に音楽の架け橋を~指揮者 柳澤寿男 コソボの挑戦~」を観て、まだそれが頭に残っている。この人は、ようやく復活したコソボ交響楽団の正指揮者として迎えられた人だが、音楽を聴く心がまだ残っているとも思われないところから、音を復活させようとしている人だ。そこから彼は、セルビア人の住む地区とコソボの主要な民族のアルバニア人が住む地区が橋によって隔てられているミトロビッツァで、多民族の小さなオーケストラのコンサートを企画するのだ。演奏家に頼むだけでもたいへんなことだ。演奏家にとってもその仕事は命がけだからだ。どこから弾や匕首が飛んでくるかわからない。

音楽はいつの時代も政治と関わってきた。それは、音楽がつねに境界を越えて拡がる力をもっていたから。だから音楽を政治に利用されないために、つねに人は政治を解体していくように音楽をつくり出していかなければならないのだろう。コソヴォで指揮者であるということは、きっとそのようにして政治的にあることなのだと思う。
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ゲゾイゼ渓谷と探卵患

2008-11-24 23:30:10 | old stories
これはほんとに古い話だが、かつてウィーンのPettenkofengasseにいたときのこと、向かいのアパートにウィーン大学日本研究所創立者のスラヴィック名誉教授がお住まいだった。

スラヴィック先生は昼寝をして、夜になると起き出して仕事をするという話だったが、なるほど夜12時頃からずっと窓のカーテンから灯りが漏れていた。そのスラヴィック先生にお会いすると、斎藤茂吉との出会いや短歌をもらったことなど嬉しそうに話してくれたものだ。それからアルプスのゲゾイゼ渓谷は面白いとも教えてくれた。

日本研究所には小さな図書室があって、ほとんど空気も入れ換えないために澱んだほこりっぽい中に文学書が並んでいたが、その中からぼくはときどき鴎外や茂吉の随筆を借りては読んでいた。茂吉の留学時代のもの、とくにウィーン時代のものには名文の、そしてかなり自由自在に書かれたものがあった。有名な「接吻」というのもそうだし、ゲゾイゼ渓谷をウィーン人の娘といっしょに旅をした話も読んだ。その随筆は「探卵患」という題名で、恥ずかしいが、今の今までとくに調べようともせず意味のわからなかった題名だった。

ところが、先日、何気にスラヴィック先生の名前をネットに入れてみると、ウィーン大でお世話になったパンツアー先生が書かれたスラヴィック先生と茂吉との関係についてのエッセーに当たったのだ(http://www6.ocn.ne.jp/~kaisendo/mokitida.htm)。そこでぼくはスラヴィック先生が1997年に亡くなられたことを知ったのだが、同時に「探卵患」を久しぶりに思い出したのだ。

「探卵患」は冬のゲゾイゼ渓谷を旅する話で、旅館に泊まって、後学のためにと娘にタライで朝の湯浴みをする姿を見せてもらったあと、「探卵患」と文字を書いて筆を置いている。20年ぶりにぼくはグーグルにこの3文字を入れてみたのだが、そこには、

「「探卵之患」(たんらんのうれい):自分の拠り所を襲われることへの恐れ。内幕を見抜かれる恐れ。親鳥が巣を離れている隙に卵を取られてしまう心配のこと。」

とあったのだ。茂吉は果たしてこのタンランノウレイを題名にしたのだろうか。もしそうだとしたら、彼は何を恐れたのか?

ともあれ、パンツアー先生とスラヴィック先生に感謝をしよう。
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けんかの笑い話

2008-11-10 00:30:48 | old stories
科研の応募もすっかり終わって気持ちが軽くなりつつあり。

この土曜日はパンケーキをつくって遅い朝ご飯を食べながら、何の拍子かケンカの話になった。

どうやら奥さんの大学の留学生が、渋谷あたりでまだ初級日本語能力しかないのに日本人とケンカをしたのだと言う。わけもわからずケンカをしたんだろうね、と言うので、いやいや日本語なんかできなくたってケンカはじゅうぶん成り立つよ、と私。というわけで娘も入れてケンカ話に花が咲くことになった。

じつはね、ウィーンでもケンカをしたことがあるんだよ。悪いレンタカー屋に言ってエンジンが故障したのに文句を言ったんだけど、なんせ非を認めないのがあちらの流儀だから、そこでケンカ越しになって胸ぐらをぐいっとつかまれそうになったから、こっちは伝家の宝刀で、柔道のマネ(ほんとは出来ないくせに)をちょっとやったら、こっちもびっくりするくらい素早く手を離したんだな。と話ながら、なんだか恥ずかしくなった。与太話を娘に話したりして。

と思っていたら、今度は奥さんがぼくのもう1つの武勇伝をばらし始めた。パパはねフランスでフランス人をフランス語で叱ったことがあるんだよ!向こうの新幹線で禁煙車両なのにぷかぷかやっているフランス人がいたの。そこでパパは我慢していたんだけどついに、つかつかと歩いていってNE FUME PAS!(吸うな!)って叱ったんだね。さすがにフランス人もすぐやめたんだけど、あとで殴られるかとひやひやした。

最後は娘の保育所の思い出話。あのね、保育所ではね、けっこう男の子とケンカになったの。ケンカするとね、よく男の子に腕を噛まれたんだよ(こちら:はっはっは!)。だからこっちもちょっと噛んでやったんだ。(こちら:君たちは動物園だな!)

