フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

形態はそれを使用する人が与える意味に従う

2009-04-21 23:46:12 | today's focus
先週から授業が始まる。雑誌投稿論文の校正も終わってあとは印刷されるのを待つのみ。

雨が降る前に帰ろうと自転車をこいだのが、途中で雨が降り出す。しかし雨粒は小さく、春の雨で、冷たくはない。しかし、みるみるうちに全身ずぶ濡れになる。

ぼくはもうずいぶん前からのMacユーザーなのだが、3月に街の本屋で見つけた『Macintosh名機図鑑』(大谷和利著、枻出版社、2008)の中で目にとまったのが上の言葉。

Macのデザインを長年手がけるジョナサン・アイブズについての説明なのだが、モダンデザインがバウハウス以来、形態は機能に従うとしてきたものを、アイブズは形態は(ユーザーがその製品に与える)意味に従う」として、個人個人のユーザーがさまざまなコンテキストでコンピューターに見いだす意味という、個人的な関係を重視したデザインをしているのだそうだ。

デザインについてはもちろん何も知らないが、モダン社会の言語学が追究してきた機能が形式を束ねているとする見方と、モダンデザインの言葉とはじつに並行関係にあるという気がしておもしろい。社会言語学でも、談話分析においても、機能分析がさかんに行われるわけだが、言語使用という現実はあってもそこには言語使用の主体がない。だから容易に機能分析は構造主義と手を結ぶことが出来る。

しかし、アイブズのように、言語の使用者が言語や言語使用にどのような意味を付与させるかに注目する立場に立つと、まったく新しい視界が開けてくる。人が言語使用を管理するとは、このような個人の言語に対する解釈や意味づけの作業のことなのだと考えると、言語管理理論はアイブズのポストモダンなデザイン論と似ているようにも感じられてくるはずだ。言語管理理論が前提にしていることは、こうした個人が解釈を拡げたり、新たな文脈を求めたり、あるいは回避によってべつな意味を示したりする、場におけるそうした言語使用の主体をとらえることなのだと思う。

もう一言言うと、こうした言語管理を通じて、コミュニケーションにおいて人はどのように自分を表示しようとするかという、極めてゴフマン的なポストモダン社会のテーマもまた視野に入ってくるのだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本語教育論集』の終刊

2009-04-14 22:12:27 | Weblog
先日、『世界の日本語教育』の休刊の話をしたばかりなのに、今日は国立国語研究所の研修修了生の論文集から始まった『日本語教育論集』が今回を持って終刊という話。こちらは国研が大学共同利用機関法人人間文化研究機構(18文字!)に移管されることから当然、予想されていた事態ではある。

なぜ終刊の話をするかと言うと、この間、論集の編集委員会から手紙が来て、終刊にあたって編集委員による実践研究論文の方法を解説した論文を載せるが、そこにこれまでの査読コメントを例として出すことになったとのことで、その利用の許諾依頼がきたわけだ。目的の作り方、データの示し方など、問題点の指摘例を出して、実践研究の道案内としたいという。しかし、じつはもうずいぶん昔に頼まれて編集委員をさせていただいたときのコメントなので、自分のコメントがどれなのか到底判別できない。まあ、許諾ということですね。

その昔、日本語教育に従事しようと思ったら、国立の大学にはそんな授業はなかったわけで、交流基金か国研の研修を受けるのが、もっとも可能性の高い道筋だった。国研の長期研修生はいつまで続いたのかはっきりは知らないが、田中望先生の体制下に多くの日本語教師が巣立っていったものだ。その試行錯誤の跡がこの論集の初期にはよく見ることができる。資料的な価値も含めて、ぜひ電子化して公開してもらいたいところ。

それから実践研究論文というジャンルが、結局、いまだに花開いていない気がするのは、ぼくだけだろうか。教育実践を研究論文としてまとめようとするとき、教育学的な論文にはきっとあるのだが、言語学や日本語学を前提にした場合には、結局は普通の研究論文のレベルまで高めなければ、納得できるようなものには至らないのではないのだろうか?質的な研究の方法にはきっとヒントがあるのだろうが、うまく芽が出ていない。アクション・リサーチには残念ながら長友先生と同様に懐疑的。ぼくはこのジャンルが意義のあるものであることを疑ったことはないのだが...

ともあれ、一時代を画した国研の日本語教育はここで一つの役を終えることになったわけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本語教育データ収集室片づけなど

2009-04-11 23:57:28 | Weblog
今週は、入学式、新学期のガイダンス、今年度最初の教授会など、授業開始までの準備の1週間だった。新入生たちがどんどん集まってきていて、サークル勧誘などで、キャンパスはごったがえしている。例年こんな感じだったろうか?

金曜日は学生さんにお願いして、改修されてきれいになった文学部棟の3階にあらたに設けられた日本語教育データ収集室の片づけをする。もともとはネウストプニー先生の研究室だったところを学生控え室として使っていたもの。階も場所も変わったので、防音扉のついたデータ収集室に作り替えてもらったわけだ。学生控え室から持ってきた机や書架はまだいいものの、コンピュータなどは10年前からあるものばかりで、一瞬見たあとは、捨てることで全員一致。床にはカーペットが張ってあって、なかなかの部屋だけど、そもそも「データを収集室で取る」タイプの研究よりは、収集室を出てフィールドに入り込み、豊富な文脈のままに言語現象を感じてくるほうがずっと貴重な事実を得られることが多いわけで、さて、どうやって使ったらいいかしらん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『世界の日本語教育』休刊

2009-04-08 22:50:56 | today's focus
毎年この時期のブログを読みかえすと、いつも桜の花弁の散りかたについて書いている。今日も、じつは大学の桜並木から風もないのにおびただしい花弁がカーテンか滝のように散り続けているのを見た。中原中也との最後の思い出を小林秀雄が書いた短いエッセーに、鎌倉の寺の境内にある海棠は、あれはわざと花弁を散らしているのだ、何という静寂、何という完璧さ、と書いていたそんな感じもあった。しかし、無粋なことを言うと、それはなんだかむせかえる杉花粉のようにも見えて、鼻がムズムズしてしまった。

さて、表題のこと。昨年から編集委員を仰せつかっていた国際交流基金の雑誌『世界の日本語教育』が今回の19号をもって休刊となってしまった。国立国語研究所の日本語教育部門が解体されることになり、国際交流基金も必死に生き残り策を考えているらしいが、その一貫で、雑誌は当面休刊ということらしい。

ぼくのように海外で日本語教育を始めた人間にとっては、基金とその雑誌は、国研(あ、すみません、私もOBです)や日本語教育学会などの国内の日本語教育と違った風通しの良さを感じてきたこともあり、とても残念ではある。『世界の日本語教育』は教育研究、学術研究の両方をうまくバランスを取りながら、海外の教師や研究者の論文投稿を積極的に促進してくれたものであり、文字通り世界のさまざまな国や地域で行われている日本語教育のハブとなっていたはずである。

雑誌編集について、さらにpeer reviewの原則を強めたいと思ったりしていたのだが、今はそれもかなわない。

留学生30万人計画がすすめられつつあるこの時期、何ともチグハグな文化政策である。あ、そうか、ニッポンには文化政策などなかったんだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする