先週から授業が始まる。雑誌投稿論文の校正も終わってあとは印刷されるのを待つのみ。
雨が降る前に帰ろうと自転車をこいだのが、途中で雨が降り出す。しかし雨粒は小さく、春の雨で、冷たくはない。しかし、みるみるうちに全身ずぶ濡れになる。
ぼくはもうずいぶん前からのMacユーザーなのだが、3月に街の本屋で見つけた『Macintosh名機図鑑』(大谷和利著、枻出版社、2008)の中で目にとまったのが上の言葉。
Macのデザインを長年手がけるジョナサン・アイブズについての説明なのだが、モダンデザインがバウハウス以来、形態は機能に従うとしてきたものを、アイブズは形態は(ユーザーがその製品に与える)意味に従う」として、個人個人のユーザーがさまざまなコンテキストでコンピューターに見いだす意味という、個人的な関係を重視したデザインをしているのだそうだ。
デザインについてはもちろん何も知らないが、モダン社会の言語学が追究してきた機能が形式を束ねているとする見方と、モダンデザインの言葉とはじつに並行関係にあるという気がしておもしろい。社会言語学でも、談話分析においても、機能分析がさかんに行われるわけだが、言語使用という現実はあってもそこには言語使用の主体がない。だから容易に機能分析は構造主義と手を結ぶことが出来る。
しかし、アイブズのように、言語の使用者が言語や言語使用にどのような意味を付与させるかに注目する立場に立つと、まったく新しい視界が開けてくる。人が言語使用を管理するとは、このような個人の言語に対する解釈や意味づけの作業のことなのだと考えると、言語管理理論はアイブズのポストモダンなデザイン論と似ているようにも感じられてくるはずだ。言語管理理論が前提にしていることは、こうした個人が解釈を拡げたり、新たな文脈を求めたり、あるいは回避によってべつな意味を示したりする、場におけるそうした言語使用の主体をとらえることなのだと思う。
もう一言言うと、こうした言語管理を通じて、コミュニケーションにおいて人はどのように自分を表示しようとするかという、極めてゴフマン的なポストモダン社会のテーマもまた視野に入ってくるのだと思う。
雨が降る前に帰ろうと自転車をこいだのが、途中で雨が降り出す。しかし雨粒は小さく、春の雨で、冷たくはない。しかし、みるみるうちに全身ずぶ濡れになる。
ぼくはもうずいぶん前からのMacユーザーなのだが、3月に街の本屋で見つけた『Macintosh名機図鑑』(大谷和利著、枻出版社、2008)の中で目にとまったのが上の言葉。
Macのデザインを長年手がけるジョナサン・アイブズについての説明なのだが、モダンデザインがバウハウス以来、形態は機能に従うとしてきたものを、アイブズは形態は(ユーザーがその製品に与える)意味に従う」として、個人個人のユーザーがさまざまなコンテキストでコンピューターに見いだす意味という、個人的な関係を重視したデザインをしているのだそうだ。
デザインについてはもちろん何も知らないが、モダン社会の言語学が追究してきた機能が形式を束ねているとする見方と、モダンデザインの言葉とはじつに並行関係にあるという気がしておもしろい。社会言語学でも、談話分析においても、機能分析がさかんに行われるわけだが、言語使用という現実はあってもそこには言語使用の主体がない。だから容易に機能分析は構造主義と手を結ぶことが出来る。
しかし、アイブズのように、言語の使用者が言語や言語使用にどのような意味を付与させるかに注目する立場に立つと、まったく新しい視界が開けてくる。人が言語使用を管理するとは、このような個人の言語に対する解釈や意味づけの作業のことなのだと考えると、言語管理理論はアイブズのポストモダンなデザイン論と似ているようにも感じられてくるはずだ。言語管理理論が前提にしていることは、こうした個人が解釈を拡げたり、新たな文脈を求めたり、あるいは回避によってべつな意味を示したりする、場におけるそうした言語使用の主体をとらえることなのだと思う。
もう一言言うと、こうした言語管理を通じて、コミュニケーションにおいて人はどのように自分を表示しようとするかという、極めてゴフマン的なポストモダン社会のテーマもまた視野に入ってくるのだと思う。