教訓:ケンカは子供のときに限る
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基金の思い出

2008-06-29 23:25:28 | old stories
今日は一日、大雨。

昨日は慣れない東京駅で丸の内線に乗り換えて四谷3丁目まで行ってきました。東京駅はすでに警察の人たちが改札口に何人も立っていて、サミット特別警戒が始まっていました。子供の頃家族で連れて行ってもらったりしていた洞爺湖畔でサミットが行われるなんておかしな気がします。

京葉線をでたところから丸の内線に辿り着くためには、ながくて真新しい地下通路を延々と歩いていかなければなりません。この真新しい地下街はいったいどんな場所なのかさっぱりわからないまま、何とか丸の内線に着き、そこから四谷3丁目まで行って、新しく移ったという国際交流基金まで出向いて某仕事をしてきました。

国立大学に日本語教育の科目がなかった80年代には、日本語教師になりたいなら、基金と国語研究所の養成講座と言われるほどで、国研の研修を受けたぼくにとっても基金の名はとてもなじみがあります。

非常勤の仕事を初めて麹町でしたときに、すぐ裏手の紀尾井町に交流基金があって、ときどき変な用事で出向いた記憶があります。あのあたりは、紀伊、尾張、井伊の3家の庭園の名残があって、谷も刻んでいるため木も多く、柔らかな春の日射しが木立から射していたのを覚えています。あれはバブル寸前の頃だから良い時代だったのかもしれません。

それからまたしばらくして浦和に国際日本語センターが出来て、オープン寸前だったときに、国研のアルバイトで連れて行かれ、そこの録音スタジオを借り切ってビデオ編集を夜遅くまでやったこともありましたっけ。その後、とんと縁のなかった基金ですが(だから六本木の基金のことはまったく知りません)、これからしばらくお仕事をさせてもらうことになったわけです。

外務省系の基金はいつも洒落ていて風通しのよいところだと思っていましたが、ぴかぴかすぎるためになかなか私には入りがたい気が昔はしていたのだと思います。学生時代に2大学、教師になって4大学を渡り歩いていますが、みんな公立系で綺麗とは言い難いところばっかりだったわけですし。まあ、入りが難いという感じは今も同じかな...。
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昔の留学、最近の留学

2008-03-22 23:08:42 | old stories
3月に湖南大の先生をお招きして開いていた会議で少し留学ということについて考える機会がありました。現在の短期留学と私のときの交換留学とは、ともに留学が体験型であるという意味で、学位を取ろうとする留学とは区別されて、価値付与型留学と名付けられるものです。異文化の環境との接触、その土地の人とのパーソナルな接触が中心であって、学位を取ろうとして制度の中に入っていく社会との接触はあまりないのが特徴だろうと思います。

私自身は英語がうまくなったわけでも新たな知見を身につけてきたわけでもなかったし、さらにはカルチャーショックなども受けなかったんですね。しかし、1年アメリカにいて、何か自分の芯のようなものが出来た気はしたのです。それは小さくて微かな感覚だったけど、その後少しずつ確かなものになっていったのですね。つまり、たいした異文化体験をしたわけでもないのですが、それでも日本にいるときとは質の異なる接触があって、最近の流行の言葉なら「自分探し」とでも言えそうな変化があったのだと思います(正確に言うと、自分探しばかりやっていた時期から、自分探しをやらないことにした時期への変化で、逆の事態が起こっていたのですけど)。

そこで、最近の留学ですけど、きっと同じような過程を経験している人もいるだろうなとは思っています。ただ、インターネットの普及などにともなう国境の敷居の低さや、海外旅行が当たり前になっている時勢、そして留学そのものが大学産業の重要な商品となっている現在の状況では、おそらく留学しようとする人の気持ちにも、また留学生活にも、何らかの影響があるのだろうとも思うわけです。

それがどんな影響かはわからないのですが、短期留学が国際交流・異文化接触を促進する目的で実施されているにもかかわらず、短期留学生にどうやって異文化接触を経験させてあげればよいかを議論しなければならないとしたら、一概に良い影響だけとは言えない、とも思ってしまいます。
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冬の底

2008-01-17 23:26:34 | old stories
千葉では朝起きると、うっすらと雪がひろがっていました。初雪です。
会議をしていても部屋はなかなか暖まらず、寒い1日でした。もちろん、千葉では、という限定がつきますが、それでも寒いことは寒いです。

冬の底から眺める、という経験がないわけでもないなあと遠い記憶をたどると、それはなぜかアマーストの大学の寮から眺めた朝の景色が思い出されました。

というわけで、久しぶりの思い出話です。

それは秋学期の終わりに寮を出ると決めた日の朝で、遅い朝日が雪原となってまぶしいグラウンドを照らして、空は驚くほどに青黒く高い、そんな景色です。私は冬の底に自分の足ですくっと立って、寮生活に別れを告げたのだったと思います。

冬の底とは何かの出発の場所でもあるのかもしれません。
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