フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

特別編:北杜夫の文学と文学サークル

2011-10-29 22:36:24 | today's focus

北杜夫が24日に亡くなった。84歳だった。斎藤家はお兄さん(94歳)もお母さん(89歳)も長生きをしたから長命の家系なのだろう。茂吉は71歳で亡くなっているから、やはり長命は斎藤家のほうなのかもしれない。

北杜夫と言えば、彼の周りにいた辻邦生、森有正、遠藤周作、なだいなだ、阿川弘之、そして別な方向から埴谷雄高、三島由紀夫、などの名前が浮かんでくる。さらに彼が愛してやまなかったマンやドストエフスキーやリルケなどがそこに加わってくる。北杜夫の文学の周囲には、戦後文学でも第三の新人(遠藤周作はここに入れられていたけれど)でもべ平連でもない、東京山の手のお坊ちゃんの文学者が集まっていたように思う。ぼくは彼らの育ちの良さ、ユーモア、ペーソスに引きつけられたのだろう。精神の偏りや強ばりがなく、しなやかとか柔軟とか、そういった心のあり方が、欧文の香りと古語の融合によってつくられる魅力的な文章を通してとどいてきたのだと思う。

北杜夫はマンボウものを省くと、作家生活の後半はほとんど寡作と言っていい。初期作品の後になっての刊行を除いて主な作品をあげてみる。

1960 幽霊、航海記、夜と霧の隅で、羽蟻のいる丘、

1964 楡家の人びと

1966 天井裏の子供たち、白きたおやかな峰

1968 黄色い船

1969 星のない街路

1972 酔いどれ船

1975 木霊

1976-7 北杜夫全集

1982-86 輝ける碧き空の下で

1991-1998 青年茂吉、壮年茂吉、茂吉彷徨、茂吉晩年

2000 消えさりゆく物語

とくに全集を出してからは、長編小説は1本に過ぎない。幽霊は最初、4部作のつもりでいたものだが、結局、第2部にあたる木霊で終わってしまった。北杜夫には彼の心の旅としてのそれらの作品、その外形を社会史の中に描いた楡家の人びとがあるが、それとともに海外に出た日本人の姿をさぐるもう1つの流れがあった。なぜこの流れがあったのか、北杜夫を考える一つのカギがここにある気がする。そういえば、北杜夫の文学をどのように位置づけるのか、その作業はこれからようやく始まることなのだと思う。

韜晦の人だった北杜夫とは本当は誰だったのか、改めて考えてみたい。

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接触場面であることを認めないという態度

2011-10-19 23:07:56 | today's seminar

今週、大学院の授業でGumperz, Cook-Gumperzの編集によるLanguage and Social Identity (1982, Cambridge: Cambridge University Press)の第1章 Introductionを読んでいた。この論文集が対象としているのは、アメリカの移民や非標準英語の話者たちが自分たちのethnicityを示す話し方を指標としてコミュニティを形成しはじめた新しいタイプのethnicity identityである。

その説明を読んでいて、言語能力ではなく社会言語能力上のクセのようなものが誤解を与えること、それだけでなくポスト産業社会のさまざまな官僚主義的な手続き(e.g.就職面接)において問題が起こることが主題になっていることはよくわかった。

ただ、ぼくはまたべつなことも考えていた。移民たちが2世、3世になり、言語問題が消えたときに現れる言語問題を考えたときに、当事者たち、研究者たちも、メインストリームのアメリカ人と移民のインターアクション場面を接触場面とみなしていたのだろうか、ということだ。おそらくそうはみなしていない。だからここには接触場面であることを認めないことによって問題の所在が潜在化されてしまう、新たな言語問題が生じているのだろうと思った。アメリカの研究者が接触場面に理解を示すことが少ないことは明らかだ。そして、先日のシンポジウムに来てくれたチェコの人々もまた接触場面について触れることが非常に少ないことも示唆的だ。

ある相手とのインターアクションの場面を特別なものとして捉えること、それは相手自身を別な態度でもって接することにつながるが、それは彼らの対人的な信念と相容れないものがあるのかもしれない。つまり、あくまでも普遍的な人間として相手を遇することが基本態度としてあり、接触場面の概念はそこから逸脱してしまうように感じられるのではないか。だから接触場面の代わりに権力概念が持ち出されると、とても受け入れやすく感じられる。普遍的な人間同士を基本にしながら、そこでの力関係で不均衡が生じると考えれば、なんの違和感もない。

日本社会では相手の姿や言葉から特別扱いすることは朝飯前のことだ。そして、接触場面研究が始まった、日本人とオーストラリア人のインターアクションにおいては、両者の相違はあまりに明らかであり、接触場面は認めざるを得ないものであった...。

写真は研究室のある建物から帰りがけにみた夕焼け。40年前のレンズをつけて写してみた。Abent Rotというほどではない。

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2nd International Language Management Symposium

