フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

終わり、始まり、準備など

2006-07-30 12:14:46 | research
大学人にとって7月末は過渡期です。ようやく金曜日に授業がすべて終わりました。

最後の大学院講義は残念ながら出来なかったのですが、学生たちはいざ知らず、私にとっては接触場面の規範のあり方について考えることが出来た前期でした。大学院の授業は前期で2コマやってしまったので、後期はゼミだけとなります。

学部の授業もすべて終わり、最後は4年の卒論中間発表でした。まだ中間にも至っていないようでしたが、卒論などをするとその人の調査の弱いところ、強いところがよくわかります。後期に期待しておきましょう。

土曜日からは第2言語習得論の集中講義が始まりました。早稲田の宮崎先生です。終わり頃には中国の吉林大学の仕事を終えて帰国した春口君がきていたので、いっしょに晩ご飯を食べて別れました。吉林では日本語教育の仕事の経験は積んだようですが、中国を深く知るところまでいったかどうか、それは不明(笑)。

来週3日にはニューヨークの日本語教育国際研究大会に行くため、その準備に追われます。授業コーパスで研究グループの皆さんとパネルを組みます。ちなみにこれまで収集した録画データをまとめてみると、72授業、97.5時間のデータが集まっていることがわかりました。昨年1年の成果ですが、今年の残り半年でもう少し増やせるでしょうか?
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今学期授業終了しつつあり...

2006-07-27 00:37:03 | Weblog
昨日は、ずいぶん青空をみてなかったな~と言いたくなる夏の空が久しぶりに拡がりました。湿度も下がって、暑さもそれほどでもないといったところ。光が眩しいですね。

今日で学部の日本語教育方法論も終わりました。今学期は、言語政策としての日本語教育、第2言語習得と教授法、出発点としての接触場面、という3つのテーマでマクロな視点からミクロな視点へと進んでいったつもりです。接触場面がマクロな政策とミクロな習得との接点になっている重要な場面であるということなのですが、ようやくこれまでやってきた接触場面のインターアクションについて話す準備が出来たことになります。去年までは前書きがなさすぎたということになるでしょうか。

最後に授業評価をして終わりました。今学期のクラスは明るい学生、よく寝る学生などいて楽しめたのですが、小さい部屋で机が足りなかったんですね。授業評価で、最後まで机がなかった、と言われてしまいました。そりゃあそうだよなあ。
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NY行き最後の科研研究会

2006-07-23 10:19:30 | research
昨日、土曜日は朝から科研研究会でした。ニューヨークでのパネルで発表するための準備が進んでいます。しかし、まだまだすることはあって、なんと6時過ぎまで話し合いが続き、さすがにへとへとです。あと考えるべきことはないかと、相談しましたが、とりあえずパスポートの期限が切れていないか確認しましょうという話で笑って終わりました。

研究室の引っ越しはまだ終わっていません。木曜日はものを入れたところで終了となり、金曜日の朝、書架の一部を組み立ててもらいました。しかし、月曜日にも残りの書架の組み立てをべつな業者に頼んだので、段ボール開けも考えると、さていつ落ち着くことやらという感じですね。
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研究室のお引っ越し

2006-07-19 00:11:54 | Weblog
昨日の祝日は朝から大学に行って研究室の引っ越し荷造りをしてきました。私のいる校舎は西千葉キャンパスで最も古いらしく、とうとう改修の予算がついたのです。教養関係の建物でいろんな学部やセンターの先生が雑居していたのですが、この際、整理統合をしようということで、私はお隣の大学院棟のほうに移ります。

学生さんも手伝いに来てくれて荷造りは3時間半ほどでほぼ完了でした。その前に廃棄処分の書類や機材を選んでダンボールに入れたりしていたので、それもよかったかな。

千葉大にきて8年ほどこの研究室にお世話になったわけですが、何よりも4階の南の窓のほとんどを覆っているユリノキの巨木には四季を通じて癒されてきたものです。夏は日差しを防ぎ、冬は葉を落として暖かな陽を届けてくれたユリノキの写真はこのホームページの表紙を何度も飾っています。

新しい5階の研究室からはこんどはヒマラヤ杉のてっぺんが見えます。今年は授業もずいぶん例年と変えていて、引っ越しは心機一転の象徴のようなものかもしれません。
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なぜ第三者言語接触場面と内的場面は類似した調整を行うのか?

2006-07-15 13:50:19 | today's seminar
昨日の大学院ゼミは、接触場面の規範についての考察第4回ということで、ファン,サウクエン(1999)「非母語語者同士の日本語会話における言語問題」『社会言語科学』2-1 pp.37-48を取り上げました。

非母語話者同士のインターアクションの場面は第三者言語接触場面と呼ばれていますが、使用している日本語の母語話者がいないために、基底規範が弱く、その他の言語バラエティの規範はもちろん、社会的規範もまた目立ってきます。参加者は日本語能力に差があったとしてもどちらも同じようなストラテジーを使って会話協力をしていきます。

論文では最後の問題提起として、なぜ第三者言語接触場面は内的場面と類似したストラテジーを使うのか?接触場面の代表とされる相手言語接触場面(母語話者と非母語話者によるインターアクション)とは、母語規範が強調される場面ではないか、といった興味深いポイントが提出されています。

よく接触場面では日本語の規範が緩和されるというのですが、しかし接触場面で自分の規範を強く意識することも同時に起こります。したがって、規範は強められると同時に緩和されるというへんなことが起きていることになります。私はこうした現象は2つの異なる規範のシステムが関連している可能性を追求したい気がしています。つまり、母語(基底)規範と普遍規範という2つのシステムを考えてみたいのです。

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齋藤さんが訪問してくれる

2006-07-13 23:43:33 | Weblog
今日は日差しも久しぶりに現れ、気温も31度まで上がる厳しい蒸し暑さの日となりました。ぼくは1時限のオムニバスの授業のために早く起きて寝不足気味です。

校舎の改修にともなって、来週半ばには隣の大学院棟に移転することになっています。隣近所、段ボールの山がどんどん出来て、雑然としています。

7月始めから一時帰国している齋藤さんが研究室を訪ねてくれました。齋藤さんとはモナシュに実習でやってきたときからですから、付き合いはかれこれ13年以上にもなるでしょうか。

今はいっしょに科研グループを作っていますが、教室研究の内外の変化など意見交換をする楽しい時間となりました。ミュンヘンに居を構えた齋藤さんですが、話を聞くと、ドイツの大学も合理化の波にずいぶんと様変わりしたようです。ミュンヘン大学というと80年度半ばには源氏物語を教える伝統的な日本学のイメージでしたが、いまはそうしたタイプの研究は歓迎されず、現代的なテーマが支配的なのだそうです。今はムラカミハルキなのかな?
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科研研究会など

2006-07-09 23:50:45 | research
昨日は授業コーパス科研の研究会をお茶の水の東京医科歯科大学の留学生センターをお借りして行いました。久しぶりにドイツから一時帰国している齊藤眞美さんも来てくれて、お昼の食事を挟んで楽しい時間を過ごしました。ただぼくは体調が今一つ優れず、ぼんやりとしていましたけど。8月5日のコロンビア大学でのパネル発表のために、4つのグループにわかれて発表を準備し始めています。

**

昨日の、発話生成プロセスと規範の話の追加です。

「もし母語話者が勧誘をして、非母語話者が沈黙で答えたとします。母語話者は相手の沈黙に対して、接触場面のために、表層化規範を緩和して、機能のところで理解を組み立てようとします。非母語話者は当然、自分が行ったインプット(勧誘)を受け取ったはずであるから、それに対する行動は勧誘に対する応答になるはずです。したがって、沈黙と言う行動は、勧誘に対する応答となれば、「断り」として解釈されることになるのだと思います。つまり、母語話者は相手の発話生成過程の段階を1つ飛び越して、機能を推測しようとすると考えられるわけです。」

それでは、なぜ沈黙に対して、母語話者は非母語話者が理解困難ではないかと考えないのか?それは、すでに機能の段階までおりて意図を理解しようとしているために、勧誘とその応答という隣接ペアのフレームが邪魔をしているのだと思います。さらに言えば、言語問題の管理は、機能ではなく、それより表層に近い、表現や表層化の段階の現象として母語話者には見なされるとすれば、機能の段階に至っている母語話者には考慮する価値のない段階となるはずなのです。
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発話生成の段階と断りの誤解は結びつけられるか

2006-07-08 00:03:10 | today's seminar
大学院授業ではここ数週間、規範のことを考えています。以下は他の人にはわかりにくいと思いますが、私自身の覚え書きです。

今日は同僚の高先生の論文から考えました。高さんの論文では受け身の生成モデルとして以下のような過程を提案しています。

(a)インプット→(b)機能→(c)表現→(d)表層化

この各段階に生成過程と管理過程が平行して働いていると言います。また、(a)から(b)、(b)から(c)、(c)から(d)の過程にそれぞれ規範が適用されることも指摘しています。

さて、非母語話者の発話は表層化されて、発話され、母語話者の理解過程に入っていきます。初対面などではまずはこの表層化の規範が強められ、非母語話者の言語表現に注意が向けられることになるでしょう。つまり、母語話者の発話との相違を留意する段階です。しかし、時間がしばらく経過すると、今度はその表層化の規範が緩和されます。つまり、表現上の逸脱は見逃され、意味に注意をするように管理が行われます。

このとき、注意しなければならないのは、表層化規範の緩和は何も接触場面の特有の現象というわけではなく、母語場面の常態だということです。母語話者同士で話をするとき、最初は相手の方言アクセントに気がついてもそのうち気にしなくなります。同じように、接触場面でも母語話者は、母語場面と同じように扱おうと心がけることになります。これが表層化規範の緩和という現象の意味ではないかと思います。

表層化規範の緩和をすると、どの規範で相手の発話を理解することになるかと言えば、それは一部は表現に、一部は機能の段階に相手の意味を求めることになるでしょう。つまり、表層化された発話という確固とした基盤を元に理解を組み立てるのではなく、その前の機能(意図)にまでさかのぼろうとするわけです。

もし母語話者が勧誘をして、非母語話者が沈黙で答えたとします。母語話者は相手の沈黙に対して、接触場面のために、表層化規範を緩和して、機能のところで理解を組み立てようとします。非母語話者は当然、自分が行ったインプット(勧誘)を受け取ったはずであるから、それに対する行動は勧誘に対する応答になるはずです。したがって、沈黙と言う行動は、勧誘に対する応答となれば、「断り」として解釈されることになるのだと思います。つまり、母語話者は相手の発話生成過程の段階を1つ飛び越して、機能を推測しようとすると考えられるわけです。

もう1つ付け加えれば、表層化規範が個別言語の規範であるのに対して、表現、機能と下がって行くにつれて、そこには普遍的な規範や生成過程の領域が次第に拡がっていきます。表層化規範ではなく、機能の規範で理解を試みようとすることは、接触場面における、よりベーシックな規範による管理が実施されることと、類似した過程ではないかと思います。
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英語人気が多文化主義とは??

2006-07-06 00:25:41 | Weblog
7月に入りましたが、今日も強い雨とは言えないにしても、立派な梅雨です。

学部の2,3年生用の授業では今年は日本語教育の言語政策的背景に力点を置いて話をしてきたのですが、1ヶ月前に出していた宿題を読んでいて愕然としました。

「日本で多文化主義的な言語教育は可能か?」と質問したのですが、「英語が日本では盛んになってきたし、英語教育も充実してきたので、それは多文化主義の現れだと思う」という解答が実に多かったのです。

英語はglobalization、標準化の代表例であって、多文化主義は多様さを尊重する運動です。どうやったらこの2つがつながるんでしょうか?

というような訂正を授業中にしたのですが、世の中の平均的な人々もまた同じように考えている可能性があると思うと、かなり愕然としますね。
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続:接触場面のユニバーサルな原則について

2006-07-02 23:40:50 | today's seminar
博論を提出した武田さんの論文の中に初級後半の日本語非母語話者を相手にしても、日本語母語話者は勧誘・依頼などでは、相手の沈黙やあいづちの少なさを断りと取ってしまうということについての議論がありました。じつは武田さんは8年前の修論のときから同じような現象を議論していて、金曜日のゼミでは昔の修論から発表した論文を読んでいました。

従来は、Gumperzなどにもあるように、異文化コミュニケーションの誤解は上級になればなるほど問題化していくと言われてきたものです。そのレベルになると、言語の問題はないと思われるために、社会言語的な規範の違いが異文化による違いであるとは認識されなくなってしまうわけです。

しかし、依頼などの応答においては初級後半からでも同じような解釈を母語話者からされるとなると、そのメカニズムはべつな説明が必要になるように思います。武田さんが主張するようにそこでは依頼・勧誘などの目的に沿った管理と、インターアクション上の管理とがあり、多くの誤解は、インターアクション上の逸脱を目的に沿った管理規範によって解釈してしまうのかもしれません。しかし、なぜそのようなことが起こるのでしょう?

1つの可能性は、じつは接触場面性を意識した日本語母語話者が、沈黙やあいづちの少なさが断りとなる目的に沿った母語規範を採用していたわけではなく、よりベーシックな会話規範を適用したために起きたと考えることです。たとえば、グライスの会話協力の原則によって、関連性と質のマキシムを使い、日本語非母語話者の沈黙やあいづちを、文脈に位置づけようとしていたとは言えないでしょうか?つまり、接触場面だからこそ、日本語非母語話者は自分の真実だと思うことを話しているはずであり、関連性のないことを話しているはずがない、と評価していたのではないでしょうか?この逆接を接触場面性の逆接と呼んでおきたいと思います。
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