2011-10-08 22:44:30 | today's seminar

第2回の言語管理国際シンポジウムが10月1日ー2日に早稲田大と言語管理研究会の共催で無事に終了した。

第2回というのは、3年前に最初の試み("Workshop")がメルボルンのモナシュ大で開かれたからだ。今回は、世界中に呼びかけたところ、日本、チェコ、オーストラリア、香港、ケニアから17人の発表者が日本に集まって行われたもので、じつは画期的なことだった。

共有テーマは「Norm Diversity and Language Management in Globalized Settings」というもので、とくに規範をめぐっての議論が活発に行われた。接触場面で基底規範が設定されるというときに、ある規範が選択される、という表現をめぐって、規範がまるで前もって存在しているかのように考えてしまうことは問題であって、相互作用のなかで構築されていくものである、ということが、少しずつ意識されるようになったことはよかったと思う。

ぼく自身は、浦安調査から地震のときの日本人から外国人にむけて言われた言葉の事例を紹介して、基底規範が構築されず、コミュニケーションも失敗する条件を考察してみた。nonlinguistic contextとindexical meaningとが双方に受け入れられなければ基底規範も設定されないというのが主旨。ぼくは英語をすらすら言える能力はもっていないので、全部、原稿を書いて発表。書くと英語は一応出てくる。

いろいろ面白い話はあるのだが、今日のところはこのへんで。

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番外編:Steve 1955-2011

2011-10-06 22:40:00 | today's focus

 

コンピュータはぼくにとってはやはり書くための道具だ。

マサチューセッツ州アマーストに留学したときに、初めてSmith Colonaの電子タイプライターを買ったところからぼくの手書き生活からの離陸は始まったのだろう。

そのあと、日本でワープロが出現して、ぼくはたった40字のモノクロ液晶画面のサンヨー・ワープロをもってウィーン大の仕事にむかった。メルボルンに向かうときはやはりサンヨーのSanward340という400字が画面にみえるワープロを持って行った。文豪とかRupoとかなぜか買わないんですね。

メルボルンではしばらくそのSanward340を使っていたが、研究論文を書く作業がそれではうまく出来ず、同僚からNECのPC-9801UXを安く分けて貰ったところから、コンピュータとのつきあいが始まる。

日本に戻ってからのおおまかなコンピュータ歴を記録しておく:

IBM ThinkPad 700C(国内ではPS/55note)

IBM Aptiva 720

このAptivaが突然、ブラウン管のモニターが死んでしまったこと、そして当時の大学でApple Performaを購入してくれたことから、ぼくのApple歴が始まる。

Apple Performa 5400

Powerbook 2400c/180(Appleとの感情的結びつきが決定的になった)

Powerbook 2400c/240

iMac

iMac DV SE

Power Macintosh G4 (Quicksilver)

iMac (Flat Panel)

eMac

Powerbook G4 (Titanium)(チタニウムの手触り!)

Power Macintosh G5

Powerbook G4 (Alminum)

iMac G5

iMac (Late 2009)(デスクトップの完成形)

Macbook air

Macbook

Macbook pro

iPod 第3世代

iPod第4世代

iPod nano

iPhone 3GS

Steve, I have used so many Apple devices. Thank you for your staying hungry and foolish...

 

 

 

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合同合宿 in 伊東

2011-10-03 23:23:24 | today's seminar

ちょっと遅くなったが、9月23−25日に伊豆伊東で神田外語大と千葉大の合同合宿を行った。

久しぶりに2泊3日で、神田外語大は祝日も授業があるため、2泊したのは4年生だけだったが、やはり2泊するとちがう気がする。旅のなかに浸る時間ができるのだと思う。

今回は千葉大から予算をもらったので、モナシュ大学からセーラ先生にきてもらい、オーストラリアの日本語教育、オーストラリアの異文化接触と留学というテーマで2回もセッションを担当していただいた。まだ若い先生だが、とてもしっかり準備をしてくれていたので、学生たちにも参考になったものと思う。金曜日と土曜日の午前は留学生の日本語支援というテーマでチューターの役割を話し合う。

土曜日の午後には30名近くの学生が宿に到着して、もうそれは賑やかな合宿になった。さっそく恒例の散歩ということで、三浦按針の碑、川沿いを歩いて音無神社など歩く。夜はセーラさんの英語のセッション、日曜日は4年生の卒論中間発表と、散策のときに経験した初対面コミュニケーションの内省の2つのセッション。

10年前は千葉大だけで、ネウストプニー先生も参加してくれて2泊3日ののんびり合宿をしていたが、合同合宿は始めて5年くらいになる。最近は学生事情がかわってきて2泊3日をゆるす余裕がなくなっているのだけど、とにかく今年は僥倖だったのかもしれないと思いつつ、帰宅した。

 

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